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  4. 5月19日「真理の霊」

2024.5.19「真理の霊」 YouTube

ヨハネによる福音書15章26-27節,16章12-15節

26 わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。

27 あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。

12 言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。

13 しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。

14 その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。

15 父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」


1.イエスに言葉が実現するのを待った弟子たち

①弟子たち上に起こった不思議な出来事

 今日はペンテコステ、聖霊降臨日の礼拝をささげます。このペンテコステの日にどのような出来事が起こったのかについては使徒言行録の2章が詳しく記しています。この出来後を告げる使徒言行録2章は次のような言葉で始まっています。

「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、"霊"が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(1~4節)。

 このとき弟子たちの上に聖霊が降り、彼らが様々な国の言葉で話し出すと言う不思議な出来事が起こりました。ここで記されている「五旬祭(ペンテコステ)」は本来、ユダヤ人たちが大切にしていた祭りの一つで、この日にはエルサレムの都にあった神殿にお参りするためにたくさんの巡礼者がこの町に集まります。このエルサレムの町にやって来た巡礼者たちが弟子たちの引き起こした騒ぎを聞きつけて、彼らのいる場所にやって来ます。そして巡礼者たちは自分たちの故郷の言葉を話す弟子たちの様子に驚きの声を上げたと言うのです。

 すると、イエスの弟子の一人であるペトロがそこに集まった人々に、キリストの福音についての説教を語り始めました。そしてこの日にペトロの説教を聞いて、新たにイエスを救い主として信じ、弟子たちの仲間に加わった人々が3千人いたと言うことを使徒言行録は報告しています(2章41節)。このときまでイエスの弟子たちは小さな群れに過ませんでした、それが三千人以上もいる大きな群れに変わったのです。ですからキリスト教会は二千年の間、このペンテコステを「キリスト教会の誕生日」としてお祝いし、この日を記念して礼拝をささげて来たのです。


②イエスの言葉に従った弟子たち

 聖書によれば、このペンテコステは私たちが先週お祝いしたイエス・キリストの昇天の出来事からちょうど数えて十日目、つまりイエスの復活から数えて五十日目に起こったことが分かります。イエスを天に送った弟子たちはこの日以来、エルサレムの都にとどまり続けていたと言うのです。当時、このエルサレムの町はイエスを十字架にかけた宗教指導者たちが支配する町で、弟子たちにとって大変に危険な場所であったと言えます。イエスを殺害した宗教指導者たちはイエスと同じように、その弟子たちも邪魔な存在と考えていたからです。ですから彼らが自分たちの身の安全を優先するとしたら、むしろ彼らの生まれ故郷であるガリラヤ地方に戻ることが得策であったと考えることができました。それなのになぜ、彼らはあえてこの危険な町エルサレムに留まり続けていたのでしょうか。それは彼らがイエスの語られた約束の言葉を信じ、その言葉に従おうとしたからです。使徒言行録によればイエスは天に昇る前に弟子たちに次のような言葉を残しています。

「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」(1章4~5節)。

 このとき、弟子たちが何よりも優先しようとしたものはこのイエスの言葉に従うことでした。だから、彼らはこのエルサレムの町に留まり続け、そして、このイエスの言葉が弟子たちの上に実現し、彼らに聖霊が遣わされると言う出来事が起こったのです。


2.聖霊の働きで変えられた弟子たち

①復活されたイエスによって聖霊を受けた弟子たち

 そして弟子たちはこのペンテコステの出来事を境に大きな変貌を遂げていきます。それまではエルサレムの町の一室に人目を忍んで集まるだけだった彼らが、この出来事の後、キリストの福音を大胆に人々に証する集団に変わっていきました。そして彼らのこの大胆な福音の証しを通して多くの人々が弟子たちの新たな仲間として加わり、キリスト教会の礎が形成されて行ったのです。私たちはこのような弟子たちの姿を通して、聖霊の働きのすばらしさを理解することができます。しかし、聖霊の働きはむしろこのペンテコステの出来事が起こる前から弟子たちの上に起こっていたことが聖書を読むと分かるのです。

 なぜなら、すでに復活されたイエスは、その姿を初めて弟子たちの前に現わされたときに彼らに聖霊を送ったということが聖書には語られているからです。ヨハネによる福音書はそのことについて次のように記述しています。

「イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(20章21~23節)。

 このときイエスは既に弟子たちに「聖霊を受けなさい」と言って息を吹きかけておられます。そして弟子たちはこのときイエスから送っていただいた聖霊の働きによって、イエスの語られた言葉に従ってエルサレムの町に留まり続けることができたと言えるのです。そのような意味で弟子たちは既にこの聖霊の働きによって変えられ始めていたとも言えるのです。


