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2024.3.31「主イエスの復活」 YouTube

マルコによる福音書16章1~8節(新P.97)

1 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。

2 そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。

3 彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。

4 ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。

5 墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。

6 若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。

7 さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」

8 婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。


1.福音記者マルコが記した復活物語

①古代人の抱いた幻想

 今日は主イエス・キリストが甦られたことをお祝いするイースター、復活祭の礼拝をささげます。最近、近くの百円ショップのお店にイースターの飾りつけを売るコーナができていることに気づきました。日本ではすでにクリスマスは知名度を得ていますが、このイースターはあまり知られていないと言う思いがありました。だからそのコーナを見て「最近はそうでもなくなったのかな」と感じました。もしかしたらこれは毎年、イースターのパレードを大々的に行う東京ディズニーランドの影響なのかもしれませんね…。

 いずれにしても、イエス・キリストの誕生をお祝いするクリスマスより、その復活をお祝いするイースターが日本ではなかなか受け入れられないのは、このイースターが、死んだ主イエスが甦ったということを記念するものだからかも知れません。主イエスが死から甦られたと言うことは近代科学の認識と全く相容れない内容ですし、人間の経験に戻づいても理解しがたい出来事であると言えます。だから今でも結構多くの人はこの出来事を古代人が抱いた、幻想、あるいは迷信と片付けてしまう傾向があるのです。

 しかし、実際に聖書を読んで見るとその時代に生きた「古代人」でさえ、十字架で死んだイエスが甦られると言う出来事を簡単には受け入れることのできなかったことが分かります。今日はこの主イエスが甦られた復活の出来事を伝えるマルコによる福音書から皆さんと一緒に学びたいと思います。


②マルコ福音書の伝える主イエスの復活物語

 このマルコによる福音書は四つの福音書の中でも最も簡潔に記されている書物であると言えます。教会の歴史ではこのマルコによる福音書ははマタイによる福音書の縮小版と昔は考えられていたようでようです。しかし近代の聖書学の成果によって、実はこのマルコによる福音書が福音書の中では最も早く書かれたものであり、マタイやルカはこのマルコによる福音書を参考にしながら、自分たちの福音書を記したことが分かって来ました。そのような意味で、現在ではむしろこのマルコによる福音書の内容が聖書学では重要視されていると言えるのです。

 今日はこのマルコによる福音書が主イエスの復活を告げる箇所から学ぶわけですが、実はこの福音書はこの部分で他の福音書とは違う復活物語を記しています。その第一の特徴は、ここでは主イエスの遺体が葬られた墓からその遺体が無くなっていたという出来事だけが語られ、それに続いて甦った主イエスが弟子たちと会ってくださったという他の福音書が記す顕現物語が記されていない点です。ですから主イエスの墓にやって来た婦人たちはそこにいた「白い長い衣を着た若者」、つまり天使から主イエスが復活されたことを知らされてるだけで終わっています。

 そして、もう一つ不思議なのはこの復活の出来事を天使から「弟子たちとペトロに告げなさい」と命じられているのに婦人たちが「だれにも何も言わなかった」と報告されている点です。つまり婦人たちは口を閉ざして黙ってしまったと言うのです。他の福音書ではこの婦人たちは主イエスの復活と言う出来事に驚きながらも、その後にすぐ喜んで弟子たちのところに伝えに行ったという記していますが、マルコはそれを記していないのです。


2.黙ってしまった婦人たち

 まず婦人たちの沈黙について考えて見ましょう。主イエスがイスカリオテのユダの裏切りを通してユダヤ人たちに捕らえられたとき、それまで主イエスのそばに仕えていた男の弟子たちはすべて逃げ去ってしまいます。その一方で、今日の物語に登場する婦人たち、つまり女性の弟子たちは主イエスの十字架の出来事を遠くから目撃しています。そして主イエスが亡くなった後、アリマタヤのヨセフがその主イエスの遺体を引き取り、自分が準備していた墓に葬ったときも、遠くからその光景を目撃していたと福音書は記しています(40~41節、47節)。この点からこの婦人たちは主イエスを見捨てて逃げ出した他の男の弟子たちと違って主イエスを見捨てることをしなかったと言う点で評価できるのかも知れません。しかし、私が読んだこのマルコの福音書の解説書にはそうではないと言う説明も記されていました。

 なぜなら彼女たちも主イエスが十字架につけられたとき、その光景を呆然と目撃することしかできなかったからです。彼女たちは十字架で死んで行く主イエスを助けることも、また励ますこともできなかったのです。それは主イエスの遺体が葬られる場面でも同じです。アリマタヤのヨセフが勇気を出して主イエスの遺体を引き取ると言う申し出をしました。この申し出によってヨセフは自分が「イエスの仲間だ」と非難されることも覚悟した上で、彼はこの行動を行ったのです。ところが一方、婦人たちはここでも何もしていなのです。彼女たちは遠くからその埋葬の様子を見守ることしかしていません。

