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2024.4.21「良い羊飼いイエス」 YouTube

ヨハネによる福音書10章11~18節(新P.186)

11 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。

12 羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――

13 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。

14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。

15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。

16 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。

17 わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。

18 だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」


1.今も生きてともにいてくださるイエス

①羊飼いと羊の関係

 イエス・キリストの復活を祝うイースターの礼拝から数えて早くも四週目の日曜日を迎えました。私たちにとってイエスは過去の歴史上に現れ、多くの人々に影響を与えた偉人たちの一人のような存在ではりません。なぜなら、復活されたイエスは今も天におられて、この地上に生きる私たちと深い関係を持っておられるからです。そしてむしろ、私たちがこの地上で希望を持って生きることができるのは、この主イエスが私たちの人生に深く関わり続け、また導いてくださるからだと言えるのです。この主イエスと私たちとの関係を改めて考えるために今週と来週の礼拝ではヨハネによる福音書に記された主イエスの言葉から学びたいと思います。まず、今週はヨハネによる福音書の10章のお話を取り上げます。ここでは主イエスと私たちとの関係が羊飼いと羊の関係にたとえて説明されているからです。

 現代の日本で都市生活を送る私たちにとって羊のような動物に出会う機会は動物園のようなところに行く他ないと思われます。あるいはテレビで放映されるオーストラリアやニュージーランドの牧場で飼われている羊の姿を見ることぐらいかも知れません。しかし、聖書が書かれた時代のイスラエルの地ではそうではありませんでした。羊は当時の人々にとって日常の生活に関わる身近な動物であったと言えるのです。だからこそ、新約聖書ではイエス・キリストの誕生を知らせるクリスマスの物語の中にもこの羊飼いたちが登場しています。ですからイエスは当時の人々にとって最も身近な羊飼いと羊の関係を通して、御自分とご自分を信じて生きる弟子たちとの関係を説明されたのです。


②私たちのために命を捨てる羊飼い

 特に今日の聖書箇所で何度も同じ言葉がイエスによって繰り返して語られています。それは「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と言う言葉です。ヨハネによる手紙ではこの羊飼いであるイエスについて次のような言葉が語られています。

「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。」(3章16節)

 私たちが主イエスを信じて生きるのはどうしてでしょうか。祈れば主イエスが何か自分にとって都合のよいことをしてくださるからでしょうか。そうではありません。すでに、主イエスが私たちの良い羊飼いとして、私たちのために命を捨ててくださったからです。ヨハネは主イエスがそうしてくださったのは私たちを愛してくださっているからだと語っています。そして今日の箇所ではこの主イエスと私たちとの愛の関係が「知る」と言う別の言葉で示されていることが分かるのです。


2.羊のために命を捨てる良い羊飼い

 先ほども申しましたように、主イエスがこの言葉を語られた時代には羊飼いも羊も大変身近な存在で、そのような意味で当時の人々には主イエスがこのたとえ話で語ろうとした意味がよく理解できました。しかし、今、この話を読んでいる私たちはそうではありません。実はこの当時のイスラエルでは羊は何か特定の牧場で飼われていたわけではありませんでした。当時の羊飼いは羊み餌を与えて養うために、その餌である青草が生えている場所を探し求めながら羊たちと一緒に旅をするそのような生活を送っていました。羊飼いは長い経験から羊をどこにつれていけば、彼らを養うことができるかをよく知っていたのです。

 また、今日の箇所では「囲い」(16節)と言う言葉が登場しています。当時の羊飼いは羊を連れて無方針に旅を続けるのではなく、ある特定の場所を巡り歩くような生活を送っていたと考えられています。つまり、その時期ごとに羊を連れて行く場所が決まっていたのです。そして羊飼いがそのようにして行く場所には長い年月の間に羊飼いたちが作った石造りの囲いが存在していました。羊飼いであれば誰でも利用できる囲いです。羊飼いは自分の羊を夜の闇夜の中、野獣から守るためにこの囲い中に羊を入れていのたのです。

 この囲いはたくさんの羊飼いたちの共同の所有物なので、その同じ囲いの中に複数の羊飼いがそれぞれ自分の所有する羊を入れることがよくあったと言われています。「そうなると、どれが誰の羊なのか分からなくなってしまうのではないか?」と当時の詳しい事情を知らない私たちは心配するかも知れません。しかし、その心配はいらないのです。なぜなら羊飼いは自分の羊がどれかをちゃんと知っているたからです。羊飼いは自分の羊にそれぞれ名前をつけていて、その羊の性格までよく熟知していました。だから、彼らが自分の羊を見間違えることはなかったのです。

