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2024.2.18「悔い改めて福音を信じなさい」 YouTube

マルコによる福音書1章12~15節(新 P.61)

12 それから、"霊"はイエスを荒れ野に送り出した。

13 イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。

14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、

15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。


1.荒野の誘惑

 先週の水曜日から復活祭までの間、教会では受難節(四旬節)の期間に入ります。キリスト教会のカレンダーでは毎年、この受難節の最初の日曜日には主イエスが受けられた「荒れ野の誘惑(試み)」の出来事が取り上げられます。今年はこの「荒れ野の誘惑」を伝えるマルコによる福音書の記事からご一緒に学びたいと思います。この荒れ野の誘惑について詳しい内容を記しているマタイやルカの福音書に対して、このマルコの福音書は極めて簡潔にこの出来事を紹介しています。マルコは主イエスが「サタンから誘惑を受けられた」(12節)と語りながら、そのサタンがどのように主イエスを誘惑したのかということについては詳しく語っていません。ただ、このような簡潔な表現方法にも関わらずマルコだけが伝える独特な言葉がこの箇所に現れます。そこで今日はこのマルコが伝える「荒れ野の誘惑」の記事から、主イエスが私たちに伝えてくださった神の福音について考えてみたいと思うのです。12節では「それから、"霊"はイエスを荒れ野に送り出した」という言葉が書かれています。ここで登場する「霊」は、この物語の直前の主イエスの洗礼の出来事の中にも登場しています。

「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて"霊"が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。」(9~10節)

 この時にイエスの上に降った「霊」は、天からの霊、神の霊、つまり聖霊を表していると考えることができます。そして、マルコはイエスを荒れ野の誘惑に導いたのもこの聖霊であったということをここでまず紹介しています。ヤコブの手紙では人が受ける「誘惑」について次のような言葉が記されています。

「誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです」(13節)。

 ここには「神は人を誘惑したりなさらない」とはっきり記されています。確かにマルコも主イエスが神からではなく、「サタン」つまり悪魔から誘惑を受けたと言うことを述べています。しかし、それでも私たちの人生に起こるすべての出来事の主導権を神が持っておられると言うことは確かなことです。だからマルコはここで「霊」と言う言葉を使って、この荒れ野の誘惑の出来事の中にも神の主導権があることを私たちに教えているのです。

 私たちは主の祈りの中で教えられているように、神に「わたしたちを誘惑から導き出して悪からお救いください」と祈ります。私たちも自分の人生で様々な誘惑に出会うことがあります。誘惑に会うことは私たちの人生でも避けることができないのです。しかし、神はその誘惑から私たちを救い出して、むしろその出来事を神の御心が私たちの人生に実現する機会としてくださるのです。そしてそのようにして誘惑に会う私たちを救い出してくださるのです。

 それではなぜ、サタンは私たちを誘惑するのでしょうか。それはこの誘惑によって私たちと神との関係を妨害し、またそれを破壊しようとするからです。しかし、すべての出来事の上に主導権を持っておられる神はこの出来事でさえも、むしろ私たちとご自身との関係をさらに強め、私たちが神の子として生きることができるようにと用いてくださるのです。主イエスが受けられた「荒れ野の誘惑」は、これから救い主として活動を始めようとする主イエスにとって必要なことでした。それはこの出来事を別の観点から紹介したマタイやルカの記事を読んでもよくわかることです。なぜなら主イエスは悪魔からの誘惑を通してご自分と父なる神との関係を確かめ、それを深める機会とされたからです。


2.霊によって追い立てられる

①イエスを追いやる聖霊

 ところで先ほどの「"霊"はイエスを荒れ野に送り出した」と言う言葉ですが日本聖書協会が新たに翻訳し直した「聖書協会共同訳(2018年)」では、この部分が「霊はイエスを荒れ野に追いやった」と訳されています。実は原語のギリシャ語の意味はむしろ「送り出す」より「追いやる」と言う強い表現が使われているのです。ですからこの同じ言葉は「追放する」と言う意味でも用いられます。またたとえば羊飼いが羊たちを囲いの外に「追いやる」と言う場面でも用いられるのです。

