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  4. 3月3日「まこのとの神殿とは」

2024.3.3「まこのとの神殿とは」 YouTube

ヨハネによる福音書2章13~25節(新P.78)

13 ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。

14 そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。

15 イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、

16 鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」

17 弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。

18 ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。

19 イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」

20 それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。

21 イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。

22 イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。

23 イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。

24 しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、

25 人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。


1.神との出会いの場所である神殿

①ヨハネ福音書が伝える「宮清め」

 受難(四旬)節の第三週の礼拝を迎えました。今日はヨハネによる福音書から「宮清め」とも呼ばれる主イエスが神殿の境内から商人たちを追い出されたと言う出来事について学びます。この出来事はマタイやルカ、マルコも同様に取り上げてそれぞれの福音書に記しています。そしてこの三つの福音書は主イエスが十字架にかかられるためにエルサレムの町に入場した最後の時に行なわれた出来事として報告しています。三つの福音書はこの出来事の結果、ユダヤの宗教指導者たちの反感を主イエスがますます買ってしまい、結局はそのために十字架にかけられるという展開でお話が進めて行きます。一方、今日のヨハネによる福音書はこの出来事を主イエスの活動の最初の時期に起こったものとして報告している点で他の三つの福音書と大きな違いを示しています。どちらが正しいのか、あるいは主イエスはこのエルサレムの神殿に生涯の内で何度もやって来ては商人たちをそこから追い出したのか、それはよくわかりません。

 ただ、このヨハネの福音書の内容は他の三つの福音書と大きく違っていて、ある意味で出来事が起こった時間の順序で福音書を書いているようには見えないところがあります。ヨハネはこの出来事の前後に主イエスによる「カナの婚礼」の奇跡(2章1~12節)を記し、そしてこの後にイエスと律法学者ニコデモとの出会い(3章1~21節)の記事を配置しています。ですからヨハネはこの二つの物語の主題と関連付けるために今日の箇所にわざわざこの「宮清め」の出来事を置いたのだと考えることもできるです。


②エルサレム神殿と過越祭

 今日の物語の舞台はエルサレムにあった神殿となっています。この神殿は当時、エルサレムの町の中心部にそびえたつ立派な建物であったと言われています。そして当時の神殿はクリスマス物語に登場するヘロデ王が立て直したもので、大変な時間と労力、そして経費を使って作られたものでした。残念ながらこの神殿は紀元70年に起こったユダヤ人たちの反乱を鎮めるためにやってきたローマ軍によって徹底的に破壊されてしまいます。現在のエルサレムの町ではユダヤ人たちが集まって祈りをささげる「嘆きの壁」と言う場所があります。これは当時の神殿の中でわずかに残った基礎部分の壁であったと考えられています。そしてこの嘆きの壁の上にはこれも有名な「岩のドーム」と呼ばれるイスラム教の寺院が立てられていて宗教的には複雑な事情を示しています。このためいくら熱心なユダヤ教徒が昔の神殿を再建したいと考えても、それは簡単ではなく、またむしろ不可能に近いとものとなってしまっているのです。

 当時、エルサレム神殿は真の神を信じるユダヤの人々にとって最も大切な場所とされていました。なぜなら、彼らはこの神殿で生きている真の神と出会うことができ、その方に礼拝をささげることができると信じていたからです。今日の物語の記事は「ユダヤ人の過越祭が近づいたので」(13節)と言う言葉から始まっています。この過越祭はユダヤ人の祖先たちが神の御業によってエジプトでの奴隷状態から解放されたことを記念して行われる祭りです。そしてこの過越祭は当時のユダヤ人にとっては一番大切な祭りであったと言えるのです。この祭りの時期にはイスラエル全土からユダヤ人たちがこのエルサレムの神殿を目指して巡礼にやって集まって来ます。ルカはまだ幼かった主イエスがこの過越祭の巡礼の途中で迷子になってしまうという出来事を別に記しています(ルカ2章31~51節)。今日の物語はこの全国から集まった巡礼客で賑わう神殿で起こった出来事を記しています。


➂神殿で働く商人たち

 子どものころ私は毎年、父に千葉県の成田市にある「成田山新勝寺」の初詣に連れて行かれました。そのときは成田山の参道が参拝客で一杯になり、なかなか前に進めないほど込み合っていたことを今でも思い出します。その参道の両側には様々な商店が並び、参拝客にいろいろな商品を提供しています。そればかりではなく「露天商」と言う人々もやって来ていて、人々の関心を引くために様々なパフォーマンスを演じて商品を販売していた風景を思い出します。

