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2024.3.24「神に見捨てられたイエス」 YouTube

マルコによる福音書15章21~39節

21 そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。

22 そして、イエスをゴルゴタという所――その意味は「されこうべの場所」――に連れて行った。

23 没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった。

24 それから、兵士たちはイエスを十字架につけて、/その服を分け合った、/だれが何を取るかをくじ引きで決めてから。

25 イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。

26 罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。

27 また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。

29 そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、

30 十字架から降りて自分を救ってみろ。」

31 同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。

32 メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。

33 昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。

34 三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

35 そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。

36 ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。

37 しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。

38 すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。

39 百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。


1.死ぬことは不信仰?

 今日は主イエス・キリストが子ロバに乗ってエルサレムの町に入場されたことを記念する「棕櫚の主日」の礼拝をささげます。そして今週は主イエスが苦難を受け、十字架にかけられたことを記念する「受難週」を送ることになり、次の日曜日にはその主イエスが死より甦られたことを記念する復活祭、イースターの礼拝をささげる予定になっています。そこで今日、私たちはこの「棕櫚の主日」に来るべきイースターの礼拝を迎えるための準備として、聖書が教える主イエスの十字架の死の出来事と向かい合い、その意味を学んで行きたいと思うのです。

 もう相当前のお話ですが、私はこの教会の礼拝に何度が出席されていた一人のご婦人の葬儀に出席して、その葬儀でとても強い違和感を覚えたことがありました。そのとき私はその方の訃報を教会の姉妹から聞いて、何人かの人と共にその方の葬儀に参加することになりました。小さな葬儀場で行われた式でしたが、その式の司式はその亡くなられたご婦人のご家族の関係からか…、私がよく知らない教派の若い牧師の方がしておられました。そして私が違和感を覚えたのはその牧師が語る葬儀説教の内容でした。なぜならその牧師は説教の中で「神様を信じれば医者が見放した病気でさえ癒されることができる」というような趣旨の主張を繰り返し述べて、その実例ともなる人々の証を披露していたからです。確かにキリスト教の葬儀の目的は出席者が神を賛美し、礼拝をささげるために行なわれるものです。ですから、その牧師は説教の中で神の力のすばらしさを賛美したかったのかも知れません。しかし、私はその説教を聞いていて、「それでは今日、ここで葬儀を行っている姉妹の信仰はどう考えるのか…」と言うような余計な心配を感じてしまったのです。なぜなら、その姉妹は結果的に病にかかり、そのまま癒されることなく亡くなられていたからです。私は「この姉妹の病が癒やされなかったのは神様が助けてくださらなかったからと言うことになるのかな…。それとも姉妹の祈りが足りなかったからなのか、あるいはその信仰が不完全だったのか…」。私はその説教をからそんな心配をし始めてしまったのです。

 確かに私たちの病を癒してくださるのは神の御業であると言うことができます。神はその力を人間に与えてくださった医学と言う技術を使って表されることもあります。また、医学とは違った直接的な力を使って癒しを行われることも確かにあるのです。しかし、それでもこの世に生きる人間のすべては、必ず死を迎えなければなりません。ですから大切なのは人間の厳粛な死と言う現実を通しても、私たちは神の素晴らしい御業を見出すことができると言うことではないでしょうか。私は少なくとも葬儀説教の目的は、この人間の死と言う現実と向き合って、その出来事から神の御業を分かち合うために語られるべきだと考えているのです。ですから、その日の葬儀の牧師の説教には大きな違和感を覚えてしまったのです。

 私たちは今日のこの礼拝で、主イエス・キリストの十字架の出来事を学びます。そして私たちがこの主イエスの死の姿と向き合うことで、この出来事を通して表された神の御業のすばらしさを知り、その神を賛美する礼拝をささげたと思うのです。


2.神の子の死

①イエスは確かに死なれたのか?

 どちらかと言うと人は死と言う出来事をむしろ「敗北」のようにとらえてしまう傾向があります。だからその敗北を認めない人間は、その死と言う現実から目をそらして生きようとするのです。実は興味深いことに、キリスト教会が誕生してわずかな頃にも、主イエス・キリストの死を認めない人々が存在したと言うことが分かっています。その彼らが主張したのは「神が死ぬことなどありえない」と言う理由でした。ですからもし主イエスが真に神の子であったとしたら、その神の子が十字架で死んでしまうということは起こりえないと彼らは考えたのです。この主張は神学用語で「仮現説」と呼ばれているもので、彼らは地上に現れた主イエスは実は実態を持たない影のような存在だったと言う解釈を取ります。そしてその主イエスが仮の姿で地上に現れて、十字架にかかったのは悪魔を騙すためのものであって、本当の神の子であるイエスは死んだのではないと主張するのです。これは永遠で不死の存在である神が死ぬことなどありえないという論理の延長から生まれたものと考えることができます。しかし、全知全能の神はこのような人間の論理を超えた方であることを私たちは信じる必要があります。そのような意味で、福音書の記者たちは「仮現説」を語る人々とは違って、主イエスが十字架の上で確かに死んで行かれたことを記録しているのです。そして、実際に起こった主イエスの死と言う出来事を通して示された神の御業を私たちに福音として報せようとしているのです。


