2024.12.8「信仰義認」
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聖書箇所:ヨハネによる福音書3章16節(新P.167)
16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
ハイデルベルク信仰問答書
問61 なぜあなたは信仰によってのみ義とされる、と言うのですか。
答 それは、わたしが自分の信仰の価値のゆえに神に喜ばれる、というのではなく、ただキリストの償いと義と聖だけが神の御前におけるわたしの義なのであり、わたしは、ただ信仰による以外に、それを受け取ることも自分のものにすることもできないからです。
1.聖書と「信仰義認」
①忘れ去られた信仰義認の再発見
私がまだ神戸の改革派神学校で学んでいたころのことです。当時の神学校は今とは違って六甲と言うとても賑やかな場所にありました。この六甲には改革派の神港教会だけではなく、他の教派の様々な教会がありました。その中でも改革派の神港教会よりさらに北に上っていくと六甲カトリック教会があります。私もウイークデーに行なわれていたこのカトリック教会の礼拝「ミサ」を何度か見学したことがありました。その後でこのカトリック教会の神父と話す機会も与えられました。そのとき私が「信仰義認」の教理に尋ねたところ、その神父はちょっと考えながら「あまり聞いたことがない言葉だ」と言うのです。そこで私が「信仰義認」の教理について少し説明すると、神父は「そういえば、そんな教理があることをまだ神学校に行っていたときに聞いたことがある…」と言うのです。
「信仰義認」の教理は私たちのプロテスタント教会がカトリック教会から分裂することになる原因を作ったとものと言えます。当時のカトリック教会は人の罪を赦すことや、人に救いを与えることができる権限をローマの教皇を頂点とする教会が持っていると主張していました。それに対してルターをはじめとする宗教改革者たちは人の罪を赦し、人に救いを与えることができるのはただイエス・キリストお一人であることを主張したのです。そして人は信仰によってのみその赦しと救いをイエス・キリストから受けることができると教えました。当時のカトリック教会はこの宗教改革者たちの教えを教会の権威を揺るがすものと考え、厳しく批判しました。この結果、本来カトリック教会を聖書に基づいて改革しようと考えていた宗教改革者たちがカトリック教会から破門され、別の歩みを始めることになりました。私たちの所属する改革派教会もこの宗教改革に源流を持つ教会の一つであると言えます。
この「信仰義認」について改革派神学校の吉田校長はハイデルベルク信仰問答の解説書の中でたいへん分かりやすいたとえを語っています。吉田先生は「信仰義認」の教理は宗教改革者たちが発明したものではなく、発見したものだと言うことを教えながら、コロンブスのアメリカ大陸発見の出来事に例えて解説するのです。「コロンブスがアメリカに行く前からアメリカ大陸は存在していた。それと同じように「信仰義認」の教理も聖書の中に最初から教えられていたもの。だからルターたちはコロンブスがアメリカ大陸を発見したように、聖書の中らからこの教理を再発見したに過ぎない」と教えるのです。
そのような意味ではこの「信仰義認」の教理は聖書の中に教えられているのにも関わらず、長いキリスト教会の歴史の中でいつの間にか忘れ去られてしまったものと言ってもよいものかも知れません。
②聖書を読むことの大切さ
私たちは教会の礼拝に出席するたびに聖書を学びます。また家でも毎日聖書を読むと言う信仰生活をしているのが私たちです。ところが現代の私たちと違い、宗教改革が起こった当時のカトリック教会では一般の信徒が聖書を直接に読む機会はほとんどなかったと考えられています。その理由は、当時のカトリック教会はラテン語に翻訳された聖書だけを使い、聖書を他の原語に翻訳することを許すことがなかったからです。このラテン語は古代ローマの言葉で、そのラテン語は学校などで特別に勉強したものだけが読めるものでした。当時の庶民が簡単に理解できる言葉ではありません。つまり、一般の信徒は教会の神父が教えている内容が本当に正しいかどうかを、聖書を使って確かめることができなかったのです。
使徒言行録にはパウロがペレアと言う町のユダヤ人の会堂に赴いて、そこでキリストの福音を語ったときのユダヤ人たちの反応を次のように記しています。
「ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた。そこで、そのうちの多くの人が信じ、ギリシア人の上流婦人や男たちも少なからず信仰に入った」(使徒17章11~12節)。
ここに住むユダヤ人たちは人に惑わされることがなく、自分自身で聖書を調べることにより、パウロの語るキリストの福音を信じ受け入れるこができたのです。
