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2024.4.28「豊かな実を結ぶために」 YouTube

ヨハネによる福音書15章1~8節(新P.198)

1 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。

2 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。

3 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。

4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。

5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。

6 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。

7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。

8 あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。


1.イエスの語られた遺言説教

①弟子たちを愛し抜かれたイエス

 今日はイエスが語ってくださった「まことのぶどうの木」のたとえのお話から学びます。イースターの礼拝の後、私たちは復活されたイエスが今も天で生きておられ、地上に生きる私たちと共に生きてくださっていることを聖書の言葉から学んで来ました。今日の聖書箇所のたとえ話もイエスと私たちとの関係を教える箇所であると言うことができます。

 このイエスの語られたたとえ話を収録しているヨハネによる福音書は13章の最初の部分で次のような言葉を記録しています。

「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」(1節)

 実はこの13章から私たちが普通「最後の晩餐」と呼ばれているイエスと弟子たちとの食事会が始まっています。そこでこのヨハネによる福音書はこの13章からイエスがこの最後の晩餐の席で語られたお話を16章まで続けて記録しているのです。そして同じようにイエスがこの晩餐の最後で祈られた祈りを次の17章で記しています。

 それではなぜイエスはこのような長いお話をこの最後の晩餐の席で語られたのでしょうか。先ほどの13章冒頭の言葉はその理由を次のように語っています。それはイエスが「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(1節)からだと言うのです。他の日本語聖書では「弟子たちに永遠の愛をお示しになった」と翻訳されているものもあります。イエスの愛はいつか終わってしまうような、あるいは無くなってしまうようなものではありません。いつまでも終わることなく、続く愛であると言えるのです。そして復活して天におられるイエスは今も私たちをその同じ愛で愛し続けてくださっているのです。ですから今日の「まことのぶどうの木」のたとえはそのイエスと私たちとの愛の関係を教えるものだとも考えることができます。


②わたしは既に世に勝っている

 この最後の晩餐の席でイエスからお話を聞いた弟子たちは心に不安を抱いていたことがわかります。それはイエスが「しばらくするとあなたがたはもうわたしを見なくなる」(16章16節)、あるいは「わたしは…世を去って、父のもとに行く」(同28節)と弟子たちに語られたからです。ですから弟子たちは「このままでは、イエスが自分たちから離れてどこかに行ってしまう。そうしたら自分たちはどなってしまうのだろうか…」と言うような不安を感じたからです。だから、イエスはこのような弟子たちの不安を取り去るために最後の晩餐の席で長いお話をされたと考えることができます。ですからイエスはそのような不安を抱く弟子たちに対して、次のような言葉を残されました。

「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(16章33節)。

 このイエスの言葉の通り、イエスが逮捕されたときに逃げ出してしまった弟子たちが、イエスの復活の出来事が起こった後、変わって行きます。新約聖書の使徒言行録はイエスが天に昇られた後にこの弟子たちがどのような変化していったかを記録したものであるとも言えます。そこにはイエスを信じて、熱心に福音を伝え続けた弟子たちの姿が描かれています。どうして、弟子たちはこのようなことができたのでしょうか。今日の「まことのぶどうの木」のたとえはその弟子たちの活動の秘密がどこにあったのかを教えるためのお話と考えることができるのです。


2.ぶどうの木とその枝

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」(1~2節)。

 このお話がイエスによって語られた当時のパレスチナのぶどう畑の様子と私たちがよく知っている日本のぶどう畑では栽培方法も、その様子も大きく違うようです。しかしこのぶどうの木のお話は私たちが身近で見ている日本のぶどう畑の姿を連想しても理解できると思います。私の家にも子どもの頃、父親が植えたぶどうの木があって秋になるとたくさんぶどうの実をつけていたことを思い出します。庭に作られたぶどう棚に絡みつくようにぶどうの蔓が伸びでその先にブドウの実を実らせるのです。一本のぶどうの木からたくさんの枝が四方八方に延びて広がるそんなイメージを浮かべても私たちはよいかも知れません。

