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  4. 4月14日「審き主キリスト」

2024.4.14「審き主キリスト」 YouTube

コリントの信徒への手紙二5章6~10節(新P.330)

6 それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。

7 目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。

8 わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。

9 だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。

10 なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。


ハイデルベルク信仰問答書

問52 「生ける者と死ねる者とを審」かれるためのキリストの再臨は、あなたをどのように慰めるのですか。

答 わたしがあらゆる悲しみや迫害の中でも頭を上げて、かつてわたしのために神の裁きに自らを差し出し、すべての呪いをわたしから取り去ってくださった、まさにその裁き主が天から来られることを待ち望むように、です。

この方は、御自分とわたしの敵をことごとく永遠の刑罰に投げ込まれる一方、わたしを、すべての選ばれた者たちと共にその御許へ、すなわち天の喜びと栄光の中へと迎え入れてくださるのです。


1.慰め=生きる力

①キリストの再臨が私たちの慰め

 今日も私たち改革派教会の信仰を伝えるハイデルベルク信仰問答から皆さんと一緒に学びたいと思います。今日はその問52の「キリストの再臨」について取り上げます。私たちの主イエス・キリストは十字架につけられた後、復活されて弟子たちの前に現れてくださいました。聖書によればそのイエスはこれも同じように弟子たちが見ている前で天に昇って行かれたと語られています。このとき天を仰いで立っていた弟子たちの前に、突然に白い衣を着た二人の人物が現れます。この表現は聖書ではいつも天使が現れる際に用いられますので、ここに現れたのは天使たちであると考えることができます。その天使たちは弟子たちに次のように語ったと言うのです。

「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」(使徒1章11節)。

 天に昇っていかれたイエスが再び私たちのところにお出でになると天使たちは語りました。このキリストの昇天の出来事が起こって以来、弟子たちの関心の中心は「イエスはいつ戻って来られるのか」と言うことになりました。そしてその関心はこの弟子たちによって始まったキリスト教会の仲間たちに受け継がれて行きます。以来、イエス・キリストが再びお出でになる、その再臨はキリスト教会に集められた者たちにとって重要な教えとなったのです。

 ハイデルベルク信仰問答は問52でイエス・キリストは何のために再臨してくださるのかについて説明しています。そしてその再臨はキリストを信じて今を生きている私たちにどのような意味があるのかを教えようとしているのです。興味深いことはこの問52の問いの言葉の中にキリストの再臨が「あなたをどのように慰めるのか」と言う表現が使われているところです。ここに「慰め」と言う言葉が登場してます。実はこの「慰め」と言う言葉はハイデルベルク信仰問答の第一問でも使われている、この信仰問答にとっては大変重要な言葉であると言えるのです。ハイデルベルク信仰問答の問一は「生きるときも死ぬときも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」と言う言葉で始まっているからです。


②私たちの今を力づけるもの

 聖書を学ぶ際に新約聖書ならギリシャ語、そして旧約聖書ならばヘブライ語とそれぞれの原語の言葉の意味を私たちが調べることは大切なことです。なぜなら、原語には日本語の翻訳の言葉では表現しきれないような豊かな意味が隠されている可能性があるからです。ところで今、私たちが学んでいるハイデルベルク信仰問答は16世紀にドイツで作られた文書です。ですからこの問答は元々ドイツ語で記されているのです。そしてここで記されている「慰め」と言う言葉はドイツ語では「トロスト」と言葉で表現されています。 日本語の「慰め」と言う言葉は「何もできないけれど、せめて慰めるだけでも…」というような、どちらかと言うとあまり効き目の薄い、消極的な意味を持った言葉として使われます。慰められた相手はせいぜい、悲しむことを止めて落ち着くくらいと言えるのかも知れません。一方、ドイツ語の「トロスト」の場合にはむしろもっと積極的に「力」と言う意味合いが強く含まれていると考えられています。そう考えるとこの信仰問答は「生きるときも死ぬときも、あなたを生かす力は何か」と尋ねていることになります。また今日の部分の問いでは「キリストの再臨はどのようにあなたに生きる力を与えるのか」と言うことにもなるのです。

 キリストが再臨されるということを弟子たちは明日実際に起こることのように考え、そこから力を受けていたことは新約聖書を読むと私たちにも分かります。もちろん、今を生きる私たちもまた、キリストの再臨が明日起こってもよいと言う覚悟で信仰生活を送ることは大切であると言えるかも知れません。しかしたとえ、その再臨がいつ起こるとしても、この出来事は今を生きる私たちに生きる力を与えるものあることをハイデルベルク信仰問答は私たちに教えようとしているのです。


2.審判者であるキリストの再臨

 それではイエス・キリストは何のために再び私たちの住むこの地上にやって来られるのでしょうか。この信仰問答は第二部「人間の救いについて」の部分でキリスト教会が古くから用いている使徒信条と言う文章を使って聖書の教えを解説しています。そしてこの使徒信条はキリストの再臨を「そこ(天)からこられて、生きている者と死んでいる者をさばかれます」と語っています。つまり、キリストは地上に生を受けたすべての人間を裁くため、彼らを審判をするためにこの地上に来られると言っているのです。

