2024.12.15「わたしより力ある方が来られる」 YouTube
聖書箇所:ルカによる福音書3章10~18節(新P.105)
10 そこで群衆は、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。
11 ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。
12 徴税人も洗礼を受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。
13 ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。
14 兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。
15 民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。
16 そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。
17 そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」
18 ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。
1.洗礼者ヨハネ
今日はアドベント待降節第三主日の礼拝をささげます。このクリスマスを待ち望むアドベントときに、教会のカレンダーは新約聖書に登場する洗礼者ヨハネを取り上げ、そのヨハネの語るメッセージに私たちが耳を傾けることを勧めています。今日、私たちが読んでいるルカによる福音書は洗礼者ヨハネの生涯をその誕生前の出来事から詳しく取り上げています。この福音書の記述によればイエスの母マリアと洗礼者ヨハネの母エリザベトは親戚筋にあって、互いに知り合いであったことが分かります。ヨハネは年老いた両親、つまり母親であるエリザベトと父親であるザカリアの子として、その誕生の経緯もとても不思議なものであったことが聖書に紹介されているのです。
今日の聖書箇所では洗礼者ヨハネはすでに成人となり、ヨルダン川で活動する姿が取り上げられています。同じ出来事を紹介したマタイによる福音書は洗礼者ヨハネについて「ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた」(3章4節)と説明しています。ヨハネは当時の多くの宗教指導者たちが神殿のあったエルサレムの町で活動し、自分を権威づけるために立派な服装をまとったのとは違い、まったく異質な人物として描かれています。ルカの福音書はこのヨハネこそ旧約聖書のイザヤ書に預言された人物であったことを説明しています。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、/山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、/でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」(3章4~5節)
このイザヤの言葉が示すようにヨハネは主の道を整える者としての使命を果たすために活動しました。旧約聖書は「メシア」と呼ばれる救い主がやって来ることを告げています。しかし、時代が変わってもそのメシアはなかなか現れません。ヨハネが現れたとき旧約聖書の最後の預言者とされているマラキの時代からすでに400年以上の歳月が流れていました。それにもかかわらず神を信じる人々の環境は相変わらず何も変わっていないばかりか、ますます悪くなっているように思えました。そのため民衆の関心は聖書が約束するメシアではなく、自分たちの日ごとの生活をどうするかにだけ目が向けられるようになっていました。洗礼者ヨハネはそのような人々に、約束のメシアがもうすぐ来られることを預言し、すべての人がこのメシアを迎える準備をするようにと訴えたのです。
クリスマスを待ち望む私たちがこの洗礼者ヨハネのメッセージに耳を傾けるといことは、クリスマスを毎年やって来る年中行事の一つとしてではなく、私たちの人生を決定的に変える神の御業が実現するときと信じ、迎えるように教え、そのために私たちの心を準備させる意味があると言ってよいのかも知れません。
2.蝮の子孫よ
聖書はこのヨハネから洗礼を授けてもらおうとして人々がたくさん彼の元を訪れたことを語っています(7節)。ヨハネはヨルダン川の近くの荒れ野を活動の拠点としていたと言われています。荒れ野は荒涼として何もない風景だけが広がる場所です。そこは人が生活できる場所ではありません。その荒れ野を目指してたくさんの人々が集まって来たと言うのですから、当時、洗礼者ヨハネの名前が広く知れ渡り、人気の的となっていたことが分かります。なぜ、ヨハネがこんなにも人気の的になっていたのかははっきりとは分かりません。おそらく、ヨハネを通して語られた神の言葉が多くの人々の心を捉え、彼らを荒れ野のヨハネの元に導いたと考えることが正しいのかも知れません。