 神殿で働く商人たちと聞くとそんな光景を私は思い出してしますのですが、ここに登場する商人たちはこのようなお土産を巡礼客に売っていた人たちではありません。まず「牛や羊や鳩を売っている者」(14節)は、ユダヤ人が神殿で礼拝をささげるためにどうしても必要となる動物犠牲を売っている人たちでした。なぜなら、人が神に礼拝をささげるためには、自分の罪を償ってからでないと神の前に出て行くことができないからです。そしてその自分たちの罪を償うものとして動物犠牲が神殿では生け贄としてささげられていたのです。本来ならこの動物犠牲はそれをささげる者が自分の家から携えて来る必要がありました。しかし、遠くからエルサレムにまでやってくる巡礼客が動物を連れて来ることは簡単ではありません。ですから、それができない人に神殿では「牛や羊や鳩」が準備され、それを売る商人たちがいたのです。

 次に両替人(15節)と言う人々がここには登場します。当時、神殿では参拝客によってお賽銭がささげられていました。ところが当時のイスラエルで広く流通していたローマやギリシャの貨幣はこの賽銭に使うことができませんでした。なぜなら、その貨幣にはローマ皇帝のような当時の支配者の肖像のようなものが刻まれていて、神にささげるものとしてふさわしくないと考えられていたからです。そこで両替人たちの出番です。彼らは参拝客のために古いイスラエルの貨幣を用意して、それと交換する商売をしていたのです。このようにここで登場する商人たちはむしろ、神殿での礼拝に欠かすことのできないものを提供していた人々であったと考えることができます。しかし、主イエスは縄で鞭を作り、羊や牛を境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒すという行動をここで起こされたのです。これは私たちが普段福音書で読んでいる主イエスの姿とは全く違う印象を与える出来事です。それではどうして主イエスはこのような暴挙とも呼べる行動をとられたのでしょうか。


2.主イエスの行動の理由

 主イエスは神殿の境内でこのような行動に出られた後に自らその理由を次のように語っています。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない」(16節)。また、同じように「宮清め」の行動を伝えるルカによる福音書は「『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』/ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」(19章46節)と言う主イエスの言葉を紹介しています。

 そもそもこの出来事が起こった場所はエルサレム神殿で「異邦人の庭」と呼ばれている箇所だと考えられています。当時のユダヤ人は自分たちと神を知らない外国人である「異邦人」の間を厳しく区別していました。しかし、エルサレム神殿ではその異邦人であっても真の神を信じて、その神を礼拝することができるようにと彼らが入れる場所を設けていたのです。ところが、この出来事が起こった当時は、その異邦人の庭が商人たちによって占領されてしまい、本来の意味を果たさなくなっていたと言えるのです。この商人たちの働きは本来、神を礼拝する人たちに便宜を図るために行なわれていたものだったですが、この当時はむしろ神を礼拝したいと願う異邦人を排除してしまうような本末転倒な存在となっていたと考えることができます。ですから主イエスはそのような意味で神殿が本来の姿を取り戻し、「祈りの家」と呼ばれるような場所となることを願いこのような行動に出られたと考えることができるのです。


3.3日で建て直される神殿

 弟子たちはこのときの主イエスの姿を見て「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と言う旧約聖書の詩編69編10節の言葉を思い出したとヨハネは記しています。つまり、弟子たちはこのときの主イエスの姿から、その主イエスを動かしている強い熱情を感じたと言うのです。それだけ主イエスはこのエルサレム神殿を大切にしていたと考えることができます。

 ただ、ここで問題になるのはこのヨハネの福音書が記された当時にはすでに、このエルサレム神殿はローマ軍によって破壊されていて跡形もなくなっていたと言うことです。もし、この物語がエルサレム神殿を大切にされる主イエスの姿を語っているなら、もはや神殿に行く機会さえ失ってしまった人たちにこの物語を伝えると言うことは、単なる思い出話を語っていると言うことになり、あまり積極的な意味を見出すことができません。

 そこで大切となるのは主イエスが商人たちを追い出したという出来事です。彼らはある意味で旧約聖書が記した神を礼拝する方法を人々が行えるようにと手助けする役目を果たしていました。そしてその商人たちを追い出すと言うことは、むしろそのような商人の手助けを借りなくても神を礼拝することができる時代がやって来たということを表すとも考えることができるのです。