宗教改革の三大原理と言う言葉があります。「聖書のみ、恵みのみ、信仰のみ」と言うのがその内容です。この三大原理に「キリストのみ」と言う箇条を付け加えて四大原理と呼ぶ場合もあるようです。いずれにしても、この三大原理を宗教改革者が強く主張したのは、当時のカトリック教会の教えがこの原理とは全く違った内容になっていたからです。そしてその一番の理由は今述べましたように、キリスト教会に行っても聖書を読むことができない、または聖書を学ぶことができなかったからだと言えるのです。
2.信仰によって受け取る
①キリストの功績が恵みによって与えられる
ハイデルベルク信仰問答は私たちがキリストを信じる信仰によって神の前で義と認められるという「信仰義認」の教理については既に問60で説明していました。
「神は、わたしのいかなる功績にもよらずただ恵みによって、キリストの完全な償いと義と聖とをわたしに与え、わたしのものとし、あたかもわたしが何一つ罪を犯したことも罪人であったこともなく、キリストがわたしに代わって果された服従をすべてわたし自身が成し遂げたかのようにみなしてくださいます。」
聖書は罪を犯した人間に対する神の厳しい裁きを語っています。また、私たちが神に受け入れていただくために、神に対する完全な従順が求められることを教えます。その従順とは神の戒めに何一つ反することなく生きていくと言うことを意味しています。しかし残念なことに、私たちは自分の罪を自分で償う力も、また神の掟に完全に従うことのできる力も持ってはいません。しかし、驚くべきことに聖書は神の御子であるイエス・キリストがその私たちのために代わって罪を償い、また私たちに代わって神の掟を完全に守ってくださったことを教えているのです。そしてそのキリストの功績がそのまま私たちのものとなることを語っています。しかも、そのキリストの功績はただ恵みによって私たちに与えられると言うのです。
ここで「恵み」と言う言葉について誤解がないように語るなら。「恵み」とは「無償」、つまりただであることを表す言葉です。ですから、私たちがこのキリストの功績を自分のものとするために私たちには神から何も求められていないと言うことを表しています。ですから「恵み」とは神の側から一方的な好意によって与えられるものだと言えるのです。
②誰の信仰にも違いはない
しかし、私たちはそこで考えるかも知れません。「私たちは救いを受けるために信仰が必要であると教えられてきた。だから、やはりキリストの功績は全くの無償ではなく、私たちの信仰と交換に私たちに与えられるものなのではないか…」。そのような疑問を私たちは抱くかも知れないのです。実は宗教改革時代のカトリック教会の教えでは信仰は人間に求められる何らかの功績と考えられていたようです。ですから信仰深い人はその功績をたくさん持っていて、信仰が弱くまだ功績が足りない人はそのままでは天国に入ることができないと教えていたのです。
今日のハイデルベルク信仰問答の問61では「信仰によってのみ義とされる」つまり「信仰義認」の教えについて次のような説明が続けて語られています。
「それは、わたしが自分の信仰の価値のゆえに神に喜ばれる、というのではなく、ただキリストの償いと義と聖だけが神の御前におけるわたしの義なのであり、わたしは、ただ信仰による以外に、それを受け取ることも自分のものにすることもできないからです。」
まずここでは「それは、わたしが自分の信仰の価値のゆえに神に喜ばれる、というのではなく」と解説されています。つまり、私たちの救いのためには「自分の信仰の価値」、「自分の信仰が強いか弱いか」と言った人間の側の持つ条件は全く考慮されていないと説明しているのです。ですから、信仰生活を何十年間も続けてきた人と最近、キリスト信じて洗礼を受けて信仰生活を始めた人との信仰の差はここでは問題にされていないと言うのです。もちろん、私たちが信仰生活の先輩たちを尊敬して、その先輩たちから信仰生活についていろいろと学ぶことは大切であると言えるでしょう。しかし、キリストを信じる信仰においては誰も違いはないのです。それはどうしてでしょうか。
➂私たちの信仰の役割
信仰問答はこの信仰について次のようにも説明しています。「わたしは、ただ信仰による以外に、それを受け取ることも自分のものにすることもできないからです」。つまり信仰とはキリストの功績を受け取り、自分のものにするためのものだと教えているのです。せっかく、自分のためにすばらしいプレゼントが準備されていても、それを喜んで受け取らなければ、それは自分のものには決してなりません。それはキリストによって提供されている救いも同じです。ですから信仰とは自分のために準備されたキリストと言うプレゼントを受け取ることだとも言えるのです。
聖書の中でパウロはキリストによって救われた者は自分を誇ることができないと教えています。なぜなら、私たちは誰もがキリストによる救いを「恵みによって」、「無償」で与えられた者たちだからです。
「それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。」(コリント一1章29~30節)。
