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2024.2.11「天におられるキリスト」 YouTube

ローマの信徒への手紙8章31~39節(新P.285)

31 では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。

32 わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。

33 だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。

34 だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。

35 だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。

36 「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。

37 しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。

38 わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、

39 高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。


ハイデルベルク信仰問答書

問49 キリストの昇天は、わたしたちにどのような益をもたらしますか。

答 第一に、この方が天において御父の面前でわたしたちの弁護者となっておられる、ということ。

第二に、わたしたちがその肉体を天において持っている、ということ。それは、頭であるキリストがこの方の一部であるわたしたちを御自身のもとにまで引き上げてくださる一つの確かな保証である、ということです。

第三に、この方がその保証のしるしとして御自分の霊をわたしたちに送ってくださる、ということ。その御力によってわたしたちは、地上のことではなく、キリストが神の右に座しておられる天上のことを求めるのです。


1.救いの確かさを求めた宗教改革者

 私たちがこの毎月の伝道礼拝で学んでいるハイデルベルク信仰問答は記録によれば1537年に作られたものとされています。ルターがヴィッテンベルク上の扉に「95か条の提題」を掲げて宗教改革の狼煙を上げたのが1517年のことですから、この信仰問答は宗教改革の真っただ中で生まれたものと考えてよいと思います。普通、この宗教改革は当時のカトリック教会が聖書の教えから逸脱していることを批判し、教会が聖書の教えに戻るための運動であったと考えられています。

 またこの宗教改革の直接のきっかけとなった出来事は、ローマのサンピエトロ大聖堂の大改築の資金を集めるために教会が売り出した「贖宥(免罪)符」にあったと言われています。当時のヨーロッパでは子供が生まれるとすぐ教会で幼児洗礼が施されます。ですから幼児洗礼は現代の役所で行われる出席届とのようなもので、当時の人々にとって洗礼を受けていないということは考えられないことになります。つまり、信仰のあるなしに関わらずすべての国民がクリスチャンと言うのが当時の社会の状況だったのです。ところがその一方で当時の人々は「自分が本当に救われているのかどうか」について確かな確信を持てないと言う問題を抱えていました。それは当時のカトリック教会が「人が救われて天国に入るために必要な条件」として、人の行う善き業と言う「功績」があげ、それを教えていたからです。ところが人は教会の求める功績を簡単に作りだすことができません。そこでその功績が足りない者に教会が販売したのが「贖宥(免罪)符」と言われるものだったのです。ルターはこのような教会の活動が聖書に根拠を置かない迷信のようなものであると批判しました。そして人を確かな救いに導くのはイエス・キリストの御業、「功績」だけだと主張したのです。このような意味で、宗教改革運動は自分が救われているという確かな確信を聖書の中に求める運動であったとも言うことができるのです。

 現代でも一部の新興宗教が行うマインドコントロールがよくマスコミなどで問題として取り上げられています。このマインドコントロールの特徴は人を恐怖で支配し、宗教指導者の言いなりにさせることだと考えることができます。宗教改革の時代のカトリック教会は「あなたはそのままではすぐに天国に入れない…」と人を脅迫して、教会の言う通りにするようにと人々を支配したと言えるのです。ですから、宗教改革者たちは聖書の教えに基づいて、まずこの人々の恐怖を取り去り、マインドコントロールの支配から解放させ、すべての人がキリストの提供してくださる救いの喜びに生きることができるようにさせたと言えるのです。

 今日の信仰問答の問いの中でも今までと同じように「益」と言う言葉が使われています。人々は「ご利益」を求めて神社仏閣を参拝します。信仰問答はその「ご利益」は何かとここで問うているのです。聖書の語る「ご利益」は先ほどから述べているように、私たちを様々な恐怖から解放して、救いの喜びに生かすことができるものだと言えます。そしてこれこそが信仰問答が考えている「益」であると言えるのです。それでは私たちが前回から学んできているようにイエス・キリストが天に昇られたことは、私たちにどのような「益」、つまり私たちを救いの喜びに生かすものとなるのでしょうか。


