1. ホーム
  2. 礼拝説教集
  3. 2024
  4. 5月12日「聖霊なる神」

2024.5.12「聖霊なる神」 YouTube

ヨハネによる福音書14章16~17節(新P.197)

16 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。

17 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。


ハイデルベルク信仰問答書

問53 「聖霊」について、あなたは何を信じていますか。

答 第一に、この方が御父や御子と同様に永遠の神であられる、ということ。

第二に、この方はわたしに与えられたお方でもあり、まことの信仰によってキリストとそのすべての恵みにわたしをあずからせ、わたしを慰め、永遠にわたしと共にいてくださる、ということです。


1.聖霊は神

①私たちが生きるための知恵を与える聖書

 今日も皆さんとともにハイデルベルク信仰問答の教えからキリスト教信仰の要点を学んで行きたいと思います。19世紀のデンマークの哲学者にキルケゴールと言う人がいます。彼は当時、ヨーロッパの哲学界を代表する大哲学者ヘーゲルと言う人物を評してこう語ったと言われています。「ヘーゲルは自分の力で素晴らしい豪邸を建築した。しかし、実際に彼が住んでいるのは薄汚れて狭い地下室でしかない」。キルケゴールはヘーゲルの教える哲学がどんなに立派なものであっても、その哲学は肝心のヘーゲル自身の人生の問題、つまり人間の生と死をめぐる問題に何も答えていないと言う批判をこの言葉を通して語ったのです。

 ハイデルベルク信仰問答は16世紀にヨーロッパで起こった宗教改革の中で書き記された文章です。そしてこの問答は第一問で「生きえるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」と言う言葉を語っています。聖書の教えは、古代人の考え方やその文化、あるいは思想体系を伝えるようなものではありません。今、生きている私たちの人生に深く関わりを持ち、むしろ私たちの人生に起こるどのような困難の中でも私たちを生かすことのできる力を与えるのが聖書の教えであると言えます。ハイデルベルク信仰問答はこの聖書の教えが、私たちの人生に、そしてやがては必ず地上の死を迎えなければならない「私」と言う存在に対してどのような答えを与えているのかを表す大変に優れた信仰問答だと言うことができるのです。そのような意味で、私たちはこの信仰問答から聖書の大切な教えを学んで行きたいと思うのです。そして今日の信仰問答が取り上げているのは「聖霊」です。


②聖霊の働きに対する誤解

 次週の日曜日は、今から二千年前にエルサレムの一室に集まって祈っていたイエスの弟子たちの上に聖霊が来てくださったことを記念するペンテコステとなります(使徒2章1~13節)。改革派教会では昔からこのペンテコステに、各地域で近隣教会の仲間が集まって「ペンテコステ合同集会」を持つ習慣を持っています。これは私が信徒時代を送った千葉県の教会でも同じでした。その当時、私の通っていた教会の牧師がこんなことを話していたことを思い出します。「この間、ペンテコステ派の教会の牧師から、「改革派教会でもペンテコステをお祝いするのか?」と驚かれた…」と言う話をして「自分も改めて驚かされた」と言われたのです。この話の中で登場する「ペンテコステ派」と言うのは特に聖霊の働きを強調する教理を持った教会を指しています。この教派では「異言」と言って信仰者が特別な言葉を語りだしたり、聖霊の力によって病が奇跡的に癒されるという教えを強調する傾向があります。そのような意味で彼らは聖霊の働きを自分たちの専売特許のように思っているのかも知れません。

 しかし、これは大きな誤解であると言えます。なぜなら、私たちの信仰生活にとって聖霊はいつでも無くてはならない重要な働きをしてくださる方だからです。このハイデルベルク信仰問答でも問24で次のような言葉が語られています。ここでは聖書が教える三位一体の神に触れて、そのそれぞれの働きを簡単に紹介しています。「第一に、父なる神と、私たちの創造について、第二に、子なる神と、私たちの贖いについて、第三に、聖霊なる神と、わたしたちの聖化について」と言う具合にです。ここで「聖霊なる神は私たちを聖化してくださる方」と説明されているのです。キリストの御業によって救いを約束された私たちを実際にその救いの完成まで導く役目を聖霊はされるのです。ですから、この聖霊の働きがなければ聖書がどんなにすばらしい約束を私たちに語っていたとしても、そのままではその約束と私たちの人生と無関係のままになってしまうのです。ですから聖霊は私たちの人生に神様の救いが実現するように導いてくださる方だと言えるのです。


➂三位一体の神

 今、申しましたように、キリスト教会は自分たちが信じている神を「三位一体の神」と呼んでいます。しかし実は、この「三位一体」と言う言葉は聖書のどこにも記されていません。なぜなら、この呼び名は後になってキリスト教会の神学者が作り出した言葉だからです。しかし、この「三位一体」と言う言葉が言い表そうとする内容は、聖書が私たちに教えて来たものであると言えます。私たちの神は父と子と聖霊なる神があって、しかもその方はただ一人の神であると言う聖書の教えを信じているからです。

