1. ホーム
  2. 礼拝説教集
  3. 2024
  4. 4月7日「日曜日に会いに来てくださったイエス」

2024.4.7「日曜日に会いに来てくださったイエス」 YouTube

ヨハネによる福音書20章19~31節(新P.210)

19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。

20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。

21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」

22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。

23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

24 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。

25 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」

26 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。

27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。

29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

30 このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。

31 これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。


1.日曜日の根拠

①日曜日とキリスト教会

 先日、テレビの番組を見ていてたいへん興味深いお話を聞きました。その番組に出演していたドイツ人の女性タレントが「ドイツと日本では日曜日の考え方についての大きな差がある」と言うようなことを話されていたのです。彼女はまず、「ドイツでは日曜日には休むということが徹底されている」と語っていました。ですからドイツでは日曜日に政府から特別に営業が許可されている商店や会社以外のところで、お店を営業したり、あるいは工場を稼働させたりすると罰金を支払わなければならないと言うのです。つまり、日曜日に休まない者には厳しいペナルティーが科せられる訳です。確かに日本では考えられないようなお話であると言えます。

 ただ、私はそのドイツ人のコメンテータの「日曜日は休む日」と言うお話を聞いて少しその説明では不十分ではないかな…と思えてなりませんでした。ご存知のようにドイツは元々キリスト教国です。そのキリスト教国で「日曜日には仕事をしてはならない」と言う制度がしっかり定められているのは、元々、日曜日は教会で礼拝をささげる日だからです。ですからドイツではキリスト教信仰に基づいて、厳しい制度が作られたのではないかと思えるのです。もっとも最近でのドイツでは日曜日に教会の礼拝に集う人は少なくなっていると聞いていますから、現代の法律の根拠には彼女が言うように教会や日曜日の礼拝は考えられていないのかも知れません。

 日本では昔から「盆と正月」と言って、日曜日に仕事を休むなどと言う制度は存在していませんでした。またそもそも一週間を七日間と数える方法も明治政府がそれまで西洋で使われて来た太陽暦のカレンダーを持ち込んで来た結果だと言われています。つまりこの制度は私たち日本人の歴史で考えると極めて新しい習慣であると言えるのです。そしてこの制度が日本で採用される際、日曜日の意味からキリスト教の意味は完全に取り去られ、政府は「日曜日は休みの日」と言う意味だけを残して国民に伝えたと考えられるのです。


②創造物語と一週間は七日と数える根拠

 ところでそもそも一週間を七日と定める制度はどこから始まったのでしょうか。実はこれにもいろいろな説が存在しているのですが、その中でも最も有力なのは旧約聖書が教える神の創造の物語に由来すると言うものです。創世記には「神が天地万物を六日間で作り、その後の七日目を休まれた」というお話が記されています(創世記1章1節~2章3節)。つまりこの創造物語に登場する七日間が一週間の根拠となっていて、やがてその聖書の創造物語を信じるキリスト教を国教と定めたローマ帝国の影響でこの考えも全世界に広まって行ったと考えることができると言うのです。

 ところがここで問題が一つ残されます。なぜなら、旧約聖書が教える神が休日を過ごされたのは一週間の最後の日、土曜日であると記されていることです(創世記2章1~3節)。ご存知のように旧約聖書が教える律法では毎週土曜日は「安息日」と呼ばれ、その日は神を礼拝する以外のことをしてはならないと定められています(出エジプト20章8~11節)。つまり、この創造物語からは「なぜ私たちが日曜日に仕事を休んで、その日に教会に行って礼拝をささげるのか」と言う理由は説明できないのです。それではそもそも私たちになぜ、日曜日に教会に集まり、神に礼拝をささげなければならないのでしょうか。


2.日曜日に復活されたイエス

①日曜日に弟子たちと会われたイエス

 実は今、私たちは旧約聖書の教える安息日の律法に従ってこの教会に集まり、礼拝をささげているのではありません。それでは私たちはなぜ、日曜日を大切にして教会に集まるのでしょうか。それは私たちの救い主であるイエスが日曜日の日に死から甦られて復活し、その姿を弟子たちの前に現わしてくださったからです。私たちは前回のイースター礼拝でその出来事を聖書から学びました。安息日が明けた日曜日の朝早く婦人の弟子たちが主イエスの葬られた墓に向かうとそこにイエスの遺体はありませんでした。その代わりにそこに現れた天使から彼女たちは主イエスが復活されたという出来事を教えられたのです。