信仰が私たち人間の側の功績のようなものだと考える人は神を誇るのではなく、自分を誇ることになります。しかし、私たちの信仰はそのようなものではありません。だから私たちは自分ではなく神を誇るのです。なぜなら、私たちの信仰も神が私たちを救うために与えてくださった賜物の一つだからです。
3.救いの確信をどこに求めるか
①宗教改革者ルターが苦悩の中で発見した教理
私たちが自分の努力によってではなく、イエス・キリストを信じることによって義と認められるという信仰義認の教理に関係してローマの信徒への手紙の中では次のような言葉が語られています。
「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」(ローマ10章9~10節)。
このローマの信徒への手紙を記したパウロは「私たちが救われるために自分の持っている力で様々な功績を積みなさい」とは教えてはいません。ただ、イエスを信じること、口でその信仰を公に言い表すこと、また心の中でイエス・キリストを自分の救い主と信じることが大切だと教えているのです。そして、私たちはこの信仰によって神の前に立つことができるのです。なぜなら神はその時に私たちがなした功績ではなく、キリストが私たちのためになしてくださった功績を私たち自身がなしたものとして認めてくださるからです。人の功績は不完全なものでしかありませんが、キリストの功績は完全なものなのでそれ以上に何か必要なものは何一つないのです。
宗教改革者であったマルチン・ルターはかつて修道院の修道士として熱心に修行に励む生活を送っていました。彼は自分が救われることを願って修行に励んだのです。ところがルターは修道士として熱心に聖書が教える掟に従う生活を守ろうとすればするほど、自分がその掟に完全に従うことができない人間であることに気づきます。自分は救われているという確信を得ようとしてがんばっているのに、返って彼は自分が神の裁きを免れ得ない罪人であることを痛感します。その結果でしょうか。ルターは現代で言えばノイローゼのような状態に追い込まれてしまいます。
幸いなことに当時、ルターを指導していた修道院の院長は彼に「自分を見つめるのではなく、キリストを見つめなさい」と教えたと言います。そしてルターの抱える信仰の問題について聖書から答えを得るようにと勧めたと言うのです。そしてルターは聖書の中からキリストを信じて神の前に義と認められるという「信仰義認」の教えを見出し、自分の信仰の問題を解決することができたのです。
②キリストを見つめ、キリストに感謝する信仰生活
私たちの信仰生活でも同じような過ちを犯す可能性があります。なぜなら、聖書を熱心に読み、そこに教えらえている神の厳しい掟、またそれを守ることができない人に神から下される厳しい裁きを学ぶとき、私たちは不安になり、「自分は大丈夫なのか」と感じてしまうことあるからです。そして「このままではだめだ」と考えて、聖書が教える掟を熱心に守ろうとすればするほど、自分にはその掟には従う力がないことを痛感して、その自分を責めて信仰的なスランプに陥ることが起こります。
そのような信仰の問題に私たちがぶつかったときに大切なことはまず罪と弱さに満ちた、不完全な自分自身だけを見つめることを止めることです。そしてそれに代えて聖書が教えるキリストを見つめることが必要です。そしてさらにそのキリストを通して自分の現在の姿を理解することが大切なのです。
イエス・キリストは自分では神の掟に従うことのできない私たちのために、十字架で命をささげてくださり、私たちの罪を完全に償ってくださいました。また、私たちに代わって神の掟を完全に守ってくださった方です。そして私たちがこのイエス・キリストを信じたときに、この方によって私たちは完全な救いを受けることができたのです。
ですから、私たちが毎日の信仰生活ですべきことを自分の罪人としての姿を嘆くことではありません。その私たちの罪をすべて十字架で贖ってくださった救い主イエス・キリストを信じて、その方に感謝することです。さらにはそのキリストを通して示された神の私たちへの愛を喜んで受け入れ、その神を賛美することなのです。私たちはこのために今日もこの礼拝に集められていることを覚え、心からの感謝と喜びを神にささげて行きたいと思います。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.まず、あなたもハイデルベルク信仰問答の問61の言葉を読み返してみましょう。
2.信仰問答の「わたしたちが自分の信仰の価値のゆえに神に喜ばれる、と言うのではなく」と言う言葉を使って私たちが信仰生活で陥りがちなどのような問題を指摘していると思いますか。
3.信仰問答の「わたしは、ただ信仰による以外に、それを受けることも、自分のものすることもできないからです」と言う言葉から考えると、自分の救いのために信仰以外に輸血をしないことや、聖書の様々な掟に従うことが必要であると教える人々がどのような過ちを犯していることが分かりますか。
4.私たち自身を見つめても私が救われているという確信を見出すことのできない私たちは、どこからその確信を求めることができますか。