 羊たちの気持ちはいつまでも安全な囲いの中に留まっていたというものかも知れません。しかし、それでは羊は立派に成長することができません。ですから、羊飼いは無理に羊たちを「追いやって」、緑の原や水場へと導こうとするのです。そしてこの場合に、羊たちは自分がなぜ安全な場所から外に追い出されるのかを理解することができません。だから自分の意志では決して外に出ようとはしないのです。しかしそれでも羊飼いは羊を養い、成長させると言う目的を持って羊を導き、無理やりにでも羊たちを外へと追い出そうとするのです。

 つまり、主イエスの荒れ野の誘惑の場面でこの表現が用いられているということは、主イエス自身はこれから自分に何が起こるのか、それが何のために起こるのかを知らなかったと言う意味を表していることになります。むしろ主イエス自身は祝福された洗礼の場に留まっていたいと思ったのかも知れません。しかし、神の霊である聖霊はそのイエスを神の目的を実現させるために荒れ野へと「追いやった」と言うことになるのです。


②人間と同じ弱さを持たれた主イエス

 私たちはもしかしたら主イエスについて大きな誤解をしているのかも知れません。主イエスは神の子なのだから自分のことは何でも知っておられる、そして天の父なる神の御心をよく知っておられる。その上で、いつも迷いなくその父の御心に従うことができる方だと思ってしまことが無いでしょうか。そのような意味で、主イエスは自分のような弱い人間とは全く違う方なのだと思い込んでしまうのです。しかし、本当の主イエスはそのような方ではありません。なぜなら、マルコは主イエスが自分の意志ではなく、むしろ聖霊の力に追い立てられるようにこの荒れ野に向かったことを私たちに教えているからです。だから、ヘブライ人への手紙の著者は次のように主イエスの本当の姿について語っています。

「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」(4章15節)。

 もし、主イエスが私たちのような「弱さ」を持っておられなかったなら、この荒れ野の誘惑は本当の意味で「試練」とは言えなくなってしまうでしょう。それは人々の関心を自分に引き付けるための単なるパフォーマンスのようなものになってしまうかも知れません。しかし、主イエスは私たちと同じ「人間」となってくださたのです。ですから自分の人生に予想もすることができない試練に見舞われ、自分ではどうすることもできない境遇に主イエス自らが立たれているのです。

 だからこそ、主イエスはこの荒れ野の誘惑の出来事の中でマタイやルカが教えたように神の御言葉を頼りにし、またその御言葉が指し示す父なる神を信頼しようとされたのです。ですから主イエスがこのように生きることができたのは主イエスが強かったからではなく私たち人間と同じ「弱さ」を持っていたからこそ、そう生きることができたと言えるのです。そして、聖書は主イエスの持つこの「弱さ」こそが、父なる神を信頼して、荒れ野の誘惑に勝利するために必要であったことを教えているのです。


➂「弱さ」を通して父なる神を信頼した主イエス

 私たちは簡単に自分の「弱さ」を受け入れることができません。なぜならこの「弱さ」を自分の持っている罪だと勘違いしてしまう傾向があるからです。だから、信仰の力で、あるいは神の助けを借りてこの「弱さ」を克服しようと一生懸命になって頑張るのです。しかし、私たちと同じ人間となってくださり、私たちと同じ「弱さ」を持たれた主イエスの姿から分かるのは、この「弱さ」は決して罪ではないと言うことです。

 以前、人を何人も殺した犯罪者が「わたしではない。悪魔がそうさせたのだ」と語ったと言う新聞の記事を読んだことがあります。そう語ることで自分が犯した罪の責任を悪魔に肩代わりさせようとしたのでしょう。また、たくさんの人が自分の人生が思い通りに進まないことを悔やんで「こんな人生になぜ神は導くのか」と語ります。これらの人の特徴は自分の人生の責任を自分以外の誰かに委ねて、自分ではその責任をとろうとしないところに共通点があります。そして彼らはそのようにして自分の「弱さ」を決して認めようとしないのです。