 一方、羊の方も自分の羊飼いが誰であるかをよく知っていました。羊たちが自分の羊飼いを見つけるこつは、その声を聞き分けることです。羊たちは自分の羊飼いが自分を呼ぶ声がよく分かったのです。羊は自分の羊飼いの声をよく聞き分けて、他の羊飼いの声には従うことはしません。だから羊の方でも困ることはないのです。そしてこの羊飼いと羊の関係を主イエスは次のような言葉で語っています。

「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」(14節)。

 良い羊飼いであるイエスは、その羊である私たちのことを知ってくださっています。そして私たちもまた自分を命がけで守ってくださる良い羊飼いであるイエスのことを知っていると言うのです。そしてこの関係こそが、今も私たちが体験している、復活されたイエスと私たちとの愛の関係であると言っているのです。


3.誰が良い羊飼いなのか

 ところでこの羊飼いと羊のたとえ話はいつ、どんな理由で、あるいはどんな状況の中でイエスの口から語られたものなのでしょうか。実は今日の10章で語られているイエスの言葉は、その前の9章の物語との関係で語られていて、ある意味でこの9章の物語を解説する言葉だとも考えることができるのです。

 この9章の最後の部分には主イエスとファリサイ派の人々の間で交わされた問答が記されています。そしてこの問答は実は、この9章の最初から語られている「生まれつきの盲人」に対する取り扱い方を巡る問題によって引き起こされたものだと言えるのです。このとき、主イエスは道端で物乞いをしていた「生まれつきの盲人」と呼ばれる人に出会います。そしてイエスはその「生まれつきの盲人」と呼ばれる人の目を見えるようにするという奇跡を行われたのです。

 ところがここで問題が生じます。実はイエスが奇跡を行われた日はユダヤ人の間で、神を礼拝する以外のことは一切してはならないと厳しく定められていた安息日だったのです。それでファリサイ派の人々はイエスが「生まれつきの盲人」の目を癒されたことを「この日にしてはならない医療行為をした」と問題にしたのです。そして、ファリサイ派の人々はイエスを律法違反の罪を犯した罪人として訴えるために、イエスに目を見えるようにされたかつての「生まれつきの盲人」と呼ばれた人を呼び出して、イエスの罪を証言させようとしたのです。

 ところが、この企てはうまくいきませんでした。なぜなら、イエスに目を見えるようにしていただいたかつての「生まれつきの盲人」と呼ばれた人は、ファリサイ派の人々が求める証言とは全く違った証言を語ったからです。聖書によれば彼は次のように証言しています。

「神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです」(31~33節)。

 結局、ファリサイ派の人々は自分たちの言葉に従わず、むしろイエスのすばらしさを証言したこのかつて「生まれつきの盲人」と呼ばれていた人を自分たちの共同体から追放するという処分を行います(43節)。そしてこのお話に続いて語られている、イエスの羊飼いと羊のたとえは、誰がかつて「生まれつきの盲人」と呼ばれていた人の「良い羊飼い」になったのかを教える話だとも考えることができるのです。

 当時のファリサイ派の人々は神の掟である律法の専門家として聖書を人々に教え、指導することで自分たちこそが「良い羊飼い」だと考え、またそれを主張していました。ところが彼らはいったいこのかつて「生まれつきの盲人」と呼ばれた人のために何をしたのでしょうか。確かに彼らも物乞いをしていた彼を憐れんで、いくばくかの施しをしていたのかも知れません。しかし、彼らはそれ以上この人の人生に関わることは決してしませんでした。そしてむしろファリサイ派の人々は自分たちの邪魔者であるイエスを律法違反の罪人として裁判に訴えるためにこの人の証言を利用しようしたのです。そして彼らはこの「生まれつきの盲人」と呼ばれた人が自分たちの思い通りの証言をしなかったと言うことで、簡単に追放して見放してしまったのです。


4.私たちの人生に深く関わってくださる方

①自分の羊を知っているイエス

 さてこのファリサイ派の人々に比べてイエスはこの「生まれつきの盲人」と呼ばれた人に対してどのように行動されたのでしょうか。9章の冒頭で語られているのは「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか」(2節)と言う問いです。この時この問いに対する答えをイエスに求めた弟子たちも、また同じようなうわさを語っていた他の人々もこの「生まれつきの盲人」と呼ばれた人のことを良く知りません。そして彼らは勝手に、その人の目が生まれた時から見えないのは、誰かが犯した罪のせいであり、そのためにこの人は神に裁かれていると考えたのです。つまり、人々は既にこの時点で彼が神から必要ないと判断され、囲いの外に捨てられた羊だと考えていと言うことになります。