 今日の物語ではその同じ日曜日の夕方にエルサレムの一室に集まっている弟子たちのところに復活された主イエスが姿を現わされるという出来事が記されています。このように日曜日は主イエスが復活された日であり、その姿を弟子たちの前に現わしてくださった日であると言えるのです。そしてキリスト教会はこの日を記念してそれ以後、二千年の歴史の中でこの日曜日を大切にして、信徒の仲間同士で集まり、礼拝をささげて来たと言えるのです。


②イエスによって開始された再創造の御業

 興味深いのは先ほどお話した創世記の創造物語で日曜日は神が天地万物の創造に着手された最初の日となっていることです(創世記1章1~5節)。つまり、キリスト教会は神が休まれた土曜日の安息日ではなく、神が天地万物を創造し始めた最初の日を大切にして、その日に礼拝をささげているのです。キリスト教会では神による再創造の御業が主イエスを通して始まったことを教えます。そしてこの再創造の出来事の中には私たちが主イエスによって救われるという出来事も含まれているのです。この再創造の御業はキリストが再びこの地上にやって来られるときに完成されると教えられています。そのような意味では、私たちは今、イエス・キリストを通して始まった神による再創造の御業を記念してこの日曜日に集められて礼拝をささげているとも考えることができるのです。


3.日曜日の礼拝の根拠

 さて、今日の聖書箇所に記されている通り、復活された主イエスはこの日、エルサレムの町のとある部屋に集まっていた弟子たちの前に、その姿を現わしてくださいました。それではなぜこの日、弟子たちはエルサレムの一室に集まっていたのでしょうか。その事情は次のように聖書に記されています。

「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」(19節)。

 この文章から推測できることは、弟子たちは日曜日に「みんながその日、都合がいいから」と打ち合わせて集まったのではありませんでした。むしろ弟子たちはその日まで、おそらく主イエスが逮捕されたときから、このエルサレムの一室に用心のために留まり続けていた考えることができるのです。彼らは主イエスを捕らえて行ったユダヤ人たちが自分たちにも害を加えることを恐れて、まるで逃亡者のように恐怖を抱きながらこの部屋に留まり続けていたと考えることができます。そして、むしろ主イエスがこの日曜日の日に弟子たちの前に現れてくださったのは主イエスの側のお考えによるものだと言えるのです。そしてキリスト教会がこの日曜日を主イエスと自分たちとの出会いの日と考えました。つまりその日に教会が礼拝をするようになったのはこの主イエスのお考えを尊重したためだと言えるのです。

 さらに復活された主イエスが何よりもこの日曜日を御自分との出会いの日として大切にされたことは次に続く弟子のトマスの物語でもはっきり分かって来るのです。ご存知のようにトマスは他の弟子たちが復活された主イエスに会うことができたのに、彼だけはその機会を逃してしまいました。そしてその理由を聖書は次のように説明しています。

「十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。」(24節)

 トマスは日曜日の日に弟子たちが集まった場所に行かなかったのです。その理由は定かではありませんが、トマスはそのようにして復活された主イエスとの出会いの機会を逃してしまったのです。しかし、この物語はこれでは終わりません。「さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた」(26節)。古代のユダヤ人の数え方はその物事が起こった当日も勘定に入れてしまうのでここでは「八日後」になっています。しかしこれは現代の私たちの数え方から言えば「七日後」、つまり次の週の日曜日の出来事と考えることができるのです。この日にはトマスは他の弟子たちと共にいて、そこで彼もまた復活されて主イエスに出会うと言う体験をすることができたのです。

 興味深いのはこのときにトマスの前に現れた主イエスはトマスのかつての発言である「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」(25節)と言う言葉を明らかに知っていて、トマスに語りかけています。つまり、主イエスはトマスの目には見えませんでしたけれども彼とずっと一緒にいてくださったのです。しかし、その主イエスがご自身の姿を改めてトマスに示されたのは、日曜日に他の弟子たちが共に集まっていた場所であったと言うのです。ここにキリスト教会が何よりも日曜日に信じる者同士が共に集まって礼拝をささげることを大切にしてきた根拠があると言えるのです。


4.私たちに平和をくださる主イエス

①シャローム

 私は以前、教会に来ていた一人の婦人の方から「8月は日曜日の礼拝を夏休みにしたらどうでしょうか…?」と提案されたことがありました。私はそのとき何とその婦人に答えたのか忘れてしまったのですが。おそらくその時は慌ててしまって「日曜日に礼拝をすることはキリスト教徒にとってたとえ何が起こってもやめてはならない大切なことだ」と言うような説明をしたのかもしれません。

