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  4. 5月26日「いつも共にいてくださるイエス」

2024.5.26「いつも共にいてくださるイエス」 YouTube

マタイによる福音書28章16~20節(新P.60)

16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。

17 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。

18 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。

19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、

20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」


1.三位一体の主日

 私が使っている教会のカレンダーでは聖霊降臨日の次の日曜日は「三位一体」という名前が付けられた記念日となっています。この礼拝でも何度も語って来たように、「三位一体」は聖書を通して示された真の神を表すキリスト教用語です。ただ、この「三位一体」と言う言葉自身は聖書が示す神をキリスト教の神学者たちが一言で言い表すために作った神学用語です。真の神を人間の言葉で言い表すことは不可能に近いものかも知れません。ですから私たちはこの「三位一体」と言う神学用語自身に拘るのではなく、むしろ聖書が示す神をあがめ、その真の神を礼拝することに努めることが大切であると言えるのです。

 聖書は父なる神によってこの世界が創造され、またその父なる神が今も御手によって世界は治められていると教えています。またこの父なる神によって私たちの世界に遣わされた主イエス・キリストは、真の神の子として父なる神の御心にあらわし、この地上で救いの御業を成就してくださいました。そして聖霊なる神はその神の子イエスが成就された救いを私たち一人一人の心に信仰を与え、育むことで私たちのものとしてくださる方なのです。このように父と子と聖霊という三位一体の神は、それぞれ固有の働きを行われることで、私たちを救いへと導いてくださる方なのです。ギリシャ神話などに登場する多神教の神々は互いに争い合うという特徴を持っています。しかし、聖書が示す三位一体の神は父と子と聖霊と表現されながらも、お一人の神として見事に調和して、その御業を実現してくださる方であることが語られているのです。

 そしてこの三位一体の日の礼拝で読まれる聖書箇所では主イエスによって「父と子と聖霊の名」と言う言葉が語られています。私たちはこの言葉をもとにして、父と子と聖霊がどのような御業を私たちの上に実現してくださるのかをこの礼拝で学びたいのです。


2.ガリラヤでイエスと出会う弟子たち

①ガリラヤに行きなさい

 私たちが今日読んでいるマタイによる福音書ではルカやヨハネが記したようなエルサレムの一室に集まる弟子たちのところに復活されたイエスが姿を現わされたというお話は記されていません(ルカ24章36~49節、ヨハネ20章19~23節)。その代わりにマタイはイエスの墓にやって来た婦人たちに天使が現れて、弟子たちに伝えるようにと命じた「(イエスは)あなたがたより先にガリラヤにいかれる。そこでお目にかかる」(7節)と言う言葉を記しています。またこの言葉に念を押すかのように復活されたイエス自らが婦人たちの前に現れ「わたしの兄弟たちにガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」(10節)と言う弟子たちへの伝言が語られています。

 ガリラヤは最初にイエスが伝道活動を開始した場所です。またイエスと弟子たちとが初めて出会った記念する場所でもあるとも言えます。ですからマタイがこの「ガリラヤ」を強調して語るのは、弟子たちが再び最初の場所に戻ることで、復活されたイエスとの関係を新たにされると言うことを表現しているのかも知れません。つまり、このガリラヤからイエスとその弟子たちの新しい歩みが始まったとこの福音書は私たちに教えているのです。


②奇跡で人を信じる者に変えることはできない

 ところこのような輝かしいイエスと弟子たちとの再出発の出来事をマタイは記しながらその同じ箇所で「しかし、疑う者もいた」(17節)と言う何やら不穏な言葉を記しています。復活されたイエスに出会った弟子たちは喜びに満たされ、また励ましを受けて新たな再出発を遂げたと書くのではなく、この素晴らしい出来事の中でも「疑う者もいた」と言う言葉を残したのです。いったいマタイはどのような意味でこのような言葉をわざわざここに記したのでしょうか。

 この「疑う者」の解釈の仕方はいろいろとあるようです。まず、この「疑う者」たちはイエスの十一人の弟子とは別の人々を言っていると考える人がいます。またそれとは違い十一人の弟子の中でもまだ「疑う者」がいたと考える人もいるのです。しかし、その「疑う人」が誰であったとしても、彼らは復活されたイエスに実際に出会い、その驚くべき出来事を体験した人であるということには違いがありません。つまり、この言葉の背後には人間はたとえどのような驚くべき出来事、つまり奇跡を体験したとしても、それだけでは神を完全に信じることはできないと言うことを語っていると言えます。聖書はイエスがなされた奇跡を数々記し、またその奇跡を多くの人が目撃したことを証言しています。しかし、そのような人が皆、主イエスを信じることができたかと言えばそうではありません。つまり、人の疑いを解決し、信じる者と変えることができるのは奇跡のような出来事ではないと言うことが分かるのです。