 クリスマスが全世界で祝われるのは、この日に神の子が私たちを救うために人間になって、この地上にお生まれくださったからです。つまり今から二千年前にイエス・キリストは私たち人類を救いに導くためにこの地上に来てくださったのです。この出来事を再臨と言う言葉と区別するために教会用語では「初臨」と呼ぶことがあります。そしてこの「初臨」と「再臨」はイエス・キリストがこの地上に来られるという意味では同じですが、その目的は大きく違うと言うことができます。なぜなら、再び来られるイエス・キリストは人類を救うためではなく、裁くために来られてると言われているからです。

 「最後の審判」と言う言葉がよく使われます。これはむしろ私たちを励ますと言うよりは、私達をある意味恐怖に陥れる出来事として取り扱われることが多いと言えます。「最後の審判に合格するために私の言うことを聞きなさい」と、人を自分の思うままにコントロールしたいと考える宗教指導者は人間が抱く恐怖という感情を利用しようとするのです。実はキリスト教会の中でもこの最後の審判と言う教えが人々を支配する道具として使われたと言う歴史があります。また、現在でもこの「最後の審判」と言う出来事を強調して、人々をマインドコントロールする異端の宗教の存在が後を絶ちません。

 現代の教会でも「信じなければ地獄に落ちる」と言って伝道する人もいるようですが、聖書が語る使徒たちの伝道のスタイルはこれとは全く違います。使徒たちむしろキリストを信じことによってどのような祝福にあずかることができるのかを人々に伝えようとしたからです。そのような意味で、真の信仰は恐怖で私たちを縛るものではなく、むしろその恐怖から私たちを解き放す役目を果たすのです。そしてハイデルベルク信仰問答もそのような意味でキリストの再臨を私たちを慰めるものとして取り扱っているのです。


3.わたしのためにキリストは来てくださる

①信頼関係があってこそ正しく伝わるメッセージ

 私たちはよく、他人が自分に語ってくれた言葉を聞いて、それに自分で勝手な解釈をつけて落ち込んでしまうことあります。またその解釈に基づいて、その言葉を発した相手に怒りを抱くことがあるのです。一方、その言葉を発した相手はそんな意味で言ったわけではないのにも関わらず、むしろ自分が激しい抗議を受けてしまって「何でなんだろう」と悩み始めます。そしてその発言をまた自分なりに解釈してしまい、誤解が誤解を生んで行くと言うことが人間関係には起こるのです。しかし、たとえはその同じ言葉であっても相手との十分な信頼関係ができている場合にはどうでしょうか。きっとその言葉の受け取り方はかなり違ってくると考えられるのです。たとえば第三者から聞けばその言葉が今流行りの「ハラスメント」のようなやり取りのように聞こえたとしても、その会話を交わす二人が深い信頼関係によって結ばれていたとしたら、むしろお互いを励まし合う言葉として受け取られていると考えることができます。そのような意味で、相手に正しく伝えたいことがあるならば、回り道であってもまず、私たちはその相手との信頼関係を少しずつ築いていくことが大切だと言えるのです。

 「キリストの審判」ということを聞くとき、私たちはどのようにその言葉を受け取るでしょうか。もちろん「自分は非の打ちどころのないような完璧な信仰の持ち主だ」と思い込んでいる人は、キリストは自分が地上で積んだ数々の功績を褒めてくださるために来られると考えて、その日を待ち焦がれているかも知れません。しかし、こんな風に考える人は私たちの中にはほとんどいないと思います。なぜなら聖書を読んで毎日の生活を送っている人はどんなに頑張ってもむしろ神に責められることしか自分はしていないと考えがちだからです。そのような意味で「キリストの審判」と言う言葉を聞いても、恐怖だけが沸いてくるだけで、少しも力にならないと考える人も多いと思うのです。ですから、ハイデルベルク信仰問答はこの「キリストの審判」を正しく理解するために、この裁きのために再び来て下さるイエス・キリストと私たちとの関係がどのようなものであるかをここで再確認させようとしているのです。


②悲しみや迫害の中でも頭を上げる

「わたしがあらゆる悲しみや迫害の中でも頭を上げて、かつてわたしのために神の裁きに自らを差し出し、すべての呪いをわたしから取り去ってくださった、まさにその裁き主が天から来られることを待ち望むように、です。」

 信仰問答はこの審判者が「かつてわたしのために神の裁きに自らを差し出し、すべての呪いをわたしから取り去ってくださった」で方であることを強調しています。イエス・キリストは私たちを愛し、私たちのために十字架にかかって、私たちを救ってくださった方なのです。だからこそ、この方は私たちを厳しく裁かれるために来られるのではないことが分かります。むしろ、イエス・キリストは私たちのために十字架の死を通して実現してくださった救いの恵みを完全な形で私たちに与えるために再び来てくださると言うことを信じることができるのです。

