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2024.3.17「一粒の麦としてのイエスの死」 YouTube

ヨハネによる福音書12章20~33節(新P.192)

20 さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。

21 彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。

22 フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。

23 イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。

24 はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。

25 自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。

26 わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」

27 「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。

28 父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」

29 そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。

30 イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。

31 今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。

32 わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」


1.まことの栄光とは

①洗礼志願者の訓練期間

 今朝は受難節(四旬節)第五週の礼拝になります。次週の礼拝は受難週の礼拝となり、そしてその次の31日の日曜日は復活祭の礼拝を行うことになります。もともと教会でクリスマスが祝われるようになったのは相当後のことであったことが教会史を学ぶと分かります。それに対して復活祭の備えをする受難節や受難週の習慣は教会の初期の時代から存在し、特にこの受難節の期間の40日は教会に新たに加わる洗礼志願者のための訓練のために用いられていたことが記録によって分かっています。

 洗礼を受けて新たに教会員の仲間入りをするためには十分な訓練の期間が必要です。なぜなら、この訓練を怠れば、洗礼を受けた後の教会生活を喜びと感謝を持って送ることができなくなってしまうからです。特に私たちの教会生活における喜びと感謝の根拠は、私たちのために十字架にかかり死んでくださり、三日目に甦ってくださった主イエスにあります。ですから、洗礼志願者はこの期間、特に主イエスと自分との命の関係を確かめて、その救いの恵みを確信した後に洗礼を受ける必要があるのです。そして今日の礼拝で読まれる聖書箇所も主イエスと私たちとの命の関係を確かめるための物語となっています。


②ギリシャ人たちの願い

 今日の聖書箇所では、まずギリシャ人と呼ばれる人々が登場します。彼らはおそらくヘブライ語をしゃべらない外国人と考えてよいでしょう。この人たちは「祭りのためにエルサレムに上って来た人々」の中の「何人か」(20節)と呼ばれています。そのような意味では彼らはユダヤ人のように割礼を受けてはいませんでしたが、聖書の教える真の神を信じる信仰を持っていた人々であったとも考えることができます。このギリシャ人たちは「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と主イエスの弟子の一人であるフィリポに頼んだと記録されています(21節)。するとそのフィリポは同じ弟子仲間であるアンデレにこのことを伝え、二人で一緒になって主イエスにギリシャ人たちの願いを伝えに行ったと言うのです(22節)。そして主イエスは彼らからギリシャ人たちのことを聞いて「人の子が栄光を受ける時が来た」(23節)と語ったと言うのです。

 この後、そのギリシャ人たちがどうなったのかは一切説明されていません。ギリシャ人が実際に主イエスに会うことができたかどうかも分からないのです。そしてその前に、このギリシャ人たちがなぜイエスに会うことを願ったのかと言う理由も説明されていません。ましてや、なぜ主イエスは彼らのことをフィリポとアンデレから聞いて「人の子が栄光を受ける時が来た」と言ったのかも、どうもこれもよく分かりません。そういう意味では今日の物語は少し分かりにくい内容となっています。


➂十字架無しの栄光を主イエスに求める

 つい先日亡くなられたカトリックの森一弘と言う神父がこの箇所について次のように書いているのを文章で読みました。ギリシャ人たちは「今、ユダヤ人たちの中で一番、評判になっているイエスに会って見たい」と考えたのではないか…。この森神父の解釈から考えるとそれはまさに大リーガーの大谷翔平選手が空港に到着するのを待っている群衆の真理と同じかも知れません。だからギリシャ人たちも当時、大変に有名になっていたイエスと言う人物に会うことを願ったのです。もしかしたら彼らはイエスに会うことで「俺たち、あの有名ないイエスと会うことができた」と周りの知り合いたちに誇りたかったのかもしれません。

 その森神父はこうも説明しています。「もし彼らが、主イエスが十字架に付けられて無残な姿で死んで行くことを知っていたらなら、彼らは同じように主イエスに関心を示したであろうか…、決して「会いたい」などと願わなかったはずだ…」と言うのです。つまり、ギリシャ人たちは主イエスに対して、十字架無しの栄光、自分たちが勝手に思い描いている栄光の姿を当てはめようとしたと考えることができます。そして森神父は実はここで登場するフィリポもアンデレも同じように主イエスのことを考えていたに違いないと言うのです。つまり、ここの登場する人々は皆、主イエスに対して、十字架無しのこの世の栄光の姿を期待していたのです。だからこそ主イエスはこの箇所で本当の栄光が十字架の業を通して実現することを改めて語り出したと考えることができるのです。

