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2024.2.4「イエスの目的」 YouTube

マルコによる福音書1章29~39節(新P.62)

29 すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。

30 シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。

31 イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。

32 夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。

33 町中の人が、戸口に集まった。

34 イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。

35 朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。

36 シモンとその仲間はイエスの後を追い、

37 見つけると、「みんなが捜しています」と言った。

38 イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」

39 そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。


1.なんのために働き、何のために生きるのか

 ある日本のビジネスマンが出張でアラブのある国を訪れたときのお話です。仕事の合間に地中海に面した風光明媚な海岸を散歩していた彼は、その海岸で昼間から何もしないで寝そべっている人々に出会いました。見るからに働き盛りの彼らの姿を見て、ビジネスマンはその一人の男性に次のように話しかけます。「君たちは、ここで何をしているんだい…」。するとその中の男の一人が「ここで休んでいるんだ」と答えました。ビジネスマンは「昼間から何もしないでいるのはもったいないじゃないか。今から海に出て漁でもしたらどうか…」と問いました。話しかけた相手は見るからに漁師のような雰囲気だったのでビジネスマンはそう尋ねたのです。するとその男は「漁に出てどうするんだ」と尋ね返して来たのです。「魚をたくさんとって、それを市場で売れば金を儲けることができる」と説明します。すると男は「金を儲けてどうするんだ」となおもビジネスマンに尋ねます。「金を儲ければ何でも買える。大きな船を買って、もっとたくさん魚を獲ってさらに金儲けをすれば、大金持ちにもなれるかも知れない…」。その男はビジネスマンのこの言葉を聞いて「大金持ちになったらどうするんだ」と問います。この男の言葉を聞いてビジネスマンはあきれたようにこう答えます。「そうすれば、財産ができて、大きな家に住むこともできる」。ところがその男はさらにビジネスマンに尋ねます「大きな家を手に入れてどうすんだ」。ビジネスマンは答えます「大きな家があれば、そこでゆっくり休めるではないか」。するとその答えを聞いた男は一言、「それならもうやっているよ…」と答えたというのです。

 私は子どものころに「人は何のために働くのだろう…」と言う問いについて真剣に悩んだことがあります。毎日、朝早く職場に出勤し、夜遅く疲れて帰って来る父親の姿を見ながらそう考えたのです。確かに人は生きていくために生活の糧を手に入れなければなりません。その糧を得るためには誰でも働く必要があるのです。しかし、それでは人はなぜ生きなくてはならいないのでしょうか。


2.忙しく働くイエス

 今日のマルコによる福音書の聖書箇所では忙しく働き続ける主イエスの姿が描写されています。この箇所の直前で主イエスは安息日に会堂に赴き、そこに集まる人々に教えられています(1章21節)。そしてこの会堂に居合わせた悪霊にとりつかれた男から悪霊を追い出すという御業を続けて行われます(23~20節)。今日の出来事はその同じ日に起こったものと考えられています。安息日の午後、主イエスと弟子たちは揃ってカファルナウムの町にあったシモン・ペトロの家に向かいます。そのときその家に住んでいたペトロの姑が熱を出して寝込んでいたのす。そこで主イエスはその姑の病をいやされたと言うのです。

 ユダヤ人の暦では一日は日没から始まり、次の日の日没で終わります。32節で「夕方になると」と言う言葉が記されています。これは夕方になり日が沈むと安息日である土曜日が終わって、日曜日が始まったことを示す言葉であると言えます。悪霊を追い出し、人の病をいやされる主イエスの御業についてのうわさを聞いた人々は、「神を礼拝する以外のことはしてはならない」と言う当時の習慣を守って安息日が終わるのを待ってました。そして夕方になると彼らは大挙してシモン・ペトロの家の戸口に押しかけ、主イエスに助けを求めたのです。主イエスはこの人たちにも同じように救いの手を指し伸ばし、そこでたくさんの人々が癒やされたのです。

 さらに時間は経過して行きます。朝が早くまだ暗いうち、つまり日曜日の明け方に主イエスは起き出して、一人で人里離れた場所に出かけて行きました。そこで父なる神に祈りをささげるためです(35節)。もしかしたら、主イエスはペトロの家の戸口に押しかけた人たちを助けるために夜通し働き、わずかな時間しか寝ていなかったのかも知れません。それでも主は朝、暗いうちから起きて祈りの場に向かったと言うのです。