 特に今日の聖書箇所であるヨハネによる福音書では、これから世を去って天に昇られようとされる主イエスが弟子たちに、天の父なる神が主イエスとは「別の弁護者」、助け主を送ってくださると言う約束を語っています。このイエスが語った「別の弁護者」こそ、私たちが今日学んでいる聖霊なる神のことです。ここでこの聖霊なる神が主イエスと同じように父なる神から遣わされる方であることが分かります。つまり、聖霊も主イエスと同じように神だと言うことができるのです。

 このような意味で聖霊は全知全能の神であると聖書は教えているのです。つまり、聖霊は私たち人間の弱さや愚かさによってその御業を実現できなくなってしまうような弱くて不完全な存在ではありません。また、私たちのような愚かな人間に仕えるような方でもないのです。聖霊はまことの神です。だからこそ聖霊は私たち一人一人の人生に主導権を持って関わってくださり、私たち人間を神の御業に仕えるものとしてくだる方だと言えるのです。


2.信仰を与えてくださる神

 さて今日の信仰問答の文章では聖霊が父なる神、子なる神と同様に永遠の神であると言うことを教えるとともに、続いて「この方はわたしたちに与えられたお方でもあり」と言う言葉が記されています。

 私たちは自分の顔を自分で見ることはできません。できるとすれば鏡のようなものを使って、そこに写された自分の顔を見るだけです。また、自分の声を録音テープに収めると、自分がいつも聞いているような声とは違う音声で自分の声が聞こえてきます。ある意味で、私たちは自分自身のことを自分では簡単に確認することができません。「聖霊なる神の働きは他の父なる神や子なる神に比べて分かりにくい」と言う人がいます。その理由はこの聖霊なる神が私たちに与えられ、また私たちの内で働いてくださる方だからです。

 ヨハネによる福音書の3章ではこの聖霊なる神の働きについてイエスが次のような説明をしています。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない」(8節)。聖霊の働きは風と同じように私たちの目で見ることはできません。しかし、風が吹けばその風を私たちは感じることができるように、聖霊の働きもわたしたちは自分の信仰生活の中で感じることができるのです。

 聖霊の働きのもっと大切な部分はイエス・キリストが十字架と復活の御業を通して私たちのために勝ち取ってくださった恵みを私たちのものとしてくださると言うことです。私はYouTubeで配信者がどこかの町に行って、そこでいろいろなご馳走を食べている風景を写す動画を見るのが好きです。他人がおいしそうに料理を食べる姿を見て、「おいしいだろうな…」と想像します。私は外食することがほとんどありません。だからこのような動画を見ることで自分の世界が少し広がったような気がするのです。しかし、このような動画を見る多くの人は「今度は自分でもそこに行って、食べてみよう」と思うはずです。なぜなら、動画を見ただけではその料理のおいしさを知ることができないからです。

 聖書ではイエス・キリストが成し遂げてくださった救いの御業によって、たくさんの恵みが私たちに与えられることが約束されています。しかし、その約束を私たちが知っただけでは、私がYouTubeの動画を見ているのと同じです。肝心なのはその約束が私たちそれぞれの人生の上に実現することです。信仰問答はその救いが実際に私たちの人生の上に実現するために、聖霊が働いてくださることを教えているのです。


3.信仰によって働かれる聖霊

①信仰によって

 さて聖霊の働きを理解するために重要なのは信仰問答がここで語っている「まことの信仰によって」と言う言葉です。日本では「信仰」と言う言葉はどちらかというと人間の側が行うものだと考える傾向があります。営業マンは自分の売り上げた商品の売上高によってその能力が評価され、それに見合った報酬を会社から受けることができます。日本人は信仰と言うと、自分が何らかの修行を積んで、神の前に業績を積み、それによって神から報酬を受けることができるようにさせるものだと考えます。しかし、聖書の教える信仰はそのようなものではありません。なぜなら、私たちが神からいただく恵みは私たちの信仰が評価されたから与えられるものではないからです。この恵みはイエス・キリストの救いの御業によってイエス・キリストが私たちのために獲得してくださったものです。そしてイエス・キリストはご自身が得たこの恵みを、私たちに何らかの代価を求めることなく、無償で与えてくださるのです。そしてその恵みをイエス・キリストからいただく手段と言えるものが聖書が語る「信仰」であると言うことができるのです。

 宗教改革者のマルチン・ルターは「信仰は私たちが神の前に両手を差し出すようなものだ」とたとえています。神からの恵みをいただくために、私たちは両手を差し出して、その恵みを受け取るのです。つまり、私たちは信仰と言う両手を神の前に差し出すことで、豊かな恵みを神から受け、その恵みを私たち自身のものにすることができるようになるのです。

