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2024.3.10「神の右に座すキリスト」 YouTube

エフェソの信徒への手紙1章19~23節(新P.353)

19 また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。

20 神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、

21 すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。

22 神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。

23 教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。


ハイデルベルク信仰問答 問50~51

問50 なぜ「神の右に座したまえり」と付け加えるのですか。

答 なぜなら、キリストが天に昇られたのは、そこにおいて御自身がキリスト教会の頭であることをお示しになるためであり、この方によって御父は万物を統治なさるからです。

問51 わたしたちの頭であるキリストのこの栄光は、わたしたちにどのような益をもたらしますか。

答 第一に、この方が御自身の聖霊を通して、御自分の部分であるわたしたちのうちに天からの賜物を注ぎ込んでくださる、ということ。そうして次に、わたしたちをその御力によってすべての敵から守り支えてくださる、ということです。


1.神の右に座すキリスト

①復活して天に乗られた主イエス・キリスト

 今日は受難節の第四週の礼拝ですが、毎月第二週目は伝道礼拝として改革派教会の信仰の内容を伝えるハイデルベルク信仰問答から学んでいます。今日はこの信仰問答の問51と52について皆さんと一緒に考えたいと思います。

 私たちの主イエス・キリストは約2000年前にこの地上にお生まれになり、救い主としての生涯を歩まれました。そしてその生涯の最後が十字架と復活と言う出来事で、私たちはその出来事を記念する受難節(四旬節)を過ごしています。すでに私たちが学んだように、主イエスは十字架にかけられた後、三日目に甦られました。その後、聖書によれば更に40日間に渡って主イエスはこの地上に留まり、復活された姿を弟子たちに表わされたと記録されています。そしてさらに、主イエスはこれも同じように弟子たちが目撃している前で天に昇られたのです(使徒1章3~11節)。私たちは前回の伝道礼拝で、キリストが天に昇られたという事柄が私たちの信仰生活にとって何を意味するのかについて学びました。主イエス・キリストは私たちを地上に置いてきぼりにされて、一人で天に昇られたのではありません。むしろ、私たちがどこにあってもこの主イエスと共に生きるために、主イエスは天に昇られたのです。そして天に昇られた主イエスはそこから聖霊を私たちに送ってくださって私たちと共に生きてくださっていることを学んだのです。

 今日の問答ではこれに続いて「神の右に座したまえり」と言う使徒信条の言葉から、さらに天に昇られた主イエス・キリストがそこから地上に生きている私たちとどのように関わってくださっているのかについて考えようとしています。


②「右に座る」とは

 まず、何度も確認していますが聖書が語る「天」と言う言葉は単に空の上にある特定の空間を指しているものではありません。聖書が語る「天」とは神がおられる場所を意味しています。私たちはこの「天」と区別して、私たちが住む場所を今、「地上」と言う言葉で呼んでいます。しかし、ある意味この私たちの住む地上でさえも、目には見えませんが神がおられると言うことから言えば「天」であるとも考えることができます。つまり、聖書が語る「天」とは私たちの肉眼の目では見ることができませんが、確かに今存在している神の世界を表す言葉であると言えるのです。つまり、主イエス・キリストは私たちの目には見えませんが、父なる神と共に「天」におられると言うことを聖書は語っているのです。

 それでは主イエス・キリストはこの「天」において今、どのような立場に置かれ、何をされているのでしょうか。それが「右に座す」と言う言葉で表現されている内容です。ですからこの「右に座す」とは単に主イエスが父なる神の右側に座っているということを表している言葉ではありません。日本でも「右に立つ者はいない」と言う言葉でその人の地位の高さを表現しますし、それとは反対に「左遷」と言う言葉でその人が持っている地位が奪われるような出来事を表現することもあります。つまり、この「右に座す」と言う表現は主イエス・キリストが天においてどのような立場に置かれているのかを説明する言葉になっているのです。

 今日の礼拝の聖書の朗読箇所では「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました」(エフェソ1章20~21節)と語られています。聖書が教える真理によればこの世界の真の支配者は天におられる父なる神です。そしてキリストがその父なる神の右に座すと言うことはその父なる神の代理者となられたこと、だから「すべての支配、権威、勢力、主権」がこの方のものになったと言うことを表しているのです。