3.心が二つに分かれる

①ペトロの失敗

 ここで「疑う」と言う言葉に訳されている聖書のギリシャ語の言葉は元々「心が二つに分かれる」と言う意味を持っています。つまり、「信じたい」と言う気持ちの一方で、「信じられない」と言う気持ちが同時に同居するような心の状態をこの言葉は表しているのです。マタイはこの「疑う」と言う言葉を福音書の中でここと、もう一つ別の箇所で使っています。それは14章22から33節までに記された物語の中でイエスが語った言葉に登場します。この物語ではガリラヤ湖の湖上で舟に乗る弟子たちのところに湖の上を歩いてイエスが近づいて来るというお話が記されています。最初、弟子たちはその方がイエスであるとは分からずに「幽霊だ」と言って驚き恐れます。しかし、やがてその方がイエスであると分かると、弟子の一人であるペトロが「自分も水の上を歩くようにしてほしい」と願い、湖に足を入れます。するとペトロもイエスと同じように湖の上を歩くことができたのです。ところがペトロが湖の上を吹く強い風に気づき恐れを感じた途端、彼の体は水の中へと沈み始めます。そして慌てたペトロが「主よ、助けてください」と叫ぶとイエスが手を伸ばして彼を捕まえ助けてくださったのです。そのときイエスはペトロに対して「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」(31節)と語られています。ここで使われる「なぜ疑ったのか」と言葉が今日の箇所と全く同じギリシャ語の言葉が使われているのです。

 ペトロはイエスの言葉に従うことで見事に自分も水の上を歩くことができて満足できたのかも知れません。しかし、それは一瞬のことでしかありませんでした、ペトロはすぐ目の前の現実に気づき、その現実を見て恐れた結果、水の中に沈んで行ってしまうのです。しかし、これはペトロだけに限られた問題ではないと思われます。私たちも主イエスを信じる信仰生活を送りながらも、目の前の現実に心を奪われて恐れ、どうにもならなくなってしまうことがどんなに多いことでしょうか。

 ところが、この物語はペトロの失敗で終わってしまうのではありません。やがて助けられたペトロとイエスが一緒になって舟の上に乗り込んだ後、弟子たちは「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを礼拝することになったからです。つまり、このペトロの疑いがから生じた物語は結果的に弟子たちのイエスに対する信仰を強めるものとなったと言うのです。つまり、マタイはこの「疑い」と言う言葉を、読者たちを不安にさせるためにここに書き記したのではなく、イエスがこの弟子たちの抱える「疑い」の問題さえも用いて彼らの信仰を強めてくださる方であることを教えるために書き残したと考えることができるのです。


②イエスに助けを求める

 今日の聖書箇所では「疑い」抱く弟子たちのところに主イエスが近寄って来て御言葉を語られています。これは先ほどのペトロの物語でも同じです。水に沈みだしたペトロは自分で「疑い」の問題を解決して、勝利したのではありません。むしろ水の中でもがき苦しむペトロは何もできませんでした。自分の問題を解決する手立てを何一つ持っていないペトロはただ一つ、主イエスに助けを求めることしかできなかったのです。そしてこれこそが私たちを疑いから信仰へ導く唯一の道であるとマタイは語るのです。なぜなら、イエスはその叫びに答えてすぐにペトロの下に行って、手を指し出し、彼の捕まえて助けてくださったからです。

 私たちの抱える「疑い」の問題を解決できるのはイエスだけしかおられません。もし、私たちが自分で何とかしようと考えるなら、私たちはガリラヤ湖に沈んで行ったペトロのような結果となってしまいます。しかし、イエスは助けを求める私たちの声をすぐに聞きつけ、私たちに近づき、私たちを救い出してくださる方なのです。そしてむしろ私たちが抱く「疑い」さえもイエスは私たちの信仰を強めるために用いることができる方だと言えるのです。


4.大宣教命令とイエスの約束

①すべての民を弟子としなさい

 今日の物語の中でもイエスに従う弟子たちの中に「疑う者もいた」と記されています。いえ、私たちはどんなにがんばったとしても自分の力ではこの「疑い」を解決することができないのです。だから私たちはまずそのことに気づき、イエスに助けを求める必要があるのです。そうすればイエスはすぐに私たちのところに近づいて私たちを助け出してくださる方だからです。ここでもイエスは弟子たちのところに近寄って次のように語られています。

「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(18~20節)。

 ここにはイエスが私たちに命じられた「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と言う大宣教命令の言葉が語られています。このイエスの言葉から学ぶことができることは二つあると思います。それはこの大宣教命令にはすべての弟子、イエスを救い主と信じて洗礼を受けた私たちすべてが招かれていると言うことです。何か特別な訓練を受けて、優秀な賜物を身に着けた者たちだけがこの宣教命令に従うのではないのです。