 この出来事から忙しく働く主イエスの原動力の秘密が、この祈りの場にあったことが分かります。主イエスはこの祈りの場で父なる神に祈り、その父なる神との関係から豊かな力を受けることができたと考えることができます。このように主イエスの活動にとって最も大切だったのは、この父なる神との関係です。そしてこの関係は主イエスだけではなく、私たちの人生においても最も大切な関係であることが今日の物語からも分かるのです。


3.悪霊を追い出し、病気を癒やす

①悪霊の働き

 この直前の会堂での出来事と同じように今日の短い物語の中でも「悪霊にとりつかれた者」たちが登場しています。私たちは「悪霊」と言う言葉を聞くとオカルト映画に登場するような特殊な霊現象を想像しがちです。しかし、この当時の世界では「悪霊」の存在は現代人の私たちよりもっと現実的で、身近な存在であったと考えることができます。なぜなら当時の人々は自分たちの知識や経験では簡単に説明がつかない現象を、すべて「悪霊」の仕業と言う風に理解する傾向があったからです。この箇所では「悪霊に取りつかれた人」と一緒に「病に苦しむ人」、「病人」と言う人々も登場しています。実は当時の人々はこの病気と言う現象でさえも悪霊の働きによるものと考えたていたと言えるのです。ですから現代であれば、ここに登場する人々はほとんど医学の助けを必要としていた病人であると考えることもできるのです。

 ただ、聖書が悪霊の働きを問題にするのは、その悪霊が「神と私たち人間との関係を切り離して、破壊する」ため働いていると言えるからです。そのように考えると悪霊の働きは映画で描かれるような特殊な霊現象だけではなく、むしろ私たちの毎日の生活に働いているとも考えることができるのです。


②今も実現している主イエスの御業

 主イエスは悪霊に取りつかれた人から悪霊を追い出し、また病人の病を癒されました。もちろん、主イエスに御業によってこれらの人々は苦しみから解放され、日常生活を回復することができたと考えることできます。しかし、主イエスの御業の本当の目的は、むしろ悪霊によって破壊され失われていた神と人との関係を回復させるところにあったと考えることができるのです。なぜなら、主イエス語った「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(15節)と言うメッセージは主イエスの到来によって私たち人間と神との関係が回復されることを教えているからです。そのような意味で主イエスは一人一人の人生にこの神との関係が回復するために働きくために来られた救い主であると言えるのです。ですから福音書がここで紹介しているような人々から主イエスによって悪霊が追い出され、その人の病が癒やされるという現象はこの神の国が実際に実現したことを表す証拠であったと考えることができます。

 ただ誤解してはならないのは、主イエスの御業と病の癒しとの関係です。なぜなら、たとえ病が癒やされなくても、むしろその病を通してその人と神との関係が回復されるという出来事も主イエスにとっては可能だと言えるからです。ですから、主イエスに救われた私たちにとっては病は神との関係を破壊するためではなく、むしろ神との関係を深めるためにも働くことができるのです。実際、私たちの多くもこの病気のために主イエスと出会い、その救にあずかることができたと言う体験を持つ方が多くおられるはずです。それは主イエスの御業によって病気が私たちと神とを結びつけるために用いられた証拠であると言えます。このような意味で主イエスの御業は私たちの信仰生活の上に今でも実現し続けていると言えるのです。


4.神のために生きた主イエス

①ヨブの苦しみの意味

 旧約聖書に登場するヨブは神を熱心に信じ続けた正しい人物として描かれています。ところがこの物語では最初に悪魔が登場して、その悪魔はこのヨブの信仰について神の前でケチをつけようとします。悪魔は「ヨブが神に求めているのは神が与えてくださる恵みだけだ」と言うのです。「だからヨブはその報酬をもらうために必死に神を信じているに過ぎない」と悪魔は語ります。そして「ヨブでさえもその報酬がもらえないと分かれば、すぐに信仰を捨てるに違いない」と神に訴えたのです。

 やがて神の赦しを受けた悪魔はヨブから家族と全財産を奪った上で、頭の先から足の先まで全身を覆う病を彼に与えます。そしてそれによって悪魔はヨブと神との関係を破壊しようとしたのです。しかし、この悪魔の企みは成功することがありませんでした。なぜなら、全身を病に犯されたヨブはその理由を最後まで神に問い続け続けたからです。ヨブの元を何人かの友人が訪れ、まるで自分たちは何でも知っている哲学者でもあるかのようにヨブに語り、ヨブの体験した苦しみの意味を説明しようとします。しかしヨブは彼らの語る答えに満足すること決してできませんでした。なぜならヨブは自分の人生を襲った苦しみの意味は神にしか説明できないこと知っていたからです。だから、彼は神から離れることなく、むしろ神に問い続けたのです。