 この手紙が読まれた時代、多くのキリスト者はローマ帝国の支配の中で生きていました。そしてこのローマ帝国の頭である皇帝は、キリスト教会を迫害し続け、そのためにキリスト者は厳しい立場に立たされていました。その彼らに聖書はキリストの支配を告げているのです。キリストはローマ皇帝をはじめとする地上のすべての権力者の上におられる真の支配者です。これは当時のキリスト者にとってどんなに慰めであり、励まし言葉であったか知れません。なぜなら、このキリストの御心でなければ、地上の支配者たちはキリスト者に対して何もすることができないからです。だから当時のキリスト者たちは厳しい迫害の中でもローマ皇帝の意志ではなく、この出来事を通してキリストが何をされようとしているのかを期待し、その主イエス・キリストの支配に大きな希望を見出そうとしたのです。


2.教会の頭であるキリスト

 キリストが地上のすべての権力者の上におられ、そしてこの世界のすべてを支配する方であると言う信仰は、その地上で生きるキリスト者を慰めるだけではなく、彼らに大きな使命を与えるものにもなると言うことを今日の信仰問答の文章は語っています。それが「教会の頭」と言う言葉で表現されている内容です。この「教会の頭」と言う表現も先ほどのエフェソの信徒への手紙では次のように語られています。

「神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です」(1章22~23節)。

 キリストはすべてのものの支配者となるために神の右に座られました。そして今もキリストはこの地上のすべてを支配しておらるのです。そしてその支配の方法はご自身の体である地上のキリスト教会を通して実現されると聖書はここで語っています。つまり、キリスト教会はその頭である主イエス・キリストの体となってこの地上を支配し、治める使命を与えられていると考えてよいのです。

 もちろんここで語られる支配はこの地上の権力者が行うような支配とは全く違うものであることを私たちは覚える必要があります。福音書でも主イエスは「自分たちの王となって、ローマの権力者と戦い、自分たちの国を作ってほしい」と願う当時のユダヤの人々の願いを退けておられます。なぜなら、キリストの支配とは私たちを罪と死の支配から解放し、永遠の命である神と共に生きさせるための支配、目には見えない霊的な支配を意味しているからです。

 ですから、キリストの体である教会は全世界に出て行って神の国の福音を語り伝え、人々を神のもとに立ち返らせ、キリストの救いにあずからせことを通して、キリストの霊的な支配の下に人々を導く使命を負っているのです。そして、天におられる主イエス・キリストは私たちがこの使命を全うすることができるようと私たちに神の御言葉である聖書の言葉を与え、また天から聖霊を送ることで私たちを導いてくださるのです。


3.教会に聖霊を送ってくださるキリスト

①私たちの信仰生活におこる問題点

 そこで信仰問答はこの重要な使命をこの地上で果たしている私たちキリスト教会に対して、天におられるキリストはどのような益を与えてくださるのかを続けて問51でこう説明しています。

「第一に、この方が御自身の聖霊を通して、御自分の部分であるわたしたちのうちに天からの賜物を注ぎ込んでくださる、ということ。そうして次に、わたしたちをその御力によってすべての敵から守り支えてくださる、ということです。」

 ここでも主イエスは天から聖霊を御自身の体である教会に送り、私たち一人一人に豊かな賜物を注ぎ込んでくださると語られています。つまり、私たちが主イエスから与えられた使命を果たすためには、自分たちが元々持っている人間的能力では通用しないのです。だから主イエスは私たちに聖霊を送って、私たちを助けてくださると言っているのです。

 先日のフレンドシップアワーでその参加者の一人の方がガラテヤの信徒への手紙の5章に記されている「肉の業と霊の結ぶ実」つまり「聖霊の賜物」について語る言葉を紹介してくださいました。その方がこの言葉をどのように読んでいるのか詳しくは聞くことができなかったのですが、毎日の信仰生活の大切な指針として読んでおられるということは分かりました。ただ、わたしはこの箇所から自分の信仰生活について私たちが顧みることは大切だと思うのですが、自分は今、「肉の業」に生きているのか、それとも「霊の実を結んでいるのか」をチェックすることでがっかりしたり、喜んだりするような読み方が少し違うのではないかなと私は思っています。