 「わたしにはこの命令に従う資格はありません」と考える人がいるかもしれません。そのような人は自分の不完全な信仰、また失敗の多い信仰生活を見てそう考えるのかも知れません。しかし、今日の物語に登場する弟子たちの中にも「疑う者もいた」のです。そしてイエスは「そのような人はこの命令に従う資格を持っていません」とは言われなかったのです。つまり主イエスはすべての信仰者にこの大宣教命令に従うようにと命じておらえるのです。

 さらにここから分かるのは私たちの「疑い」を解決する方法は、イエスの語られたみ言葉であり、その言葉に私たちが従うことによって、私たちの問題は解決され、また私たちの信仰自身が強められると言うことです。

 私が南越谷コイノニア教会で協力牧師として働いていたとき、その教会の牧師であった古川第一郎先生は毎日熱心に聖書を読むことを私たちに勧めてくださいました。そして度々先生は「聖書を熱心に読むのは自分の信仰が強いからではない。むしろ自分の信仰は弱いからこそ聖書を読まないといけない」と言っていました。先生は自らも自分の力では自分の問題を解決することができないということを知っていたからこそ、熱心に聖書を読み、私たちにも勧められたのです。聖霊なる神は聖書のみ言葉を通して私たちの信仰を強めてくださる方です。だからこそ、自らの弱さを知れば知るほど、聖書の言葉に耳を傾け、またその言葉に従う必要があります。なぜならイエスはこの御言葉を通して私たちを強めてくださるからです。


②世の終わりまでともにおられるイエス

 わたしたちにはこのイエスの大宣教命令に答えてすべての人々をイエスの弟子にするという使命が託されています。この大宣教命令の目的はすべての人々がイエスの弟子となることです。しかし、この命令はそれだけではなく、これまで語ったようにこの大宣教命令に従う私たち自身を変えることのできる命令であると言えます。そのままでは不完全な私たちが、その不完全なままの姿でイエスのこの命令に従うなら、私たち自身の信仰が強められ、私たち自身の抱える問題がイエスによって解決されるからです。その上で、イエスはこの大宣教命令に従う私たちに次のような約束を語ってくださっています。

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(20節)

 この約束の言葉が示すことも二つあると考えることができます。その第一は、イエスは確かにここで私たちに大宣教命令に従うことを求めています。ですからすべての民がイエスの弟子となることができるように私たちは働き、また祈らなければなりません。しかし、実はこの大宣教命令を実際に行うのは私たち自身ではなく、私たちを通して働くイエス・キリストの御業であると言うことです。私たちはそのイエスの手足として今、教会に集められているのですが、実際にはこの業もまた教会の頭であるイエス・キリストによって行われものだと言えます。そしてそのためにイエスは私たちの上に聖霊を遣わして、この命令を実際に実現できるようにと導いてくださるのです。

 また、この約束の言葉から分かるもう一つのことは、イエスはここで私たちに「自分と一緒にいることができるように熱心に頑張りなさい」と勧めているのではなく、「いつもあなたがたと共にいる」と語られていることです。私たちの置かれた状況は日々変化しています。そしてそれに伴い私たちの心も日々変わってしまいます。昨日までは神様に感謝して喜びに満たされる信仰生活を送っていたのに突然、その生活から希望の光が失われるような体験をすることがあるかも知れません。私たちの自身はそれだけ頼りない存在であると言えます。しかし、イエスはその私たちといつも一緒にいてくださるとここで約束してくださるのです。たとえ私たちの人生にどのような変化が起きても、主イエスはいつも私たちから離れず、共にいて下さる方なのです。だからこそ、私たちはこれからも安心して、主イエスの弟子として生きることができるのです。私たちはこの三位一体の神を記念する日に、このような主イエスを私たちに遣わしてくださった父なる神に感謝をささげ、またその主イエスと私たちをしっかりと結びつけて下さる聖霊の働きに助けられて、主イエスを信頼して生きる弟子として新たな信仰生活を歩んで行きたいと思うのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.十一人の弟子はどこに行きましたか。彼らがそこに行った理由はなんですか(16節)。

2.マタイはそこでイエスに会い、ひれ伏した人の中にどんな人がいたことを教えていますか(17節)。

3.イエスはこの弟子たちに近寄って、彼らにどのような言葉を語らましたか(18~20節)。

4.イエスは天と地の権能を誰から授かったのでしょうか。私たちはそのイエスからどんなことを求められていますか(18~20節)。

5.「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言うイエスの約束は、「すべての民を私の弟子としなさい」と言う命令に従おうとする私たちにどのような励ましを与えてくれますか。

2024.5.26「いつも共にいてくださるイエス」