 たださらにここで注意すべきなのは、私たちが神から恵みを受け取るために、信仰と言う両手を差し出すことができるようになるのは、私たちに与えられ、私たちの内で働かれる聖霊の働きの結果だと言うことです。つまり、私たちが神を信じ、イエス・キリストを自分の救い主として信じて生きることができるようになるのもすべて聖霊の働きなのです。だからパウロはこの信仰の秘密について次のような言葉を語ります。「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです」(コリント一12章3節)。つまり信仰も聖霊が私たちに与えてくださるものだと言えるのです。

 もし、信仰が私たちの能力や力によって作り出されるものだとしたら、これほど頼りにならなないものはありません。私たちは老化の過程で日々、様々なことができなくなっていくことを体験します。昔は簡単にできていたものができなくなります。他人の助けがなければ、どうにもならないと言うことを私たちは老化によって経験するのです。もし、信仰が人間に備わる能力だとすればどうなるでしょうか、認知症になって聖書のこともイエス・キリストもよく分からなくなってしまったら、その人は救われないのでしょうか。そうではありません。信仰は聖霊が私たちに与えてくださるものです。だからたとえ私たちの側の状況が変化しても、この信仰は私たちから決して奪われることはないのです。


②私たちと永遠に共にいてくださる聖霊

 聖霊はこの信仰を通して、私たちに豊かな恵みを与え続けて下さる方です。そればかりではありません。聖霊は私たちを「慰めてくださる」方だと信仰問答は語っています。この信仰問答のテーマのような「慰め」と言う言葉がここにも登場するのです。なぜなら、この信仰問答の第一問が「わたしたちがイエス・キリストのものであること」が私たちの慰めだと教えるように、聖霊はこのイエス・キリストと私たちの関係を日々確かなものとしてくださる方だからです。ですから明日、自分の人生にどんなことが起こるかも分からないような不確かな人生を歩んでいるように思われる私たちであったとしても、イエス・キリストを信頼して、その方に自分の人生を委ねることで、私たちは確かな人生を歩むことができるようにされるのです。

 最後に信仰問答はこの聖霊なる神について「永遠にわたしと共にいてくださる」方だと教えています。先日、長い間高齢者施設に入居されていたN兄が天に召されたという報せが教会に届きました。先に天に召されたN姉と共に、このN兄は東川口教会の開拓期から教会の礼拝に参加してくださった方です。もともとこのNご夫妻は南浦和教会の会員でしたが、何らかの理由でその教会から離れてしまい、長い間教会生活から離れてしまっていた方たちでした。ある時、人づてにNご夫妻がこの東川口に住んでおられると言うことを紹介され、私とヤング宣教師がN家を訪問したところ、ご夫妻は「東川口教会の礼拝に参加します」と言ってくださったのです。

 それからしばらくして、私が南浦和教会の礼拝で説教奉仕をすることになったとき、南浦和の長老の一人の方が「Nご夫妻が東川口の礼拝に参加するようになった」と報告をすると、「聖徒の堅忍だね」と言う言葉を語られたのです。「聖徒の堅忍」というのは改革派教会が大切にする教理の一つです(ウ信仰告白17章)。神が救いに導いてくださった者は、その人生でどのようなことが起こったとしても、最後まで恵みの状態に保たれる救われると言う教えです。南浦和の長老はこの改革派教会が信じる教理がN兄弟姉妹の教会生活への復帰を通して証明されたとそのときニコニコしながら語っていたことを思い出します。残念ながら、N兄弟姉妹が施設に入居された後でコロナウイルスのパンデミックが起こり、私たちは簡単に兄弟姉妹と会うことができなくなってしまいました。その結果、私たちはお二人とこの地上で会えないままに、天に送ることになってしまいました。

 しかし信仰問答が語るように聖霊は永遠に共にいてくださるお方なのです。そしてその方は私たちの状況がどんなに変化したとしても、私たちが一時的に地上の教会の仲間たちと会えなくなったとしても、私たちから決して離れることがないお方です。そして聖霊なる神は主導権を持って私たちの人生を導いて、私たちのこの世の死と言う出来事を超えて、永遠の御国に私たちを入れてくださる方だとも言えるのです。私たちにはこの心強い「弁護者」が私たちに今送られていることを心から神に感謝したいと思います。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.まず、あなたもハイデルベルク信仰問答の問53を読んで見ましょう。聖霊が父なる神や子なる神であられるイエス・キリストと永遠の神であられると言う教えは、あなたの信仰生活にどのような希望を与えますか。

2.どうして「聖霊なる神の働きは父なる神や子なる神の働きに比べて分かりにくい」と感じられているのでしょうか。また信仰問答の「この方はわたしに与えられたお方」と言う言葉から聖霊なる神と私たちの信仰生活との密接な関係を私たちはどのように理解することができますか。

3.聖霊は私たちに与えられた「まことの信仰」を通して、どのよう神の恵みを私たちの人生に実現してくださるのですか。

2024.5.12「聖霊なる神」