 イエスはこのお話の中で自分は「まことのぶどうの木」であると語っています。そしてそのぶどうの木を植えた農夫はイエスの「父」、つまり父なる神だと言われているのです。なぜ、父なる神はこの地上に御子イエスを遣わしてくださったのでしょうか。それはイエスを通して豊かな実を結ばせるためです。ここで重要になってくるのはぶどうの木が結ぶ実は農夫である父なる神が求めておられる物だと言うことです。私たちはここで語られるぶどうの木が結ぶ実は自分たちのためのものではないのです。つまり、ぶどうの木は私たちが自己満足するために実を結ぶものでないと言うことです。これを勘違いしてしまうと私たちの信仰生活はおかしなものとなってしまいます。ある意味で信仰が自分の満足を満たすための手段となってしまうからです。

 人間に利益をもたらすための「ご利益信仰」は確かに一時的に私たちの満足を満たすことができるかも知れません。しかし、その満足は決して私たちに本当の幸せをもたらすものではありません。むしろそれは自分を不幸にしていくことになるのです。イエスの語るまことのぶどうの木は決して私たちために実を結ばせるのではないのです。むしろ、この実は私たちを創造された父なる神がその御業を完成させるために結ぶものです。そしてその神に創造された私たちもこの実によって神に創造されたものたちが受けるべき本当の祝福にあずかれることができるようになるのです。


3.みことばにとどまる

 ここでイエスはご自分を「まことのぶどうの木」であると語られた上で、私たちをそのぶどうの木の枝だとたとえて下さっています。ここで誤解してはならないのはぶどうの木の枝はぶどうの木の一部であると言うことです。つまり、そう考えると私たちはまことの木であるイエスの一部であると言うこともできるのです。このたとえを解説するある解説者の一人はこのぶどうの木を「教会」だと説明しています。私たちは頭であるイエスの体の一部分として、イエスの御業を地上に実現するために教会に集められていると言うことを私たちは聖書を通して学んでいます。そう考えるとこのたとえ話はぶどうの木とその枝と言う関係を通して同じことを教えていると考えることもできるのです。私たちは地上で主の御業を行い、その御業に仕えるためにぶどうの木の枝として教会に集められていると言うことができるからです。

 ぶどうの実はこの枝を通して実を結びます。ですから実を結ぶことができない枝は役に立たないばかりか他の枝が実を結ぶための障害となってしまいます。そこで農夫である父なる神はそのような枝を容赦なく取り除かれるとイエスは語っています。実を結ばない枝を取り除くのはぶどうの木が豊かに実を結ぶためです。そればかりではありません。農夫はぶどうの木がいよいよ豊かに実を結ぶために手入れをされると言うのです。

 実はこの「手入れをされる」と言う言葉が次の節で違う日本語で翻訳されています。

「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」(3節)。

 ここで「清くなっている」と言う言葉が「手入れをされている」と同じ言葉が使われています。つまり、父なる神はイエスの語る言葉によって、私たちが豊かな実を結ぶことができるように手入れをしてくださると言うのです。いえ、イエスは「もう十分に手入れがされている」と私たちに向かって教えているのかも知れません。

 私が神戸改革派神学校の学生であったときに、説教演習という授業がありました。神学校の教授たちや学生たちの前で順番に自分が準備した説教を語り、その説教について批評を受ける時間です。神学校の教授たちは私たちに「この演習の時間には厳しい批評をあなたたちは受けることができる。しかし、君たちが実際に神学校を卒業して教会の説教壇に立つときは違って来る。教会に集まる聴衆たちは決して君たちの語る説教を聞いて、厳しく批評することはない。ただ黙って、教会から去って行くだけだ…」。そんな言葉に脅かされながら私たちは恐怖を覚えつつこの説教演習の授業に挑むのです。その説教演習で教授たちに一番言われた言葉があります。それは「説教者は説教壇で自分の考えを語るのではない。人間の考えや思想をいくら語っても人は真の救いを受けることができないから…。聖書の言葉だけが人を救いに導くことができる。だから説教者は説教壇で聖書の御言葉を忠実に語らなければならない」と。

 最近、読んでいる説教学の本には聖書の御言葉を解き明かす説教は神の奇跡が起こる場所だとも語っていました。聖書の御言葉は私たちのような罪人を救いに導き、今も生きておられるイエスに結び付けて、豊かな実を結ぶことができるようにさせるからです。私たちはこの聖書の御言葉を通して神の御業である奇跡を体験し、豊かな実を結ぶ枝とされているのです。