教会に今集まる私たちにも人を引き付ける魅力はないかも知れません。しかし、私たちが神の言葉を信じ、その言葉を忠実に伝えようとするなら、多くの人々はその神の御言葉に導かれて教会に集まって来るはずです。そのような意味でヨハネは神の言葉を伝える伝道者の模範と言える人物なのかも知れません。
さて、この洗礼者ヨハネの元に集まって来たのは様々な集団や職業を持つ多様な人々であったようです。そして、洗礼者ヨハネはそこで自分から洗礼を受けようとしてやって来た人々に次のように語っています。
「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」(3章7~9節)
「我々の父はアブラハムだ」と言う言葉から分かるように、ここに集った人々は旧約聖書に登場するアブラハムを先祖とするユダヤ人たちでした。彼らは自分たちの先祖であるアブラハムと神との間で結ばれた契約によって、自分たちは特別な民とさていると信じていました。この言葉と対照的なのは聖書に登場する「異邦人」と言う言葉です。これはアブラハムの子孫ではない人々、つまり神とは全く無関係な人々のことを意味しています。ユダヤ人は「自分たちは特別だ」と考えていましたから異邦人を軽蔑し、彼等と交わりを持つことも避けていたのです。いずれにもしてヨハネの元に集まったユダヤ人たちはそのような意味で自分たちだけは特別という優越感を持って生きていた人々であったと言えるのです。
しかし、洗礼者ヨハネは大胆にも彼らを「蝮の子らよ」と呼んでいます。それは彼らが持つ「アブラハムの子」だという優越感は神の前では何の役にも立たないことを明らかにするためでした。ご存知のように聖書は人が神の前に立つことができる唯一の方法は、救い主イエスを信じることだと教えています。そのような意味で彼らの先祖アブラハム自身は神との約束を通して、この救い主を信じ、待ち望んで生きた人だと言ってもよいのです。ですから彼らがアブラハムから見習うべきであったのは彼の救い主に対する信仰だったのです。ところが彼らはそれをすっかり忘れて、「自分たちだけは大丈夫」と偽りの確信の上にあぐらをかく信仰生活を送っていたのです。だからこそ、ヨハネはユダヤ人たちに「悔い改めにふさわしい実を結べ」と強く訴えました。この悔い改めとは自分がより頼んでいる偽りの救いの確信を捨てて、まことの救い主イエスに心の目を向け、彼を信じて歩むことを勧めていると言えるのです。
今、私たちの自分の人生で何を頼りにして生きているでしょうか。ヨハネは私たちの人生から私たちが頼りにしている様々なものがたとえ無くなってしまったとしても、決してなくならい、そして私たちがどんな人生を歩むことになっても私たちをしっかりと支えてくれるものが何であるかを教えようとしています。それは救い主イエス・キリストです。ヨハネは私たちに私たちの人生を支える本当の救い主であるイエス・キリストを受け入れる準備するために「悔い改め」、つまり心の方向転換をするようにと勧めたのでした。
3.何をしたらよいのか?
①神の御心に従った財産の使い方
次にルカによる福音書は「悔い改めにふさわしい実を結べ」と訴えたヨハネのメッセージを聞いてショックを受けた人々とヨハネとのやり取りを次に紹介しています。まず、最初は群衆、つまり「我々の父はアブラハム」だということだけを頼りにして生きて来た人々です。彼らはヨハネに対して「わたしたちはどうすればよいのでしょうか」(10節)と尋ねています。するとヨハネは彼らに対して「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えています(11節)。
聖書は私たちの持っているものすべてものの本当の所有者は神御自身であると教えています。そして私たちは神のものをあずけられ、それを管理することを委ねられている者たちだと言うのです。ヨハネはその神の御心に従って、神からあずけられた財産をふさわしい方法で用いなさいとここで彼らに命じているのです。その財産の一部は自分たちの生活のために、また他の一部は困っている隣人を助けるために使うことが神の望まれる使い方です。そうすれば、私たちは自分の財産以上に大切な隣人との愛の交わりを分かち合うことができるからです。
②神に対して誠実になって与えられた職務を果たせ
また次に登場するのは徴税人と呼ばれる人々です。この徴税人はユダヤ人でありながらユダヤを植民地として支配するローマ帝国に仕える下級役人たちです。彼らはローマ帝国に決められた上納金を収める義務を負う代わりに、人々から税金を自由に徴収するという権利を与えられていました。彼らはその際、民衆に多額の税金を納めさせて、その一部を自分たちの財産として蓄えていたのです。そのため、徴税人は人々の憎しみの対象となっていました。ヨハネは彼らに次のように勧めています。