②自分ではなくイエスの言葉を優先する生き方

 かつて弟子たちが自分の人生で優先していたものは、自分自身でした。聖書を読むと、イエスにそれまで従い続けた弟子たちが度々自分たちの内で誰が一番偉いのかを言い争っていたことが分かります。イエスはご自分が十字架にかかり死なれることを弟子たちに予め何度も語っていたのですが、彼らはその言葉を全く理解することができませんでした。それはイエスの言葉よりも、自分の願望を実現させることが優先だと彼らは考えていたからです。そしてそんな自分の願望を実現させるためにもイエスに働いてほしいと考えていたのです。だからこそ、そんな彼らにとってはイエスが敵に捕まって、殺されてしまうなどということは決して受け入れることができるものではありませんでした。こんな彼らがこの時、イエスの言葉に従って、エルサレムに留まり続けることができたのは何よりも聖霊が彼ら上に働いて、彼らを変えて下さったからだと言えるのです。


3.絶望から祈りへ

①心を合わせて熱心に祈る弟子たち

 ところでこの時、弟子たちはエルサレムの都に留まって、そこで何をしていたのでしょうか。ただイエスの言葉が実現するのを待って、ぼーっとして待っていたのでしょうか。そうではありません。使徒言行録はこのときの弟子たちについて次のように記しています。

「彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。…彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた」(1章13~14節)。

 ここに弟子たちは「心を合わせて熱心に祈っていた」と語られています。かつて仲間同志で言い争い合った弟子たちが、またイエスの十字架を前にして散り散りに逃げ出してしまった弟子たちがここでは一緒になって熱心に祈っていたと言うのです。これはとても不思議な光景です。

 かつての弟子たちはこんなに熱心に祈る人々ではなかったからです。それはイエスのゲッセマネの園での祈りの場面を思い出してもよく分かります。このとき、弟子たちは命がけで祈り続けたイエスのそばにいながら、一緒に祈る気もなく、眠り込んでしまうという醜態をさらしているのです(ルカ22章39~46節)。

 このような弟子たちがなぜ一緒に集まって心を合わせて熱心に祈ることができたのでしょうか。その大きな原因の一つは彼らを襲った人生の危機にあったと考えることができます。なぜなら、彼らはイエスの十字架と言う出来事を前にしてそれまで自分たちが持っていた一切の自信を失ってしまっていたからです。おそらく、それまでの弟子たちの言動を見ると、彼らがイエスの弟子とされたのは「自分がもっている何らかの能力が評価されたから」と言うよう思い上がりのような自信を持っていたと言えるのです。そのような自信過剰の弟子たちだからこそ、イエスが語る救い主としての御業とその計画さえ自分たち力で変えてしまおうとする思いあがった考えを持つことができたのです。しかし、そのような彼らもイエスの十字架を前にして今まで持っていたすべての自信を失い、むしろ絶望にまで追い込まれるような危機的な状況を経験します。


②私たちをイエスに導く弁護者、真理の霊

 このとき、弟子たちは徹底的な無力感を味わっていました。ですから彼らはここで絶望してどうにもならなくなってしまうはずでした。しかし、そこで聖霊は彼らをイエスへと導かれたのです。かつてイエスはこの聖霊の働きについて「弁護者」言う言葉で紹介しています(26節)。この弁護者と言う言葉は本来法律用語で、その法廷で裁かれる被告人のところに来て彼を弁護し、助けるのがこの「弁護者」の役割でした。そのような意味で聖霊は窮地に立つ私たちのところに天のイエスから遣わされ、私たちを助ける役割を果たす方なのです。

 また、同時にこの聖霊は「真理の霊」とも紹介されています(26節)。聖書が語る「真理」は哲学者が教える抽象的な言葉や思想ではありません。なぜなら聖書はイエス・キリスト自身を真理そのものであると教えているからです(ヨハネ14章6節)。そのような意味でこの聖霊はいつも私たちを真理であるイエス・キリストに導く方であると言うことができるのです。聖霊は人生の危機に直面し自分たちの無力さを痛感し、自分自身に絶望する弟子たちをイエス・キリストへと導いたのです。なぜなら、このときの弟子たちは「自分たちには何もよりもイエスの助けが必要である」と言うことを知っていたからです。だからこそ彼らはそれまでの彼らの姿とは全くちがって、神に対して熱心に祈る者たちとなっていたのです。そして神はその弟子たちの祈りに答えて聖霊をさらに豊かに遣わしてくださったのです。