 ところが人々に神から捨てられた羊と考えられていたこの人に対して、主イエスの考えは全く違っていました。主イエスはこの「生まれつきの盲人」と呼ばれた人の人生について次のように語ったのです。

「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(3節)。

 イエスだけはこの人の人生の本当の意味をよく知っていました。この人は生まれる前から神の愛の対象として取り扱われ、またその神の囲いの中に招き入れられるべき大切な羊であると主イエスは言ってくださっているのです。今日の箇所で主イエスはこのような言葉を語っています。

「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」(16節)。

 主イエスはこの「生まれつきの盲人」を自分の囲いに導くために行動されました。「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と言う言葉の通りに、イエスが安息日にこの人の目を癒された行為はファリサイ派の人々の心をさらに固くなにさせ、結果的にイエスが十字架にかけられる出来事へと結びついて行きます。つまり、イエスは命がけでこの人の目を癒されたと言えるのです。このように、イエスは良い羊飼いとしてこの「生まれつき盲人」と呼ばれた人を良く知っておられたのです。


②イエスによって目が見えるようにされた私たち

 一方の「生まれつきの盲人」と呼ばれる人はこの良い羊飼いであるイエスのことをよく知っていたのでしょうか。実は彼は最初そうではなかったことが分かります。イエスによって見えない目が癒やされたと言うお話は聖書の他の箇所でも記されています。有名なのはバルティマイと言う人のお話です(マルコ10章46~52節)。

 彼は「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」とイエスに向かって叫び続けました。あまりにもうるさいので人々が彼のことを黙らせようとしたくらいです。しかし、彼は人々による制止の声も無視してイエスに向かって叫び続けたのです。ところが、今日のこの物語に登場する盲人は違います。彼は主イエスに助けを求めることもしていません。実は「わたしの目を癒してください」とも主イエスに向かって彼は一度も願っていないのです。彼は自分の人生をすでに諦めていたのかも知れません。何しろ彼は生まれたときから目が見えなかったのですから、見えるということすら分からなかったと言えます。

 ですからその生まれつきの人生が変わったのはむしろ主イエスの方から彼に近づき、彼の目に唾でこねた土を塗られたからです。彼はイエスに目を癒していただくことで、イエスが自分にとってどのような方であるかが分かったのです。

 これは私たちについても同じであると言えます。私たちはこの「生まれつき盲人」と呼ばれる人と同じようにかつては真の神を知らず、またその真の神の祝福の中で生かされることがどんなに素晴らしいことかも知らないで生きていました。むしろ、それまで自分が知っている世界だけがすべてであると考え、ある意味で、その世界で生きることしかできないとあきらめていたのです。そして、そのような私たちの目をイエスが開いてくださったのです。私たちがこのようにして、今共に神を礼拝し、また聖書の御言葉に真剣に耳を傾けることができるのはイエスが私たちの心の目を開いてくださったからだと言えるのです。聖書はこのようなことが可能となったのは今も天で生きておられる主イエスが私たちに聖霊を遣わしてくださったからだと教えています(コリント一12章3節)。

 このように私たちが私たちの真の羊飼いであるイエスを知っているのは、その主が私たちのために命を捨ててくださり、私たちを御自身の羊として囲いの中に招き入れてくださったからだと言えるのです。

 羊は無力な動物の象徴としても聖書では語られることがあります。羊は自分の力では自分を守ることができません。囲いから迷い出てしまったら、すぐに野獣に襲われてしまい命を失ってしまうような弱い動物なのです。ですからその羊が持っている自分の身を守るための方法は自分の羊飼いの声を聞き分けて、その声に従うことだけです。そのような意味で、私たちがこの日曜日の礼拝に出席して、聖書を通して語られる主イエスの御声に耳を傾けることは、私たちが生きるために最も大切なことであるとも言えるのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.「良い羊飼い」と「自分の羊を持たない雇い人」との間にある違いは何であるとイエスは語っていますか(11~13節)。

2.良い羊飼いと羊との関係を表すポイントは何だとイエスは言っていますか(14~15節)。

3.良い羊飼いは「この囲いに入っていない他の羊」を導くために何をするとイエスは言っていますか(16~19節)。

4.ヨハネによる福音書の9章の物語を読んで見ましょう。このお話から、主イエスが良い羊飼いであることがどのように分かりますか。

2024.4.21「良い羊飼いイエス」