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2024.2.25「イエスの本当の姿」 YouTube

マルコによる福音書9章2~10節(新P.78)

2 六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、

3 服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。

4 エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。

5 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」

6 ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。

7 すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」

8 弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。

9 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。

10 彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。


1.山上で姿が変わった主イエス

①主イエスの受難予告

 受難節の第二週の日曜日を迎えました。今日の礼拝で取り上げられる聖書箇所は山の上で主イエスの姿が弟子たちの見ている前で栄光に輝いたという出来事です。マルコによる福音書が伝えるこの物語は「六日の後」と言う時間経過を表す言葉から始まっています。これはこの主イエスのお姿が変わる出来事とその六日前に起こった出来事が深く関係していることを表している言葉です。なぜなら、今日の物語を正しく理解するためにはこの六日前に起こった主イエスとその弟子たちとの間での出来事を知っておく必要があるからです。

 それでは六日前にはいったいどんなことが起こったのでしょうか。私たちの読んでいるマルコによる福音書ではこの物語の直前に記されている8章27節から9章1節の部分がその「六日前」の出来事にあたると言えます。ここでは主イエスの弟子の一人であるペトロが主イエスに対して「あなたはメシアです」、つまり「わたしたちの救い主です」という告白をしたことが紹介されています。そのペトロの告白をきっかけに、主イエスはご自分の弟子たちに自分が救い主としてこれからどのようなことをされるのかについて語り始めました。しかし、主イエスの語られた内容はペトロたちには決して理解することも、受け入れることのできないものでした。なぜなら、主イエスはご自分がエルサレムの宗教指導者たちから憎しみを受け、殺されてしまうことをここで明らかにされたからです。そしてその上で三日目の後に復活 するということをも語られたのです。


②主イエスをいさめるペトロ

 このイエスの言葉を聞いた弟子のペトロは「イエスをわきへお連れして、いさめ始めた」(32節)と語られています。ペトロは「そんなことがあってはならないし、あなたはそんなことを考えるべきではない」と主イエスを連れ出して、叱ったのです。簡単に言えばペトロは主イエスに対して「あなたは私たちの言う通りに行動してほしい」と言ったことになります。実は今日の箇所では主イエスの姿が栄光に輝く出来事が起こり、その後でモーセとエリアが現れるとその彼らを雲が覆い、その雲の中から「これはわたしの愛する子。これに聞け」(7節)と言う言葉が聞こえたと言う説明が語られています。この雲の中から聞こえた声は明らかに主イエスを地上にメシアとして遣わされた父なる神の声であると言えます。そしてその声が「これに聞け」と言ったのです。つまりこの物語は、「わたしに聞きなさい」と主イエスをいさめたペトロに対して、むしろ「あなたがすることは彼に聞くことだ」と言う父なる神の反論の言葉になっているのが分かるのです。

 私たちの信仰生活でもこのペトロと同じように、神に聞くのではなく、「自分に神は聞くべきだ」という誤った考えに陥る可能性があります。私たちは神に熱心に祈っても、自分の祈りが少しも聞かれないと感じると、「どうしてなのか」と悩み、また「自分の祈りが熱心ではないからだろうか」と自信を失ったりすることがあります。そのような私たちに対して今日の物語は自分の思いに固執するのではなく「主イエスに聞くように」、「主イエスに従うように」と私たちを促しています。それでは私たちが主イエスに聞くとは、主イエスに従うということはどう言うことなのでしょうか。


2.誤ったメシア像

 なぜ、ペトロはこのとき、主イエスに聞くことができず、返って主イエスを自分に従わせようとしたのでしょうか。それは当時のユダヤ人が「メシア」つまり救い主に対して持っていた期待にあったと言えます。ご存知のように当時のユダヤは広大な地中海一帯を支配したローマ帝国の植民地の一部とされていました。当時の民衆はこのローマの支配下で重い税金を課せられて苦しんでいたのです。福音書に頻繁に登場する「徴税人」はこのローマのために税金を集める下級役人で、彼らはその職務のために民衆の憎しみの対象になっていました。そこでユダヤ人たちが目を向けたのは聖書に約束されている「メシア」、「救い主」の到来です。なぜなら、彼らはその救い主が来られれば、ローマ帝国の支配から自分たちを解放して、自分たちを様々な苦しみから救い出してくださると考えたからです。