 そして、日曜日の朝になって彼女たちがはじめて主イエスの葬られた墓に訪れようとしたのは、彼女たちが恐れていた危険が薄らいだと感じたからだと思われます。つまり、彼女たちも主イエスを殺した者たちが自分たちに危害を加えるのではないかと恐れていたのです。だからその点では彼女たちも逃げ出して行った他の男性の弟子たちとそんなに違いはないと考えることができます。

 ご存知のように主イエスはずっと前から弟子たちに自分がユダヤ人たちに捕らえられて殺されることを告げていました。そしてその際に復活についての預言も語られていたのです。それなのに弟子たちの誰もがその主イエスの言葉を思い起こして、主イエスが復活されるのを待っていたという記述は聖書のどこにも見出されません。それはこの日曜日の朝に主イエスの墓に向かった婦人たちも同じであったと言えます。彼女たちはこの朝、復活されるはずの主イエスに会いに墓に行ったのではありません。むしろ主イエスの遺体に香料の入った油を塗って、最後の別れを告げるために彼女たちはその墓に向かったのです。誰も主イエスの復活を信じている者はいませんでした。むしろすべての人間にとって死は変えることのできない現実であって、その支配から誰も逃れることはできないと思われていたのです。ですから福音書はそのような人間に主イエスの復活の出来事が知らされたときの当然の反応として驚き、恐れて、黙ってしまほかないことを告げているのです。つまりここに記された婦人たちの反応は主イエスの復活と言う出来事に出会った人間すべてが表す当然の反応であることをこの福音書は私たちに教えているのです。


3.復活されたイエスが登場しないのはなぜ?

 さて、それではなぜマルコによる福音書は主イエスの遺体が無くなった空の墓の出来事を記録しただけでこの福音書を終わらしてしまったのでしょうか。実は私たちが持っている新共同訳聖書にはこの後にも「結び一」と「結び二」と言う文書を続けて載せています。これは本来のマルコに福音書には書かれておらず、後代になってこの福音書の終わり方が不自然だと感じた誰かが付け足した箇所だと考えらえています。つまり、多くの人がこのマルコの福音書の終わり方が何か不自然だと考えていたことを表す証拠になっているのです。

 さて、この問題についての最もふさわしい答えは、主イエスの復活はこの福音書を読んでいる読者たちによって文献を通してしか知りえない過去に起こった出来事ではなく、今、目の前に存在し、自分たちが経験している確かな出来事であると信じられていたからだと言う解釈です。先ほど、主イエスの復活と言う出来事を体験した人間の反応は驚き、そして恐れ、それゆえに言葉にもできないというようなものだと言うことをお話しました。つまり、主イエスの復活は通常の人間には受け入れることのできない神の神秘であると言えるのです。しかし、そのような神の神秘を私たちは今、日曜日の礼拝に出席して、喜びをもって受け入れ、神を賛美しています。それはいったいどうしてなのでしょうか。

 答えは簡単です。復活された主イエスが私たちと共にいてくださり、私たちの心に聖霊を送って、この神の神秘を私たちが喜んで受け入れることができるようにしてくださるからです。だからこそマルコは、その福音書に主イエスの遺体がない空の墓を示すことで終えたと考えることができます。福音書は主イエスの復活を論証するために書かれたものではありません。むしろ、私たちが今実際に体験している救いの出来事の根拠がどこにあるのかを明らかにするために書かれた書物だと言うことができるのです。そのような意味で、マルコにとって主イエスの復活は文章に残す必要のないものだったと言えます。だから確かに主イエスはこの福音書の示すように甦られて、今、この礼拝に集う私たちと共にいてくださると言えるのです。


4.主イエスの復活の出来事の意味

①十字架につけられたナザレのイエス

 さて、ここで私たちがもう一つ考えたいのは墓の中にいた天使が婦人たちに告げた言葉です。

「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい」(6~7節)。

 この言葉で私たちが注目すべき第一の点は復活したイエスについて「十字架につけられたナザレのイエス」と呼んでいる点です。なぜなら主イエスの復活は単に死んだ人が甦ったことを示すものではなく、十字架にかけられた方の甦りであると言えるからです。主イエスの十字架と復活は切り離すことはできません。なぜなら、十字架が無ければ主イエスの復活は単なる死んだ人が甦るという不思議な出来事の一つで終わってしまからです。そして復活が無ければ主イエスの十字架の死はこれもまた単なる殉教者の死を表す一つの出来事に終わってしまいます。しかし、主イエスの死は単なる殉教者の死ではありません。なぜなら彼は私たちを罪と死の支配から救うために十字架にかかり、命をささげてくださったからです。そしてその主イエスの復活はイエスが十字架を通して実現された救いの御業が確かに成就したことを表す証拠となるのです。ですから、この十字架にかけられた主イエスの復活は、私たちが罪と死の支配から解放され、神に罪許されて、永遠の命の祝福の中に生かされていることを表す確かな証拠であると言えるのです。