②自分の死んで行く姿を示す

 昔放映されたテレビドラマで描かれていた、あるシーンを私は今でもよく思い出すことがあります。その主人公は病院で働く優秀な医師だったのですが、ある日、自分が末期がんで余命いくばくもないことを知ることからこのドラマは始まります。実はこの主人公は優秀な医師であった反面、家族を犠牲にして来た人物であることがわかります。そして自分の死期を知った主人公は自分が今まで置き去りにしていた家族が住む故郷の町に帰って行くのです。私の心に残っているシーンは故郷に住む年老いた父と主人公が対面して語り合うところです。主人公は自分の余命はあとわずかで、もう自分の子どもたちのために何かをすることは不可能だと涙を流して後悔するのです。すると年老いた父親は主人公に「お前の死んで行く姿を子供たちの見せることができる」とアドバイスするのです。このドラマのセリフのように私たちが自分の家族のために最後にできることは、自分が死んで行く姿を見せることなのかも知れない…私はそんな共感をそこで覚えたのです。

 この言葉の通りと言っていいかも知れません。私は自分の両親が死んで行く姿を身近で体験することができました。そして、そこから私が感じたことは、死と言う現実の前に人間の力が徹底的に無力であるという姿です。


3.無力な人間の死

 福音書が示す主イエスの十字架の死を通して私たちが知り得ることもこれと同じであると思います。主イエスはご自分の死という現実を前に何もすることができない、無力な一人の人間の姿をここで示されているのです。ローマ兵たちから辱められ、嘲笑されても主イエスは何もすることができませんでした。主イエスの十字架をキレネ人シモンが負わなければならないほど、主イエスは疲れ果て、その足もおぼつか無いまま処刑場であるゴルゴダの丘へ向かわれました。そして二人の強盗犯と同じように両手両足を十字架に釘付けされて、その場にさらしものとされたのです。

 人々は主イエスが本当に神の子であり、また救い主であるならこのままでは終わらないと考えていました。聖書は人々が主イエスに向かって「自分の力で十字架から降りて自分を救え」と侮辱したと記しています(30節)。この言葉は確かに十字架にかけられた主イエスを侮辱するものでもありましたが、その一方で彼らがひそかに持っていた主イエスへの期待を表す言葉でもあったと考えることができます。しかし、実際の主イエスは彼らの期待を見事に裏切るように、徹底して死と言う現実の前に無力な一人の人間の姿を示されたのです。

 その上でマルコによる福音書は十字架の上での主イエスの最後の叫びを次のように記録しています。

「三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である」(34節)。

 ところが、この叫びを聞いても人々は神の子であり救い主である者が無力な死をさらすという現実を認めることはできません。だからこの言葉を聞いた人は「そら、(イエス)はエリアを呼んでいる」と語って、エリアが主イエスを助けに来るのを待っていようと語ったのです(35~36節)。

 この聖書の箇所を説教するある牧師の文章の中に「人は死んで行くときまで格好つけようとする」という大変、興味深いお話が紹介されていました。確かに、多くの葬儀では故人がどんなに素晴らしい人物であったかを取り上げて、その生涯を飾ろうとします。そして私たちも何時の間にか「自分が死んだ後も、そのように人々に褒めてもらいたい」と願いを抱くようになり、そのためにも自分がみじめに死んで行く姿をさらしてはいけないと必死になって考えるのです。しかし、その説教ではそんな心配は一切無用であることが語られていました。なぜなら、主イエスは一切の演出無しで、無残で無力な十字架の死を遂げられたことを聖書は報告しているからです。


4.絶望することで絶望に勝利し、死ぬことで死に勝利された

①なぜ主イエスは絶望して死んで行ったのか

 それではなぜ主イエスは神の子であり、また私たちの救い主でありながら、このような無力な死を遂げられたのでしょうか。それは私たちが負うべき死と呪いを私たちの代わりに受けてくださったからです。つまり、福音書が私たちに告げている主イエスの死の姿は本来、罪人である私たちが当然に受けなければならない死の姿を現わしていると考えることができるのです。なぜなら、義なる神の前で罪人である私たちは厳しい裁きを受け、滅ぼされるべき存在であるからです。そしてその罪人の死の究極な無残な姿を示す言葉こそが主イエスが十字架上で語ってくださった「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と言う叫びです。