 このような民衆の期待を背負う「メシア」はローマ軍の力を打ち破るような、強力な力を持っていなければなりません。人々はまさに主イエスこそがこのような力をもつお方と考えたのです。そして実際にペトロたちはこれまで主イエスに従うことで、主イエスがそれにふさわしい力を持っておられることを知ったのです。だから弟子たちは自分たちの期待がこの主イエスによっていよいよ現実のものになると考えていました。それなのその主イエスはメシアであるご自分が殺されるという悲劇的な結末を語り始めたのです。だからペトロたちにはその主イエスの言葉を受け入れることができなかったのです。これがペトロの主イエスを「いさめる」と言う行動の原因になったのです。

 さて、このように主イエスを自分の期待通りにさせようとしたペトロの行動の原因は当時の人々が抱いていたメシア像に深くつながっていました。このように考えると何かここでのペトロの失敗は私たちとは縁遠いもののように私たちには思えるかも知れません。しかし、ペトロをはじめとする当時の人々のメシア像はある意味、現代の私たちにも共通する問題を持っていると考えることができます。それは自分の苦しみの原因を自分以外の誰かのせいにして、その問題が解決すれば自分は幸せになれると言う思いがそこには隠されているからです。このような考え方は現代の私たちにも共通するものではないでしょうか。しかし、私たちがこのような考え方に立つ限り、私たちはイエスの十字架の本当の意味を理解できなくなってしまうのです。


3.主イエスに聞くとは

①「これに聞け」

 救い主は自分たちを苦しみから解放するために、自分以外のすべての問題を解決してくれるために働かれると考えるペトロたちに対して、今日の物語はそのペトロの過ちを指摘する役目を果たします。なぜなら、彼らの見ている前で主イエスの姿は栄光に輝くものとされたからです。これはこれから苦しみを受け、十字架で死なれるイエスこそが栄光に輝く本当のメシアであることを示す出来事であったと言えます。

 この出来事の特徴はすべての出来事で主イエスが何かをするのではなく、天におられる父なる神が出来事の主人公となっているところです。主イエスの姿を変えたのも父なる神の御業ですし、またそこにモーセとエリアを出現させたのも同じように父なる神の御業です。さらに、彼らを雲に覆わせた上で、「これはわたしの愛する子。これに聞け」とペトロたちに語ったのも父なる神の声と言えるのです。ここでは父なる神が直接にイエスの弟子たちに働きかけるという出来事が起こっているのです。つまり、この出来事は主イエスがメシアあることを父なる神ご自身が弟子たちに、また福音書を読む私たちにも証言すると言う役目を持っているのです。

 そして主イエスをメシアとして私たちに遣わしてくださった父なる神が私たちに求められることはただ一つ「これに聞け」と言うことです。この「聞く」は単に話を聞くと言うだけではなく、その話を聞いて従うようにという意味の言葉です。父なる神は私たちが主イエスの十字架の意味を正しく理解するために自分の考えを捨てて、主イエスに聞き、そしてその言葉に従うことが大切であることを教えてくださったのです。


②イエスの十字架が明らかにするもの

 それでは私たちが主イエスに聞き従うときに、私たちはこの主イエスの十字架から何を学ぶことができると言うのでしょうか。その一つは自分を不幸にしている問題の原因が自分以外のものではなく、まさに自分自身の罪にあると言うこと知ることです。

 先日のフレンドシップアワーでイエスと共に十字架につけられた強盗のことで、自分は「この人のように人を殺す罪など犯していない」と言う話題が語られていました。私たちは自分の抱える問題を、他人の問題と比べることで自分の問題が深刻化どうかを判断する傾向があります。だから、「私の罪はあの人よりましだ」と言う考え方になるのです。しかし、聖書が教える自分の罪に対する認識の方法はこれとは違います。なぜなら、聖書は私の罪のために救い主である主イエスが十字架について死なれたということを教えているからです。つまり、私の罪は神の御子が十字架にかかって死ななければ解決できないほどに深刻なものであることを聖書は教えているのです。私たちが自分の罪の深刻さを知るためには自分自身を見つめても、また自分と他人を比べても正しく理解することはできません。それを知るためには私たちは私たちのために十字架にかけられた主イエスの姿を見つめなければならないのです。

 そしてさらに、私たちが主イエスの十字架から学ぶことができることはそのような深刻な罪を犯した私たちを自分の命と引き換えに救い出そうとされた主イエスの私たちに対する愛であり、その主イエスを私たちのために遣わしてくださった父なる神の愛です。私たちは今、自分の罪の問題で語ったように、自分と他人を比較して、自分の価値を判断しようとします。もちろん、自分の人生の調子がよいときにはその方法も多少の効果を上げることがあります。しかし、人生は自分でも予想のつかないことの連続であると言えます。すべてが順調に見えていた人生が、次の瞬間、絶望のどん底に投げ込まれるという体験を私たちはするのです。そのとき、私たちはたちどころに自信を失い、自分が生きていく価値を見失うことになってしまうのです。