 私にはこんな思い出があります。私が洗礼を受けた後、同じ教会で洗礼を受けた高校生がいました。私の目から見ても彼はとても誠実でまじめなタイプの人間です。その教会では礼拝の中で、毎週自分の信仰の証をするという時間が回ってきます。そこで当番になった人は自分の信仰生活について礼拝の出席者に語るのですが。この高校生の証は「今週は神様の導きで、祈ることも、伝道をすることもできました」と喜びに満たされて語るのですが、その次の週は「今週はテレビを見てしまって、お祈りをすることを忘れてしまいました」とても暗い顔で語るようなものでした。それで私はこの高校生の証を聞いて、彼の信仰生活がとても不安定なように感じました。なぜなら、彼の証を聞いていると今週は神様が近くにおられると言ったと思えば、次の週にはその神様がどこかに行ってしまっていると言うようなことを語り、アップダウンの激しい信仰生活を送っているように思えたのです。その問題もあってか私は彼と青年会で聖書の言葉の解釈を巡って激しく対立することが度々ありました。その後、私はその教会を離れて聖書の教理を重要視する改革派教会に移り、彼はむしろ聖書に基づく体験を重んじる他の教派の教会に移って行きました。


②肉の業と霊の結ぶ実

 パウロがこのガラテヤ書で言っている「肉の業」とは結局、私たち人間の心の中から出て来るものすべてを語っています。だからパウロはその肉の業について「姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです」と言う目録を語っています。人間の始祖アダムの犯した罪によって堕落した人間は、自分から善いことを行う能力を全く失ってしまいました。ですから、私たちの内側からでるものはこの「肉の業」だけなのです。だから私たちはこのままでは神の国を受け継ぐことできないとパウロも述べています。私たちはむしろ神の厳しい裁きによって滅ぼされるべき存在でしかないのです。

 そのような意味で私たち人間は主イエス・キリストの十字架の贖いによる救いがなければ、神の国を受け継ぐことのできない滅ぼされるべき罪人でしかないと言えるのです。ですからこの「肉の業」の目録は私たちがキリストの救いを必要としている滅ぼされるべき罪人であることを表していると考えることができます。しかし、感謝なことにキリストはこの私たちのためにすでに十字架にかかりその命をささげることで、その罪をすべて贖い、私たちを赦してくださったのです。そして今は、そのキリストの恵みによって私たちはキリストの体である教会に属する者とされました。そしてキリストはその私たちに聖霊を送って、御自分が持っておられる豊かな賜物を与えてくださると言われているのです。

 パウロはこの聖霊が結ぶ賜物について次のように語っています。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません」。注意すべきなのはここに登場する目録に上がったことは私たちの努力によって結ばれる実ではないと言うことです。すべてはキリストが天から送ってくださる聖霊によって私たちに与えられるものなのです。ですから私たちの信仰生活の上にこれらの実が見つかるとしたら、それは私たちの努力の結果ではなく、聖霊の賜物なのです。だから、私たちはそのことの故に自分を誇ることはできません。ただ私たちは聖霊を私たちに送ってくださった天におられるキリストに感謝をささげるだけなのです。


➂キリストによって守られている私たち

 そのような意味でキリストの体とされている私たちは、私たち人間がどんなに自分で努力しても自分からは「肉の業」しか行いえない罪人であることを証言し、そのすべての人間にキリストの赦しが必要であることを伝える使命を与えられています。

 また、そのような罪人である私たちを主イエス・キリストはご自身の命を持って贖うことで救い、私たちに聖霊を遣わすことで私たちの人生を通して豊かな聖霊の実を結ばせてくださることで、私たちの信仰生活を祝福してくださるのです。

 確かに私たちの信仰生活はこの私たちがこの地上に留まる限り、様々な困難に襲われるかもしれません。私たちを神の愛から引き離そうとする様々な力が私たちに働く限り、私たちの地上での信仰の戦いは続くからです。しかし、その私たちを「神の右に座して」おられる主イエス・キリストはその御力を持って、守ってくださると信仰問答は語っています。

「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」(ヨハネ10章28節)。

 キリストの体の一部とされた私たちをキリストの手から奪うことのできる者は誰もいません。だから、私たちは安心して、私たちに与えられた使命を聖霊の助けによってこの地上で行うことができるのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.まず、あなたもハイデルベルク信仰問答の問50と51の本文を読んで見ましょう。この信仰問答は天に昇られたキリストについて「神の右に座しためり」と言う言葉を付け加える理由をどのように説明していますか(問50)

2.今、父なる神がキリストを通して万物を統治されているとしたら、そのキリストが頭であるはずの教会にはどのような使命が与えられていると思いますか。

3.「神の右に座す」という栄光を受けられた私たちの頭であるキリストから、わたしたちにはどのような益がもたらされていると信仰問答は説明していますか(問51)。

2024.3.10「神の右に座すキリスト」