2.キリストの執り成し

 もし私たちの救いの根拠が、私たちの努力や自分が行った善行と言う「功績」にあるとしたら、私たちは本当に自分が天国に入ることができるのでしょうか。まずここで問題となっているのは、この天国試験に合格するための私たちの実力、そして、その天国試験の合格ラインはどこにあるのかということです。聖書はこの合格ラインとして神の律法を私たちに教えています。さらにこの合格ラインには律法のすべてを私たちが守ること、つまり満点だけが要求されているとも教えているのです。つまり、律法の要求をすべて満たすことができなければ、人は誰も天国に入ることができない訳です。そう考えると私たちは皆、実力不足でこの試験に合格できないと言うことになるはずです。どんなに頑張っても、どんなに死に物狂いで生きても誰も天国に入ることができないのが、聖書の教える人間の現実の姿であると言えます。それでは誰が天国に入ることができるのでしょうか。聖書はこの試験に合格できた唯一の方を紹介しています。その方こそ、私たちの救い主イエス・キリストです。そして聖書はこの主イエスが弟子たちの見ている前で天に昇られたという出来事を書き記しています。この出来事は主イエスが律法の要求をすべて満たされて、天国に入る資格を得られたことを表すものだと言えるのです。それでは、私たちはどうなるのでしょうか。聖書は次のような言葉を記しています。

「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」(8章34節)

 聖書は主イエス・キリストが一人で天に昇ってしまって、「君たちもせいぜい頑張りなさい」と私たちを見捨てて行ったわけではないことを教えています。むしろ、主イエスは私たちも共に天国に入ることができるようにするために天に昇られたのです。そして主イエスがそのために行なってくださるのが「とりなし」です。信仰問答はこのことを「わたしたちの弁護者」となってくださることだと解説しています。この世の弁護者は裁判で裁かれている被告の罪が情状酌量され刑罰が軽くなるように努力します。キリストの弁護方法はこれとは全く違います。なぜなら、この弁護者は私たちに代わって、私たちの罪を引き受けて、その罰を受けることで、私たちからすべての刑罰を取り去ってくださるからです。

 天の法廷においては、私たちがこの地上で犯した罪のすべてが明らかにされるます。そしてこの弁護者であるキリストはその私たちが犯したすべての罪がすでに償われていて、私たちにはすでに天国に入る資格があることを明らかにしてくださるのです。つまり、天の法廷で問題にされるのは私たちが地上で行った善行ではなく、私たちのために十字架にかかり、すべての律法の要求を満たされたイエス・キリストの「功績」なのです。このような意味で私たちはこの主イエス・キリストによってすでに天国に入る資格を与えられていと言うことができます。


3.私達の国籍は天にある

 さてこの信仰問答が興味深いのは主イエス・キリストによって私たちにすでに天国に入る資格が与えられていると言うだけではなく、すでに私たちはこのキリストによって天国の市民にされていると言う点です。このことについて信仰問答はこう語っています。「わたしたちがその肉体を天において持っている、ということ。それは、頭であるキリストがこの方の一部であるわたしたちを御自身のもとにまで引き上げてくださる一つの確かな保証である、ということです」。私たちは確かに今、地上でそれぞれの生涯を送っています。そして主イエス・キリストは今も天で、生きておられるのです。聖書はこのイエス・キリストと私たちの関係が信仰におって一つの体に結ばれていることを教えています。

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」(ヨハネ15章5節)

 私たちが地上の信仰生活で神の恵みを受けることができるのは、私たちの体が天におられる主イエス・キリストと一つにつながっているからです。そして信仰問答はそのキリストがすでに天におられるということは、その体の一部とされている私たちも天国に入ることができる確かな証拠となると教えているのです。だからこの証拠を得たと確信した使徒パウロは「わたしたちの本国は天にあります」(フィリピ3章20節)と大胆に告白しているのです。私たちはこのように今は地上で信仰生活を送っていながらも、すでに主イエスによって天の国の国民とされていると言えるのです。