 残念ながらヨブ記の中には人間が体験する苦しみに対する神の明確な答えが記されている訳ではありません。おそらくそれが語られていない理由は、人が受ける苦しみにはそれぞれ個別の大切な意味があるためです。だから誰か他人の体験した苦しみの意味は必ずしも私の受けている苦しみの説明にはならないのです。

 ただ、大切なことはこのヨブ記はたくさんの人々によって読まれ続け、ヨブと同じように自分の受けた苦しみの意味が分からずに苦しみ続ける人々を神に導く役割を果たし続けていると言うことです。つまり、苦しみ続けたヨブの人生は同じように苦しむ人を神に導き、その人と神との関係を回復させるために用いられたと考えることができるのです。


②人は神のために自分の人生を生きる

 人は何のために生きるのでしょうか。なぜ、その人生で意味のわからない苦しみを体験しても人はなお生き続ける必要があるのでしょうか。金儲けをして、財産を作り、豪華な家で休むために人は熱心に働くのが私たちの人生の目的なのでしょうか。もしそうだとしたら今日の福音書に登場する主イエスの行動の意味は分からなくなってしまいます。なぜなら、主イエスはこの世の人々から何の報酬も受けることがなかったのに、熱心に働き続けられたからです。

 今日の聖書箇所の最後の部分で主イエスは神に祈りをささげた後に次のように弟子たちに語っています。

「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」(38節)。

 もし、主イエスがこのときシモン・ペトロの「みんなが捜しています」(37節)と言う声に答えて、シモンの家があったカファルナウムの町に戻っていたらどうだったでしょうか。そこには主イエスに悪霊を追い出していただいた人々が、また病を癒していただいた人たちがたくさん待っていました。主イエスはそこでその人々から賞賛の言葉を受けることができました。もしかしたら彼らから様々な報酬さえ受けることができたかも知れません。しかし、主イエスは決してカファルナウムに戻るとは言われませんでした。なぜなら、主イエスは人々から報酬を受けるために熱心に働いたわけではないからです。それでは主イエスは何のために働き、何のために生きようとしたのでしょうか。それは父なる神のためです。自分の人生を用いて救いの御業を実現されようとする父なる神のために、主イエスは働き、またその地上の生涯を送られたのです。そしてその生涯はやがて十字架への道へと進んで行くのです。神は私たちの人生も豊かに用いてくださる方です。十字架にかけられた主イエスの生涯を用いて素晴らしい救いをこの世界に実現してくださったように、また自分の受けた苦しみの意味を問い続けたヨブの人生を用いてくださったのと同じようにです。

 私たちの人生にはそれぞれ神から与えられた大切な意味があります。たとえその人生が病や苦しみに満ちていたとしても、その人生には神の隠された御心があります。だからこそ、私たちはその神の御心が実現するために自分の人生を生きる必要があるのです。

 ある信仰者が自分を導いた信仰の師を賞賛して次のような言葉をその師匠に語りました。「先生、あなたは聖書に記されたモーセのような人です」。ところがその師匠はこの言葉を聞いてすぐに首を振りながらこう答えました。「わたしがこの世の歩みを終えて神の前に立つとき、神は私に「モーセのように生きたか」とは決して問われない。「あなたは自分の人生をあなたらしく生きることができたか」と問われるに違いない…と。神は私たちに一人一人に他の人とは違う人生を与え、そこに特別な意味を与えてくださっています。だからこそ、私たちはこの人生を神のために生きることで自分の人生に与えられた大切な使命を果たして行きたいと考えるのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.カフェルナウムの町に着いたイエスの一行は、そこでどこに行って何をされましたか。また、その日はユダヤ人たちにとってどんな日でしたか(21節)。

2.汚れれた霊に取りつかれた男はイエスに向かって何と言いましたか。その言葉を聞いてイエスはこの男に何をされましたか(23~26節)。

3.どうして人々はイエスの教えを「権威ある新しい教えだ」と考えたのでしょうか(22節、27節)。

4.イエスの一行がシモン・ペトロの家に行くとそこでどんなことが起こりましたか(29~31節)。

5.この日の夕方、どうして人々はシモンの家の戸口に集まったのでしょうか。イエスはそこで何をされましたか(32~34節)。

6.朝早くまだ暗いうちに、イエスはどこに出て行かれましたか。イエスがそこに行った理由は何ですか(35節)。

7.なぜシモン・ペトロたちが「みんなが捜しています」とイエスに告げたのに、イエスはカファルナウムの町に戻らないで他の町に行ったのでしょうか(35~39節)。

2024.2.4「イエスの目的」