 しかし、私たちと同じ人間となられた主イエスはそうではありませんでした。霊によって荒れ野に追い立てられても、そのことで他人を責めることはありませんでした。ましてや神にその責任を転嫁しようともされなかったのです。むしろ、主イエスはこの荒れ野の誘惑の中で自分の「弱さ」と正しく向き合い、その「弱さ」のために神に助けを求め、またその神に信頼しようとされたのです。この荒れ野の誘惑はここで終わってしまう訳ではありません。実はサタンはこの後も主イエスを誘惑しつづけ、神の救いの計画が実現しないように様々な働きかけをし続けたのです。そして、主イエスはそのサタンの誘惑に「弱さ」を持った私たちと同じ人間として立ち向かわれたのです。その証拠が主イエスの十字架の死に表わされています。主イエスも私たちと同じように死なれたのです。私達の誰もが迎える死を主イエスも確かにここで体験されているのです。「死にたくない」。そう私たちは思うかも知れません。しかし、どんなに人間が努力しても、人間はその「弱さ」を克服することできません。そしてそれは主イエスも同じであったと考えることができます。


3.神の国の福音と悔い改め

 主イエスが伝えた神の福音の内容は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言うものでした。このメッセージで大切なのは私たちが「悔い改め」たら神の国が近づく、あるいはそれが実現すると教えているのではないと言うことです。私たちががんばって自分の弱さを克服したら、神の国が私たちの人生に実現すると主イエスは言っているのではないのです。

 それでは主イエスの語る「神の国」はどのように私たちの上に実現するのでしょうか。それは主イエスの御業によって、主イエスの救い主としての生涯を通して、私たちの元に近づき、また実現するものだと言えるのです。そして、主イエスはこの神の国を私たちのために実現してくださるからこそ、私たちに「悔い改めて福音を信じなさい」とここで教えているのです。この「悔い改め」とは今まで何度もお話してきたように私たちの心の方向転換させることだと言えます。

 今まで、私たちは自分の「弱さ」を認めることができずに、それを他人のせいにしたり、あげくの果てには「神のせいだ」と言うような責任転嫁の生き方をして来ました。そして、それによって私たちは自分の人生をますます悲惨なものとさせてしまっていたのです。

 主イエスはその私たちの心を神に向けるようにと私たちに教えています。なぜなら、私たちが自分の心を神に向けるなら、私たちの人生が全く変わることになるからです。しかし、その変化は何度も言うように私たちが自分の弱さや欠点を持たないスーパーマンのような存在になることを意味しているのではありません。むしろ主イエスのもたらした神の国の福音は、この弱さや欠点を持った私たちが、そのままで神の豊かな祝福の中に生きることができるようにさせるものだと言うことができるのです。だからこの福音を信じた使徒パウロは次のような言葉を大胆に語っています。

「すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」(コリント二12章9節)。

 主イエスの実現した救いは私たちを欠点や弱さを持たない人間に変えてしまうものではありません。私たちはむしろこの地上に留まる限り、弱さを持ち欠点を持った存在として生き続けます。そして私たちはやがて地上の死を迎えなければなりません。しかし、主イエスはその人生に救いを与えてくださいました。そして私たちの弱さや欠点が私たちを不幸にしたり、滅ぼしたりするものではなく主の恵みの働く機会としてくださるのです。

「その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」(13節)。

 神は荒れ野の誘惑のような厳し状況の中でもそこに天使を送り、主イエスを支えてくださいました。同じように神は私たちの人生を支え続け、弱さや欠点を持った私たちが、それを通して神に信頼して生きる者となるようにしてくださるのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.イエスが悪魔から誘惑を受けられるために、荒れ野へと送り出したのは誰であったと聖書は教えていますか(12節)。

2.イエスは荒れ野にどのくらいの間、とどまられましたか。福音書はその間、主イエスがどのような状態にあったと教えていますか(13節)。

3.イエスがガリラヤに行かれたとはどのようなときでしたか(14節)。

4.イエスがそこで宣べ伝えた神の福音の内容はどのようなものでしたか(15節)。

2024.2.18「悔い改めて福音を信じなさい」