 多くの教会の建物には十字架が掲げられています。しかし、そこに尋ねて来る人の多くは決してこの十字架が示す、救い主イエスを求めてやって来るわけではありません。多くの人は自分なりの期待を持って教会にやって来るのです。そのような意味ではこの聖書に登場するギリシャ人や主イエスの弟子たちとほとんど変わらないと言えるのです。しかし、本当に主イエスから救いの恵みをいただくためには誰でもこの十字架にかけられた主イエスに出会う必要があります。そして聖書はこの主イエスの十字架のときこそが神の栄光が豊かに表されたときだと教えているのです。


2.一粒の麦

 それではなぜ、主イエスはご自身が十字架にかけられる時を「栄光を受ける時が来た」と語ったのでしょうか。実は主イエスご自身がそのことを私たちに理解させるために語ってくださったのが「一粒の麦」と言うお話であると言えるのです。

「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(24節)。

 子どものころ麦畑で麦踏の手伝いをしたことがありますが、主イエスが語る「一粒の麦が地に落ちて死ぬ」と言う言葉が表しているのは、麦の種が発芽して麦に成長していく過程で、もともと蒔かれた種はもはや原型をとどめなくなっていることを言っているのです。もし、蒔かれた種が元のままであったとしたら、それは種が発芽しなかったと言うことになり、本来の種としての役目を果たせなかったと言う意味になります。しかし、種が発芽して麦の穂が見事に成長すれば、やがて多くの実が結ぶことができます。主イエスの十字架上での死はまさにこの一粒の麦の役目を果たしていると言えます。だから主イエスの死によって、その主イエスの救いにあずかる者たちが生まれたのです。主イエスを信じる私たちはこの主イエスの十字架の死を通して、その主イエスから新しい命をいただくことができるようになったのです。だからもし、ここで主イエスが十字架の死を嫌って拒むようなことがあったら、私たちは新しい命を受けることができなくなっていたと言うことができるのです。

 今日の箇所の後半部の言葉では改めてこの主イエスの十字架の死と主イエスの受ける栄光との関係が語られています。

「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」(27~28節)

 主イエスの栄光はこの十字架の死を通して豊かに表されました。なぜなら、この死を通して私たちのような滅ぼされるべき罪人が救い出され、新しい命を受けることができるようになったからです。ですから私たちが本当に神からの恵みをいただこうと願うなら、この主イエスの十字架を通してのみそれを願い出る必要があります。そして私たちはこの十字架につけられた主イエスの栄光を褒め称え、またその方に感謝して信仰生活を送る必要があるのです。


3.自分の命を憎む者

 さらに興味深いことに主イエスはこの箇所で主イエスを信じる私たちにも「一粒」の麦となって生きるように、また主イエスに仕えたいと願う者はその主イエスに従て生きるようにと促してくださっています。

 この勧めの中でも特にこの主イエスが語った「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」(25節)と言う言葉は注意して読む必要があるかも知れません。なぜなら「自分の命を憎む」とは自分自身の存在を自己嫌悪して、その命を粗末に扱うと言う生き方を語っているのではないからです。あるいは命知らずで、自分の命を惜しまない鉄砲玉のような生き方を勧めているのでもないのです。

 この言葉を正しく理解するためは最初の「自分の命を愛する者」と言う言葉の解説からする必要があります。これは一粒の麦の成長過程のように、私たちが自分の生き方をがっちりガードして変化することを拒んで生きたとしたら、決して一粒の種の役割を果たすことができないと言うことを教えています。だから後半部分の「自分の命を憎む」とはそのガードを外して、神と交わり、その言葉に耳を傾ける、また自分の隣人たちと共に生きて、その隣人たちの言葉に耳を傾ける生き方を教えていると考えることができるのです。

 対人関係の中で自分を含めてよく私たちが気づくことは、私たちは皆、他人の口から自分が期待する言葉だけを聞こうとする傾向があると言うことです。いくらそれが自分に対して親身になってアドバイスしてくれる人の言葉であっても、私たちは自分に都合の悪い言葉を受け入れることはできないのです。むしろ、私たちはその忠告の言葉に反発して、相手が根負けして、こちらの期待した言葉を語りだすことを待っているのです。しかし、その結果はどうなるでしょうか。私たちは古い自分自身の生き方を貫くことはできても、決して新たな成長を遂げることはできません。これは蒔かれた種がそのままの姿を保ち、決して実をつけることができずに、人生を終わらせていくことと同じとなります。