4.聖霊を遣わすキリスト

 さて、今まで学んだように主イエスは私たちがこの地上で喜びを持って信仰生活を送り、やがてその主イエスと同じように天国に入ることができるために天に昇られました。聖書はこの主イエスが天に昇られることで、最も重要なことは私たちに聖霊なる神が送られることだと教えているのです。なぜなら主イエスはご自分が愛する弟子たちを地上に置いて彼らから離れて行く理由を次のように語っているからです。「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」(ヨハネ16章7節)。ここで主イエスが「弁護者」と言っている方こそ、天におられる主イエスが私たちのために送ってくださる聖霊なる神であると言えます。先ほど、天において私たちを弁護してくださる方が主イエスであると言うことを学びました。ここではこの主イエスと共にもう一人の弁護者が登場して来るのです。つまり、聖書は私たちが救われるために完璧な弁護団が作られていて、私たちを守ってくださっていると言うことを教えているのです。それでは私たちのためのもう一人の弁護者である聖霊は私たちに何をしてくださると言うのでしょうか。そのことについて信仰問答は次のように解説しています。

「その御力によってわたしたちは、地上のことではなく、キリストが神の右に座しておられる天上のことを求めるのです」。

 信仰問答は聖霊が働かなければ私たちの関心はいつも「地上のこと」のみに注がれていると言うことを教えます。「どうしたら金儲けができるか…」、「どうしたらよい地位に就くことができるか…」。そのように考えることも必ずしも間違いではないのかも知れません。人がこの地上で生きていくためには様々なものが必要となるからです。しかし、聖霊はこれらの地上の関心とは違うところに私たちの心を向けようとします。そして私たちはこの聖霊の働きによって、自分の人生に何かが足りないことを悟り始めるのです。私たちの人生にイエス・キリストが必要であることを知らせて、そのキリストを求めることができるようにさせるのこの聖霊の働きなのです。確かに私たちが聖書を読み始めたきっかけは、またその聖書を学ぶために教会に行き始めた理由はそれぞれ異なっているかも知れません。しかし聖書はそれらのすべての出来事の背後に聖霊が働いてくださったことを教えています。またもし、私たちの信仰が自分自身の単なる決断や、思い付きに基づくものであれば、その信仰はすぐに消え去ってしまうかも知れません。しかし、聖霊の働きによって私たちに与えられた信仰はそのようなものではありません。その信仰は私たちの生涯で効力を失うこと、つまり「無効」になることが決してないのです。確かに人は自分の欠点に気づき、またそのままでは自分の人生に希望がないと言うことに気づくことができるかも知れません。そのような人は自分の人生に対する自信を失ったり、自分の理想通りに人生が進まないことを理由に自分や他人を責め続けます。そしてやがて心も体も疲れ果ててしまうのです。

 聖霊の働きがこのような単なる自己反省と違う点は、私たちの心を必ず天におられるイエス・キリストへと導くことです。この聖霊の働きによって私たちは自分自身が希望のない罪人であることを知ります。しかし、その上で聖霊はその私のためにイエス・キリストが十字架についてくださったことを教えるのです。パウロはローマの信徒への手紙の中で「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」(5章20節)と語っています。今まで自分自身だけを見つめ続けて来た私たちは自分の犯してしまった罪に気づくたびに自分自身に絶望することしかできませんでした。ところが聖霊の働きによって私たちに十字架のイエス・キリストが示された今は、「この私を罪から救うために主イエスは死んでくださった」と言うことを教えられ、キリストに対する感謝と愛で私たちの信仰生活が満たされるようになるのです。

 このようにイエスが天に昇られたことはこの地上で生きる私たちが救いの確信を得て、喜びに満たされながら信仰生活を送ることができるためであったことを私たちはこの信仰問答から学ぶことができるのです。そしてこの喜びこそが宗教改革を進める原動力となったと言うことできるのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.まず、あなたもハイデルベルク信仰問答問49の本文を読んで見ましょう。あなたは今まで、イエス・キリストが天に昇られたと言う出来事について、自分の信仰生活とどのような関係があると考えていましたか。

2.キリストが天において私たちのために「とりなし」て下さると言うことは私たちにどのような信仰の確信を与えますか。

3.私たちが信仰によってキリストの体と一つにされているということは私たちの信仰生活にどのような保証を与えていると言えますか。

4.キリストが天から送ってくださる弁護者である聖霊は私たちにどのようことをされるのですか。

5.自分の信仰は天におられるキリストが遣わしてくださった聖霊によって与えられたものだという教えは、あなたの信仰生活にどのような確信と励ましを与えますか。

2024.2.11「天におられるキリスト」