 私が今から45年前に教会に行き始めたとき、私は人生で大きな挫折を経験して、生きる希望を失いかけていたときでした。「こんな自分の人生にも少しは希望が残されているかも知れない」。そのような淡い期待を持って私は教会の門を叩いたのです。しかし、そんな自分に教会の牧師が語った聖書のメッセージは予想に反するものでした。なぜなら私は聖書の教える神の律法、戒めを通して自分が何の希望も残されていない罪人であるということを学ばされたからです。私は聖書から自分に対して抱いていた淡い期待さえ打ち砕かれてしまったのです。

 ところがその後で私は牧師から使徒信条の教える主イエスの救いの出来事を学びました。そして主イエスがこの罪人である私のために十字架にかかってくださったことを知ったのです。「自分の命に代えてまで私が生きることを望んでおられる方がいる。私を愛して、私と一緒に人生を歩もうとされている方がおられる」。私は聖書の学びを通して主イエスと出会い、生きる勇気と希望をいただくことができたのです。

 雲の中から聞こえてきた声、父なる神の声は「これに聞け」と私たちに語っています。なぜなら私たちも主イエスに聞き従って生きるなら、この人生を生きる勇気と希望が得ることができるからです。


4.十字架を追って従うということは

①出来事の本当の意味を理解できないペトロ

 このとき、弟子のペトロはこの山上の出来事を正しく理解できたわけではありません。彼は目の前で起こる情景に驚き、恐れを感じました。その上でペトロは主イエスとモーセとエリアのために「仮小屋を三つ建てましょう」と言うしかできなかったのです。ペトロはこの出来事を記念するメモリアルホールを作ろうと提案したのです。なぜなら、ペトロはここで明らかになった主イエスの栄光の姿が、主イエスがこれから進もうとされる十字架の栄光を表すものであったことを知らなかったからです。ペトロはこの出来事の示す本当の意味を知らないまま、目の前に起こった現象だけに心を捉えられていたのです。

 そのペトロがこの出来事の本当の意味を理解するのは、主イエスの十字架と復活を体験した後のことでした。そして、ペトロがこの出来事が示す主イエスの十字架の栄光の意味を知ったとき彼の人生は大きく変わっていきました。なぜなら彼は主イエスがかつてペトロに語った言葉の通り彼は「自分を捨て、自分の十字架を背負って」主イエスに従う者となったからです。


②十字架を負って自分自身の人生を生きる

「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(8章34節)。

 主イエスがここで教える「自分を捨てる」と言うことはいったいどのようなことでしょうか。自分自身を愛せない人は「自分を捨てたい」、「自分自身を消したい」と考えています。そしてこの考えが人を自殺願望へといざなうことになります。しかし主イエスの語る「自分を捨てる」と言う言葉は決してそのようなことを語っているのではありません。むしろ、私たちがどんなに自分を嫌いであっても、自分自身に絶望していても、その自分の人生を生きることが「自分の十字架を背負う」生き方であると言うことできます。つまりどんなに自分の人生が過酷でつらいものであっても、その人生を生き抜くようにと主イエスはこの言葉を通して私たちに勧めているのです。なぜなら、私たちの罪はすべてイエスの十字架によって贖われているからです。そして私の命の価値は主イエスの十字架を通して、その御子の命と同じ価値を持つと証明されているからです。

 「自分をすて、自分の十字架を背負って」主イエスに従うことは、自分と全く違った自分になることではありません。私たちはモーセになる必要も、またエリアになる必要もありません。ペトロのようになる必要もないのです。むしろ私たちが神からいただいた自分の人生を持って、主イエスに従うとき、私たちの人生を通して主イエスの十字架の恵みが豊かに表されるのです。そして私たちの人生を通して表された十字架の恵みが人々への証となって、さらに多くの人々が主イエスの福音のすばらしさを知ることができるようになるのです。だからそのためにも、私たちは主イエスの十字架で贖われた私たち自身の人生と向き合い、その人生を生き抜く必要があるのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.「六日の後」イエスは誰を連れてどこに行かれましたか。そこでイエスの姿はどのように変わりましたか(2~3節)。

2.ここで現れてイエスと語り合った人物は誰でしたか。ペトロはこの光景を見てどのような反応を示しましたか(4~6節)。

3.雲の中から聞こえてきた声は、弟子たちに何を語りましたか。この言葉は誰の言葉であり、弟子たちに何を求めていたことが分かりますか(7~8節)。

2024.2.25「イエスの本当の姿」