 そこでさらにもう一度、考える必要があるのは当時のエルサレム神殿の役割であり、またそこでささげられた動物犠牲の意味です。エルサレム神殿は神と人間が出会う場所として作られました。また動物犠牲はその神殿で神を礼拝する人が、その礼拝者にふさわしくなるために自分の罪を償うために必要なものだったのです。

 主イエスはこの物語で「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」(19節)と言う不思議な言葉をユダヤ人たちに語ります。この言葉は明らかにエルサレム神殿のことではなく、十字架にかかって三日目に復活された主イエスご自身の姿を語っていると考えることができます。

 つまり、主イエスはこの言葉を使って真の神殿はご自分であると言うことを私たちに教えてくださっていると考えることができるのです。主イエスは私たちがエルサレム神殿に行かなくても、またそこで動物犠牲をささげることをしなくても、私たちが真の神を礼拝することができるようになるために熱情を持って救い主としての働きを行われたと考えることができます。実際に主イエスは「どこで神を礼拝したらよいのか」と言う悩みを持っていたサマリアの女性に対して「あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」(ヨハネ4章21節)と約束されています。またヘブライ人への手紙の著者は「ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました」(9章26節)と語って、主イエスが一度だけ十字架上でご自身の命をいけにえとしてささげることで、もはや私たちが動物をいけにえとしてささげなくても神のみ前に出て、礼拝をささげることができるようになったと語っているのです。


4.私達の礼拝を成り立たせるもの

 このようにヨハネの福音書は主イエスの御業によって私たちが旧約聖書に記された礼拝の方法ではなく、新しい方法でどこででも神を礼拝することができるようになったことを教えています。実はこの直前の主イエスによるカナの婚礼の物語では主イエスの奇跡によって「水がぶどう酒」に変わることが語られていて、この奇跡を通して主イエスより新しい時代がやってきたことを教えています。また、ニコデモと主イエスとの物語では自分の力で律法を守ることで永遠の命を得ようとする人々に対して、主イエスを信じることで救われる新しい時代がやって来たことを教えているのです。

 私たちは今でもテレビなどの映像を通して、ローマのバチカンに立てられたサンピエトロ大聖堂で行われる礼拝の様子を見ることができます。ロンドンの町にあるウエストミンスター大寺院で行われる礼拝の姿も見ることができます。また今でもたくさんの巡礼客が集まるエルサレムの町にある聖墳墓教会の礼拝を見ることができます。そこには私たちがこの東川口でささげられている礼拝とは全く違った風景が繰り広げられています。しかし今日の主イエスの物語はこのよう目に見える風景や場所は違っていても、キリスト教会でささげられる礼拝が神との出会い場所となる本当の礼拝であることを示す根拠がどこにあるのかを示しているのです。

 主イエスが救い主として私たちのために命をささげられ、三日目に甦ることで、私たちはどこにいても神と出会い、神を礼拝することができるようになりました。そしてその私たちの礼拝にはもはや動物犠牲を売る商人たちも、両替商も必要ないのです。救い主イエスが私たちの罪を清め、また私たちに聖霊を送ることで、この礼拝を真の神と私たちとの出会いの場所としてくださったからです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.今日のお話で取り上げられている出来事はいつ、どこで起こったと福音書は説明していますか(13節)。

2.イエスはここでどのようなことをされましたか(14~15節)。イエスはこのようなことを自分がした理由について何と語っていますか(16節)。

3.この光景を目撃した弟子たちは旧約聖書のどんな言葉を思い出しましたか(17節)。

4.ユダヤ人たちはこのような行動をしたイエスに何を求めましたか(18節)。イエスは彼らの求めに何と答えられましたか(19節)。

5.イエスはこの言葉によって何を語ろうとしたのでしょうか。そしてユダヤ人たちはこのイエスの言葉をどのように誤解しましたか。また、弟子たちはこの言葉の本当の意味をいつ思い出して理解することができましたか(20~22節)。

6.イエスは過越祭の間、エルサレムで何をされましたか。それを見た人々はどうなりましたか(23節)。それなのにどうして主イエスの方では彼らを信用されなかったのでしょうか (24~25節)。

2024.3.3「まこのとの神殿とは」