 この主イエスが語られた「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と言う言葉は、主イエスが神に見放されたことを表す絶望の叫びであると言うことができます。人はすべての望みを絶たれてしまったときに絶望に追い込まれます。しかし、その絶望の中でも決して二度と立ち直ることができない、癒しがたい絶望とは、神に見捨てられると言うことであると言えるでしょう。私たちはどんなに深刻な問題があっても、あるいは地上のすべての望みが消え失せても、神により頼むことができるという最後の希望を持っているからです。しかし、主イエスはその最後の希望である神に見捨てられるという状況に追い込まれたのです。

 真の神の子である主イエスが神に見捨てられるということがあり得るのか。先ほど、紹介した「仮現説」を訴える人々は「決してそのようなことはあり得ない」と断言するはずです。そしてこれは主イエスが本心から言っている言葉ではないとも解説するはずなのです。しかし、福音書は主イエスの十字架上での言葉をそのまま記録して、主イエスが無力な人間の死の姿を示されたことを教えます。

 神に見捨てられる。それは罪人である人間が本当は経験しなければならない真の絶望と言ってよいのです。そして、私たちの主イエスはこの絶望を私たちに代わって体験されました。それは私たちが二度と神に見捨てられるというような絶望に追い込まれることが無いようにするためです。そのような意味で主イエスは自らが神に見捨てられ、絶望することで、本来、私たちが負わなければならない絶望に勝利してくださったと言うことができます。そして主イエスは私たちが負わなければならない無力な人間の死を遂げることで、その人間の死にも勝利してくださったのです。


②絶望も死も私たちを主イエスから引き離すことはできない

 それではこの主イエスの十字架の死を通して、私たちの人生はどのように変えられたのでしょうか。ここで私たちが誤解してはならないのは、聖書は私たちの人生に問題が何も何も起こらず、安楽な人生を送れると約束しているのではないことです。「病気など神様に祈ればすぐ癒される」。そんな人生になったと言っているのではないのです。むしろ私たちの人生には相変わらず様々な問題が後から後から起こっています。私はそこで解決の手段が見いだせず絶望に追い込まれることもあるかも知れません。しかし、どんなにその絶望が深刻なものであっても、それは神から見捨てられたのではないと言うことを私たちは信じることができます。なぜなら、主イエスが私たちに代わって神に見捨てられると言う絶望を体験して、私たちをその危機から救い出してくださっているからです。

 また、私たちもやがて地上の死を経験しなければなりません。私たちも死と言う現実の前に無力な自分をさらけ出さなければならなくなるのです。しかし、私たちの地上の死はもはや罪人の呪われた死ではありません。なぜなら、主イエスが私たちに代わって死んでくださったからです。ですから、私たちが自分の死を持って自分の罪を償う必要はなくなっているのです。だから、ハイデルベルク信仰問答書は私たちの地上の死を「永遠の命への入り口」(問42)とさえ呼んでいるのです。このように十字架上での主イエスの無力な死の姿は私たちの人生に喜びと希望を与える福音を示していると言えるのです。

 「人は自分の死までカッコよく装おうとする」と言うことを先ほど語りました。「カッコよく死なないとダメだ」と私たちは思い込んでしまうのです。また、どんなに苦しくても絶望してはならないと考えて、さらにもがき苦しむことになります。それは「絶望するのは不信仰だ」と考えてしまうからです。しかし、主イエスはすでに私たちのために十字架の上で無力な死を遂げてくださいました。そして神に見捨てられるという絶望を体験してくださったのです。だから私たちはカッコよく死ななくてもよくなったのです。また、絶望を恐れることもなくなったのです。なぜなら、どんなに私たちがもがき苦しみながら死んだとしても、その病床で絶望の叫びをあげたとしても、それらのものはすべて私を滅ぼすことはできないからです。もはやすべての力は私たちを救ってくださった主イエスから私たちを引き離すことができなくなったことを、私たちは十字架にかけられた救い主イエスを見つめることで確信することができるようになったのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.ローマの兵士たちは総督官邸の中で主イエスに対して何をしましたか(18~20節)。

2.主イエスがつけられた十字架にはどのような罪状書きが書いてありましたか(26節)。

3.主イエスの十字架の前を通りかかった人々は主イエスに対して何をしましたか(29~30節)。同じようにユダヤ人の指導者であった祭司長や律法学者たちは主イエスに対して何をしましたか(31~32節)。

4.主イエスは息を引き取られる直前に十字架の上でどのような叫びをあげられましたか。この叫びを聞いた人は、どんなことを期待しましたか(33~36節)。

5.主イエスが息を引き取られたときに、神殿ではどのようなことが起こりましたか。また主イエスが十字架にかけられた光景をそばで目撃した百人隊長はそこで何を語りましたか(37~39節)

2024.3.24「神に見捨てられたイエス」