4.イエスにつながっている

①ぶどうの枝は自分からは何もできない

 さてイエスの語る御言葉、聖書の言葉によって豊かに実を結ぶように父なる神から手入れをされた私たちにとって大切なことは何なのでしょうか。イエスは語っています。

「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」(4節)。

 イエスは私たちに「つながっていなさい」と言う言葉を何度もここで命じています。ぶどうの枝はぶどうの木につながっていなければ、実を結ぶことができないからです。ぶどうの枝が実を結ぶことができるのはぶどうの枝自身の力ではありません。そのぶどうの木から豊かな養分が供給され続けているから枝は実を結ぶことができるのです。つまり、私たちはイエスの力なしには何もできない者たちなのです。この部分のお話を解説しているある聖書学者は「実を結んでからイエスのところに行こうと考える人がいかに多いことか…」と言う言葉を書いていました。「自分の生活を改めてから教会に行きます」と言う人などがこの言葉の対象になるのでしょうか。しかし、イエスが語るように私たちはイエスにつながっていなければ、「なにもできない」(5節)のです。


②自分の本来の在り方を見出すところ

 興味深いのはこの「つながる」と言う言葉で福音書の著者であるヨハネが表そうとした意味です。それは「自分の本来のあり方を見出したところにとどまる」と言う意味を示すためにヨハネはこの「つながる」と言う言葉を使っていると言うのです。そうなるとこの「つながる」と言う言葉は現代人がよく使う「アイデンティティー」と言う言葉と同じ意味を持っていることになると言えます。人は本来自分がいるべき場所、つまりアイデンティティーを求めて生きているのです。そして私たちは自分のアイデンティティーを見出したとき、本当の自分の人生の意味を見出すことができるようになるのです。

 そう考えると私たちはまことのぶどうの木であるイエスにつながるとき、本当の自分のいるべき場所を見出すことができると言うことになります。また、自分が生きている人生の意味を見出すことができるようになると言ってよいのです。私たちはぶどうの木であるイエスに結び付くことで、自分の人生の目的を知り、また生きる喜びを味わうことができるようになるからです。


➂イエスに忠実に使えること

 それでは私たちがまことのぶどうの木であるイエスにつながり、私たちの人生を通して豊かな実を結ぶとはどういうことなのでしょうか。私たちはむしろ「豊かな実を結ぶ」と言う言葉を聞くと、「自分は本当に神に喜んでいただけるような豊かな実りを自分の人生を通して結ぶことができるのだろか」と疑問に感じたり、あるいは現実の自分の信仰生活を見て不安になったりすることがあります。しかし、そのような心配はこのイエスのたとえ話を読む限り必要ないのです。なぜなら、私たちにイエスが命じているのはイエスにつながることだけだからです。そして私たちの人生を通して豊かな実を結ばせるのは私たちの力ではなく、イエスの力だからです。

 ある聖書の解説者はこのたとえ話とイエスが別のところで語ったタラントのたとえ話(マタイ25章14~29節)とを取り上げて、二つのお話は同じことを語っていると説明しています。タラントのたとえ話では主人から預かった金を有効に使った僕が「良き僕」として評価されています。その反対にせっかく主人から預けられたのに、そのタラントが無くなるのを恐れて地面に埋めてしまった僕は主人によって厳しい非難を受けています。

 だから私たちに大切なのは豊かな実を結ばせる力を私たちに与えてくださるイエスに信頼することです。そしてその主の僕として自分の人生を使って主に仕えて続けていくことです。そうすればイエスは私たちの人生を通してその御業を地上に豊かに表してくださるとこのお話は私たちに教えているのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.ご自身を「まことのぶどうの木」と語られた主イエスはご自分と父なる神との関係、そして枝である私たちとの関係をどのように表現されましたか(1~2節)。

2.ぶどうの木の枝が実を豊かに結ぶために父なる神が行う手入れはどのようになされるのでしょうか(3節)。

3.ぶどうの木の枝である私たちが豊かに実を結ぶために主イエスは何を命じていますか(4~7節)。

4.ぶどうの木の枝である私たちが豊かに実を結ぶことで父なる神は何を受けることができるとイエスは教えていますか(8節)。

2024.4.28「豊かな実を結ぶために」