4.自分の命を憎む者とは

①自分の命を何のために使うのか

 そもそもなぜ、私たちは「自分の命を愛する」必要がないのでしょうか。それは第一に私たちの命は既に主イエスの愛の対象となっているからです。だから私たちはもはや必死になって自分の命を守る必要はないと言えるのです。かつて罪の死の支配の中で奴隷のように生き、死の滅びへとまっしぐらに進んでいた私たちの命は、主イエスは十字架の御業によって死から命へと救い出してくださいました。そして、その主は復活されて今も私たちと共に生きてくださり、私たちの人生を導いてくださるのです。

 むかし、テレビのCMで小学生の子どもに「君の将来の夢は何?」と尋ねると「健康で長生きすること」と言う答えを返すというものがありました。もちろん、「健康で長い生きしたい」と言うことは間違いではないでしょう。しかし、この質問者が聞きたかったのは「健康で長生きして」一体その人生で何をするのかと言うことだったと思うのです。おそらく主イエスがここで言いたかったのは「自分の命を愛する」ことは決して私たちの人生の目的ではないと言うことです。大切なのはその命、主イエスに愛され、その方によって救われた私たちの命を何のために使うかと言うことなのです。そこで大切なのは私たちが一粒の麦である主イエスの生き方にならって、自分の命を使っていくことだとこの物語は教えるのです。もちろん、それは私たちが自分の命を捨てて誰か他の人の罪を償うようなことを言っているのではありません。

 むしろ、私たちは私たちを愛してくださった主イエスのために生きること、また、その主が同じように愛してくださっている隣人と共に人生を生きることを主は勧めてくださっていると考えることができるのです。そしてまずそのためには私たちが勝手に抱いている神に対する期待や、人に対する期待を捨てて、相手のありのままを知り、その相手を受け入れて行く必要があるのです。しかしそれは私たちにとって簡単なことではありません。むしろそれは私たちにとって最も困難な十字架への道であると言ってよいのです。しかし、主イエスはそのように生きる私たちを喜んでくださり、御自分のいる場所にいさせてくださるとここで約束してくださっているのです。


②主イエスの奉仕

 大切なことはすべての私たちの生き方の根拠は、主イエスが私たちのためにしてくださった御業にあると言うことです。今日の箇所では主イエスが十字架にかかりそこで命を捨てて、私たちのために一粒の麦となってくださったからこそ、私たちにも同じような生き方が可能となるのです。

 それはこの礼拝でも同じです。なぜ、私たちはこの教会に集まって神を礼拝することができるのでしょうか。それは主イエスが十字架にかかって、その命で私たちの罪を償ってくださったからです。そして、その主イエスは今も生きて、天から聖霊を送って、私たちが神をこの教会で礼拝することができるようにしてくださっているのです。

 教会の礼拝は様々な人の奉仕で成り立っています。説教をする者もいれば、司会や奏楽の奉仕をする者もいます。その他に受付や献金当番、会堂掃除の奉仕もあります。またこの礼拝に出席すること自体も神への奉仕であると考えることもできるでしょう。しかし、この礼拝で一番奉仕してくださっているのは主イエスご自身であると考えることができるはずです。なぜなら、この主イエスの奉仕がなかったら、私たちの礼拝は決して成立することができないからです。そして私たちの奉仕はこの主イエスの奉仕によってはじめて可能となるのです。

 これは一粒の麦の生き方も同じです。私たちのために主イエスは一粒の麦のなってくださったからこそ、私たちの命も一粒の麦のようにたくさんの命の実を結ぶことができるようにされているのです。そのような意味で私たちの命はこの主イエスによって今や素晴らしい実を結ぶ命に変えられていると言ってもよいのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.今日のお話の中で祭りのときにエルサレムに礼拝をするためにやって来た人はどういう人でしたか。彼らは何を願いましたか(20~21節)。

2.この人たちの願いを取り次いでイエスに伝えた弟子は誰でしたか。主イエスはこの言葉を聞いて何と答えましたか(21~23節)。

3.主イエスは一粒の麦のたとえを通してご自分の何を説明されたのでしょうか(24~25節)

4.このお話を私たちの信仰生活に適応するとき「自分の命を愛する者」とはどのような生き方を表していると思いますか。また「自分の命を憎む人」の生き方とはどのようなことを言っているのでしょうか。

2024.3.17「一粒の麦としてのイエスの死」