「規定以上のものは取り立てるな」(13節)。
つまり、ヨハネは徴税人たちの働き自身を否定するのではなく、彼らが徴税人の権限を濫用して、民衆に重税を課すようなことをしないようにと戒めたのです。
さらに次に登場するのは兵士たちです。この兵士はローマ軍の兵士なのか、それともガリラヤの領主ヘロデに仕える兵士なのかははっきりしません。いずれにしても、兵士は民衆と違って武器を持っています。本来兵士は治安を維持して民衆の生活を守るために働くことが使命であるはずですが、当時の兵士はその武力を使って民衆を脅し、金品を巻き上げるというようなことをしていたのです。だからヨハネは彼らに次のように語りました。
「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」(14節)。
ここに語られたヨハネの答えを彼らはそれぞれどのように受け取ったのでしょうか。興味深いのはヨハネの答えは意外にも当たり前のようなことを語っていると言うことです。もしかしたらヨハネのメッセージを聞いた人々は「何か特別なことをしないといけない」と思っていたのかも知れません。家族を捨てて出家するとか…、山に登って清らかな生活をするとか…、いかにもそれらしい生き方を彼らは想像していたのかもしれません。しかし、ヨハネの勧めは彼らが今いる場所で、そのまま神を信じ、誠実に生きることを求めているのです。
これはキリストを信じて生きる私たちの場合でも同じであると言えます。私たちの日々の生活も、ある意味で平凡であり、他の人と変わることがありません。しかし、私たちにとって大切なのはその平凡に見える生活こそ、神が私たちに与えてくださったものであると言うことです。そして神はその生活を通して、私たちが神に仕えることを求めておられるのです。
4.すべての人が招かれている
欧米ではクリスマスシーズンになると自殺者が増えるという話を以前どこかで聞いたことがあります。この時期になると町は華やかに飾り付けられ、またそれぞれの家庭では家族が集まってクリスマスを盛大にお祝いします。クリスマスの雰囲気が高まれば高まるほど、その喜びとはかけ離れた場所で生きていると思わざる得ない人々は絶望感を深めます。自分だけはおいてけぼりの部外者のような気持になってしまうからです。それはこの世のクリスマスが本来の意味を失い、単なる盛大なお祭りとなってしまっているからかも知れません。しかし、今日の聖書に登場する洗礼者ヨハネは違います。彼はこの世のクリスマスの華やかさとは全く違い、私たちを荒れ野へと導こうとするからです。
特に今日のヨハネのメッセージで大切なことは救い主の恵みを分かち合うクリスマスの招きから漏れる人は誰もいないと言うことです。自分を「アブラハムの子孫」と考える人々は、自分たちだけが神に招かれていると考えました。しかし、ヨハネは断じてそうではないと語ったのです。
徴税人や兵士たちは権力や武力を後ろ盾にして民衆を苦しめ、彼等から憎まれていました。「あいつらはいずれ神の厳しい裁きによって滅ぼされる」と民衆は彼らのことを考えていたのかも知れません。しかし、ヨハネはそのような人々も神の招きの対処だと語り、彼らにそのままの生活でよいから心を神に向けるようにと促したのです。
ヨハネのメッセージの中心はここにあります。たとえ私たちの過去が罪にまみれたものであっても、また不幸なものであっても、それは神の招きには全く関係ないのです。たとえ、私たちが今、苦しみの真っただ中に生きていたとしても、また孤独な生涯を送っていたとしても関係ありません。ヨハネは私たちすべての者に呼びかけています。「悔い改めにふさわしい実を結びなさい」。それは私たちが私たちの人生をまた世界を変えるためにやって来てくださる主イエスに心を向けることです。そしてそのイエスに私たちの人生を委ねて生きることです。そうすれば、私たちの人生に救い主イエスご自身がまことの喜びと希望を与えてくださることを、今日も私たちは覚えたいのです。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.洗礼者ヨハネの語ったメッセージを聞いて「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた群衆に対してヨハネは何と答えましたか(10~11節)。
2.徴税人たちの問いに洗礼者ヨハネは何と答えましたか(12~13節)。
3.それでは兵士たちに洗礼者ヨハネは何と答えましたか(14節)。
4.メシアの到来を待ち望んでいた民衆に対して洗礼者ヨハネは自分について何と説明しましたか(15~17節)。
5.この洗礼者ヨハネの言葉から彼とまことのメシアとの間では何が違うことが分かりますか。