 今日の物語の中では復活された主イエスが弟子たちの集まるところに姿を現わして「あなたがたに平和があるように」と言われたことが記されています。これは次の日曜日にトマスが同席していたときにも同じ言葉が繰り返されています。「あなたがたに平和があるように」、つまりヘブライ語では「シャローム」と言う言葉です。これはヘブライ語では挨拶の言葉として普段は今でも用いられています。しかし、ここであえて主イエスが弟子たちに「シャローム」と語られたことにはもっと別な意味があるかも知れません。なぜならこのとき弟子たちは激しい恐れに支配され、また不安の中で平和を失っていたからです。だからこそ復活された主イエスはこの「シャローム」を弟子たちに与えようとして、この日曜日の日に弟子たちの前に現れたのです。

 これも大変興味深いことですが、主イエスがこの「シャローム」と言う言葉を口にしたとき、主イエスは同じ行動を繰り返されます。それはご自分の手と脇腹を弟子たちに見せたということです。これはトマスに対しても同じです。なぜなら、主イエスの手と脇腹には十字架で刺しぬかれた傷跡がはっきりと残されていたからです。その傷跡はまさに主イエスが私たちの罪を贖い、その罪を解決してくださって、神との平和を回復させてくださった救いの御業の成就を証する証拠です。そしてこの傷にこそ、弟子たちに与えられる「シャローム」の根拠が豊かに示されているのです。


②信仰の仲間と共に日曜日に集まる私たち

 先日、古代の教会が当時のどのようにして人に洗礼を授け、その人を教会の仲間としていったかについて記録を記す本を読みました。当時の教会はまず、教会に加わりたいと願う人の生活と信仰を慎重に吟味したうえで、その人物を洗礼志願者として受け入れたと言われています。その後、洗礼志願者は教会の仲間から三年間の長きにわたって訓練を受けることになります。そしてその総仕上げが受難節の四〇日の訓練であると言えます。洗礼志願者はこの訓練を受けた後、主イエスが復活されたと考える日曜日の明け方、まだ暗いうちに洗礼を受けたというのです。そして洗礼を受けた者はここで初めて、教会の正式な仲間、つまり信仰の家族の一員として受け入れられことになるのです。

 現代の教会と古代の教会のやり方は大きく変わっているかも知れません。しかし、私たちが受けた洗礼の意味は今もむかしも変わることはありません。それは主イエスを信じる教会の仲間、家族の一員とされたと言うことです。そしてその教会の仲間とされた者が最も大切にすることこそが、日曜日に共に集まって神に礼拝をささげることだと言えるのです。

 日曜日の礼拝では聖書の言葉からイエス・キリストの十字架の出来事が毎週、出席者に語られています。それは主イエスが日曜日に弟子たちにご自身の手と脇腹を示したことと同じ意味を持ちます。そしてこの礼拝を通して、今も主イエスからの贈り物である「シャローム」を私たちは受けることができるのです。主イエスは別の箇所でこの「シャローム」について次のように語っています。

「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」。(14章27節)

 主イエスが与えてくださる平和はこの世が与える平和とは全く違います。確かにこの世の多くの人々も「平和」を日々求めて生きています。しかし、世はその平和を実現させるために決して絶えることのない戦いを繰り返すことしかできません。そしてたとえその戦いの結果、一時的平和が実現できたとしても、その平和はすぐに消え去って、また新たな戦いが起こります。

 主イエスは私たちに本当の平和を与えるために十字架にかかってくださいました。そして主イエスはその平和を与えるために復活された朝、弟子たちの集まるところに来てくださったのです。この主イエスは今も、最初の日曜日と同じように毎週の日曜日に教会に集まる私たちに聖霊を送ってくださり、この平和を私たちに与えてくださるのです。だからこそ、キリスト教会は二千年の歴史の中で何よりもこの日曜日の礼拝を大切に守り続けて来たと言えるのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.イエスが復活された日曜日の夕方、イエスの弟子たちはどこで何をしていましたか(19節)。

2.その弟子たちの前に現れた復活されたイエスはそこで何を語り、何をされましたか(19~23節)。

3.十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスはどうして復活されたイエスと会うことができなかったのでしょうか。彼は仲間たちが「わたしたちは主を見た」と言う言葉を聞いたとき、どのような反応を示しましたか(21~25節)。

4.八日の後、このトマスはどこにいましたか。復活されたイエスはこのトマスに対して何を語りましたか。トマスはこの出来事を体験してどのようになりましたか(26~28節)。

5.「見ないのに信じる人は、幸いである」(29節)と言うイエスの言葉についてあなたはどう考えますか。

2024.4.7「日曜日に会いに来てくださったイエス」