4.教会の上に働く霊

①霊の結ぶ実

 使徒パウロはガラテヤの信徒への手紙の中で聖霊が私たちの信仰生活にもたらしてくださる恵みについて「霊の結ぶ実」と言う言葉を使って次のように語っています。

「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(5章22~23節)。

 昔、神学校の説教演習で聖霊の働きについて語った神学生がいました。聖霊が私たちの信仰生活に働けば豊かな実がもたらされる。そうすればその人の信仰生活は喜びに満たされたすばらしいものになると言ったお話をしたのです。そしてその聖霊に満たされる信仰生活を送るためにはどうしたらよいのかを語ったのです。私はその説教の内容を今ではほとんど覚えてはいないのですが、その神学生の説教を聞いた一人の教師がその時に「聖霊は教会を通して働く霊だ」と語っていたことを今でも思い出すのです。おそらく、その神学生の説教の目的が個人の信仰生活をどのように充実したものとするかと言ったところにあったからだと思います。その点では彼の説教は自分の信仰生活を豊かにするために聖霊に働いていただくと言う点に重点が置かれていたのです。

 ペンテコステの出来事で重要なのは聖霊が弟子たちの集まる場所に遣わされたと言う点です。山に籠って、一人で霊的な修行を積むような立派な信仰者(?)のもとに聖霊が遣わされたのではないのです。また聖霊が降った弟子たちはイエス・キリストの福音を大胆に語る者と変えられました。そしてその彼らを通して教会に新たにたくさんの仲間たちが加わって行ったのです。このことから分かることは、聖霊はイエスを信じる者が集まる教会の上に遣わされ、彼らを通してさらに多くの人々が教会の群れに加わるようにするために働かれる霊であると言うことです。ですから、先ほど語った「御霊の結ぶ実」も聖霊が私たちの信仰生活に実現してくださるものであると言えるのですが、聖霊の本当の働きは私たちを教会に集め、私たちが自分の信仰生活を通してイエス・キリストを証しできるようにすることにあると言えるのです。


②聖霊の働きの目的

 かつての弟子たちは自分の願望が実現するためにイエス・キリストに従って来たということができます。しかし、ペンテコステの日に彼らが聖霊を受けることで彼らは自分たちのためにではなく、自分たちを愛してくださり、いつも共にいてくださる主イエス・キリストのために生きる者たちへと変えられたのです。そしてそのような弟子たちの生き方の変化に伴う実として聖霊の結ぶ実が彼らの信仰生活の上に実現したと言えるのです。聖霊はこのような意味で教会の上に働かれる霊であると言えます。教会が生けるイエス・キリストの体として福音を証することができるように私たちを導いてくださるのがこの聖霊の働きであると言えるのです。

 病に苦しむ人は自分の病が癒やされることを心から願うはずです。しかし、誤解してはならいことは病の癒し自身はその人の人生の目的ではありません。ですから、その本当の人生の目的を知る者は今の自分の境遇に様々な障害があったとしてもその中でまず、何ができるかを考え行動するはずです。しかし、病の癒しが人生の目的のように勘違いしてしまうと、結局その人はいつまでも何もできなくなり、大切な命の時間さえ無駄遣いしてしまうことになるのです。

 聖霊はイエス・キリストのために自分の人生を使いたいと願っている人のもとに遣わされます。そしてその人をキリストの体である教会の中で豊かに用いてくださるのです。私たちの中には「自分にはそのような使命に答えるだけの賜物を持っていない」と考える人がいるかも知れません。しかし、その心配はいりません。聖霊はどのような人をも自由に用いることのできる力を豊かに持っておられる方だからです。だからペンテコステの出来事はまさに、聖霊が私たちの集まる教会を通して豊かに働いてくださることを教えていると言えるのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.イエスが父ももとから弟子たちに遣わそうとする方について、イエスはどのよう言葉でその方を説明していますか(15章26節)。また、弟子たちのもとにその方が遣わされることにより弟子たちはどのなると言われていますか(同27節)。

2.その真理の霊は弟子たちが何を悟るようにされますか。また、その霊はどのような方法で弟子たちに語り、さらにこれから起こることを告げるのでしょうか(16章13節)。

3.使徒言行録の2章を読んで見ましょう。ここに記されたペンテコステの出来事から、この日に弟子たちの上に降臨された聖霊がどのような方であることが分かりますか。

2024.5.19「真理の霊」