②ペトロに告げなさい

 さて、次にこの天使の言葉で注目すべきなのは「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい」とここでペトロと言う個人名がわざわざ語られている点です。確かにペトロは十二弟子の中の代表的な存在として取り扱われる傾向があります。しかし、この言葉をギリシャ語原語から直訳すると「弟子たちに告げなさい。そしてペトロにも」となり、「特にペトロにも告げなさい」と言う意味合いを持つ言葉になっているのが分かります。この箇所を説教する幾人かの説教者は特にこの言葉について詳しい説明を加えています。彼らによればこのメッセージはペトロにとって特別な意味を持つ言葉だと言うのです。

 ご存知のようにペトロは「どんなことが起こっても自分だけは主イエスに最後まで従う」と言う覚悟を持っていました。とこがそのペトロは主イエスが語られた預言通りに、主イエスを捨てて逃げ去るばかりではなく、「自分は決して主イエスの弟子ではない」と完全に主イエスの存在を否定すると言う罪まで犯してしまっていたのです。その後、ペトロは何をしていたのでしょうか。福音書は詳しい事情を伝えてはいません。しかし、この時に天使が告げた言葉は、そのペトロを決して否定するものではありませんでした。むしろそのペトロにこの出来事を真っ先に伝えなさいと天使は語ったのです。つまりこのメッセージは主イエスを否定したペトロを主イエスは決して否定してはいないことを表す言葉であったと言えるのです。

 この福音書を記したマルコは教会の伝説によればこのペトロの協力者として働き、この福音書の内容もこのペトロから聞いた証言を中心に書き記したものと考えられています。だからおそらくマルコは直接ペトロの口から、「あのとき復活された主イエスは天使を使って、私の名前を呼んでくださったのだ…」と言う言葉を感動を持って聞いたと言えるのです。

 実はこのマルコについても聖書は大変興味深いことを語っています。マルコの家はエルサレムにあってペトロたちととても関係の深い家族の一員として彼は育ちました。そして彼はパウロとバルナバと共に使徒言行録に記録されている第一次伝道旅行の一員に加えられた人物でもありました。ところがこのマルコについて詳しい事情は分からないのですが、彼はこの旅行中に一人で仲間たちを残したままエルサレムに戻ってしまうと言うことをしています。実はこのことが原因となり、後にパウロとバルナバの間に仲たがいが生じます。そしてパウロはバルナバとは別の仲間と一緒に第二次伝道旅行に旅立つことになるのです。その仲たがいの理由はパウロが「伝道者としての任務を途中で放棄して勝手に家に帰ったマルコを宣教旅行につれていくことはできない」と強く主張したからです。このようにマルコは伝道者として汚点を残すような深刻な失敗を犯した人間として聖書には記録されているのです。

 マルコはパウロのような大伝道者となって福音を伝えるという賜物を持ちえませんでした。しかし、彼はやがて使徒ペトロの協力者となって、そのペトロから主イエスについての証言を聞いてそれを福音書に記すという大切な働きをする者となったのです。

 そのペトロは主イエスに対して取り返しのつかないような失敗をして、「主を否定してしまった」と言う負い目を持っていました。しかし、そのペトロに告げられた言葉は決してそのペトロを否定するものではなく、むしろそのペトロを受け入れてくださる主イエスからのメッセージだったと言うのです。そして、その話をペトロから聞いてこの福音書を記したマルコ自身も伝道者としてパウロから強く非難されるような失敗を犯した人物でもありました。だから、マルコももしかしたら、このペトロが証言した言葉を自分に語られる主イエスの言葉として聞くことができたのかも知れません。主イエスは私をも受け入れてくださっている。主イエスは失敗者である自分を赦し受け入れるために復活してくださったと言うことを…。

 私たちにとって主イエスの復活はどのような意味を持つものなのでしょうか。それは私たちがどんなにその人生で失敗を犯していたとしても、その私たちを受けれてくださる主イエスからのメッセージだと言うことです。確かに弟子たちは皆、主イエスを置いて逃げ去りました。婦人たちも何もできずに主イエスの死を遠くで見つめることしかできませんでした。しかし、主イエスはそのようなすべての人々のために十字架で死んでくださり、そのすべての人を受け入れていることを示すためにこの日曜日の朝に甦ってくださったのです。だから私たちもこの主イエス・キリストの復活を通して私たち自身も神に受け入れられていることを確信することができるのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.安息日が終わってイエスの葬られた墓に行ったのは誰ですか。その人たちは何をしにそこに行ったのですか(1~2節)。

2.墓に着いたその人たちはどんなことをそこで目撃することができましたか(3~5節)。

3.その人たちは主イエスの墓の中で誰からどのようなメッセージを聞きましたか(6~7節)。そしてその人たちはその後どうなりましたか(8節)。

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