 だからこそハイデルベルク信仰問答はキリストの再臨は私たちが「あらゆる悲しや迫害の中でも頭を上げる」ことができるようにさせるものだと教えているのです。目の前の出来事だけを見て「もうだめだ」と項垂れてしまうような私たちを「慰め」て私たちに再び生きる力を与えることができるのがこのキリストの再臨に対する信仰であると教えているのです。


4.キリストが滅ぼす者は何か

①私たちのことをだけを語る信仰問答

 さてこの信仰問答はキリストが再臨されて何をされるのかについて次のように続けて説明しています。

「この方は、御自分とわたしの敵をことごとく永遠の刑罰に投げ込まれる一方、わたしを、すべての選ばれた者たちと共にその御許へ、すなわち天の喜びと栄光の中へと迎え入れてくださるのです」。

 まず、ここでも再臨されるキリストが「すべての選ばれた者たち」、つまり、この地上の人生でキリストへの信仰が与えられた者たちを「御自分の御許へ、すなわち天の喜びの栄光の中へと迎い入れてくださるため」に来てくださると教えています。もちろん私たちには本来、そこに迎い入れられ、そのような祝福を受けるべき資格を持っている者ではありませんでした。しかし、キリストはその私に資格を与えるために十字架にかかり死んでくださったのです。だから私たちはこのイエス・キリストとの関係を通して、キリストの再臨を待ち望みながら今を生きることができる者とされているのです。

 興味深いことはこの信仰問答は「選ばれた者たち」、つまりキリストを信じる人々がキリストの再臨のときにどうなるかを語っているのに対して、その信仰を持たなかった者たち、つまり未信者がどうなるかについては教えていません。実はこれは聖書の教え方と同じ方法を取っていると考えることができます。なぜなら聖書はキリストの救われた者がどのような祝福を受けるかを詳しく教えるために書かれた書物だからです。ですから聖書がむしろ「神の裁き」について語る際には、それは本来の私たちが受けなければならなかったこと、つまり、キリストに救われなければどんなに私たちの運命が悲惨だったかを教えるために語られていると言えるのです。だから信仰問答が「御自分とわたしの敵をことごとく永遠の刑罰に投げ込まれる」と語っているところを読んで、「ああ、これは私の信仰を迫害したあの人のことね…」と誰か特定の人を考えることは大きな誤解であると言えるのです。


②復讐心から自由にされた私たち

 私たちは自分を苦しめた相手に強い復讐心を抱きやすい性質を持っています。ですから聖書はそのような復讐心を抱いてしまう私たちにキリストの赦しを教えます。そして私達をその復讐心の奴隷となっている状態から解き放ち、自由にしてくれるのです。聖書は決して私たちの復讐心を満足させることを語ることはないのです。ですから、むしろ信仰問答が「ご自分とわたしの敵」と語るものは、わたしを本当に苦しめていた私の罪、そしてこの世の悪、さらには私たちを支配する呪いと死、そのすべてを完全に滅ぼすためにキリストは再臨されるのだと信じることができるのです。

 人から語られる言葉をまるで自分を裁く言葉のように受け取って悲しむ私たちがいます。また人生に起こる出来事のすべてをまるで神が自分を裁かれているように感じてしまう私たちがいます。しかし、キリストの再臨に対する信仰はそのような私たちに物事の正しい捉え方を教え、生きる力を与えるものだと言えるのです。なぜなら、イエス・キリストは十字架で厳しい裁きを私たちのために受けてくださったからです。だから、私たちはすべての裁きから解放されているのです。だからイエス・キリストによってこの確かな救いにあずかることができた者たちが語るべき言葉についてヨハネの黙示録は次のように語っています。

「わたし、イエスは使いを遣わし、諸教会のために以上のことをあなたがたに証しした。わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である。」"霊"と花嫁とが言う。「来てください。」これを聞く者も言うがよい、「来てください」と。渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。」(22章16~17節)。

 だからこの慰めに生きる者すべては「再臨のイエス・キリストよ、私たちのために来てください」と語ることができるのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.まず、ハイデルベルク信仰問答の問52全体を読んで見ましょう。信仰問答は私たちを慰めるどんなことをここで語っていますか。

2.弟子たちが抱いた「キリストが再びお出でになる」と言う信仰はどこから生まれたものだと言えますか(使徒1章11節参照)。

3.今から二千年前にこの地上に人として来てくださったイエス・キリストは、再び私たちのところに何をするために来られるのですか。

4.再び来てくださるキリストは「生きている者と死んでいる者をさばかれます」と使徒信条は教えています。やがてこの裁きの前に立たされる私たちが恐れから解放されて、希望を持ってその日を待ち望むことができる理由はどこにありますか。

5.信仰問答がここで言っている「御自分とわたしの敵をことごとく永遠の刑罰に投げ込まれる」と言う言葉について私たちはどのように読むべきでしょうか。

2024.4.14「審き主キリスト」