2024.5.5「わたしがあなたがたを愛したように」 YouTube
ヨハネによる福音書15章9~17節(新P.198)
9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。
10 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
11 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。
12 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。
13 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
14 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
15 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。
16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。
17 互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」
1.私たちを通して神の栄光があらわされる
先週は皆さんと共にイエスが語ってくださった「まことのぶどうの木」のたとえから学びました。このたとえではイエスこそがまことのぶどうの木であり、私たちはその木の枝であるということが語られています。このお話で大切なのはぶどうの木と枝はいつも一体であること、つまりぶどうの木とその枝は一つであって決して切り離すことができないことです。またぶどうの枝がもしその木から切り離されてしまえば実を結ぶことができないと言うこともここでは強調されていました。
このお話はイエスがユダヤ人たちに逮捕され、十字架にかけられる直前に開かれた夕食会の席で、よく「最後の晩餐」と呼ばれている場面で語られたものです。ですからこのお話はイエスが自分の弟子たちに語られた言葉であり、もし彼らの目からイエスの姿が見れなくなるような事態が起こっても、決して心配する必要がないことを彼らに教えたものだと言えるのです。
先週もお話しましたが、弟子たちはイエスが天に昇られた後に、つづけてこの地上でイエスの御業を行うために選ばれた者たちでした。ですからこのまことのぶどうの木のお話はその弟子たちを通してイエスがどのように働いてくださるのかを教えた話でもあると言えます。そう考えると、ここで語られているぶどう木がその枝によって結ぶ実とは、イエスとそのイエスを地上に送られた父なる神が求めていることであると言うことができます。ですから、イエスは先週の箇所の終わりの部分で「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」(7節)と語っています。
これは単に私たちの願望を成就させる秘訣がイエスを信じることだと言うことを教えているのではありません。むしろ、私たちがしっかりイエスにつながることによって、私たちがイエスとそのイエスを地上に送ってくださった父なる神のために働くことができて、豊かな実を結ぶことができることを教えているのです。つまり、神の御業がこの地上に実現されるために私たち一人一人が豊かに用いられることをイエスはこのお話で教えてくださったのです。ですからイエスは先週の箇所の最後で「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる」(8節)と語り、私たちが主イエスにつながることで、最終的には私たち自身も神の栄光を豊かにあらわす者となることができることを教えているのです。
2.「互いに愛し合いなさい」と言う愛の掟
①お金では実現できない掟
先日、雑談をしているときに「もし宝くじに当たったらどうするか…?」と言う話題が出ました。現代人が「望むものが何でもかなえられる」と考えるときに思い浮かぶことは「宝くじにあたること」なのかもしれません。「お金があれば、自分が願っていることは何できる」と私たちは考えます。もちろん資本主義社会で生きる私たちにとっては何をするにもお金が必要となるのは事実かもしれません。しかし、今日の箇所でイエスが取り上げていることはある意味、お金では果たせないことだと言えるのです。それは「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(12節)と言う愛の掟です。「互いに愛し合う」と言うことがもし、お金で実現できるとしたら、お金持ちは皆、イエスの弟子になることができるでしょう。しかし、そうではありません。イエスはこの「互いに愛し合う」と言う掟に私たちが従うためには、まことのぶどうの木であるイエスに私たちがしっかりとつながっていなければならないと教えているからです。ですから、イエスは今日の箇所の最初の部分を次のような言葉ではじめています。
「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」(9節)
ここではこれまでイエスが何度も語っていた「わたしにつながている」と言う言葉が「わたしの愛にとどまる」と言う言葉で置き換えられて語られているのです。私たちがイエスの愛にとどまるなら、わたしたちは「互いに愛し合う」と言う掟に生きることができると教えているのです。
②アガペーの愛
さてここで、聖書が語る「愛」について皆さんと簡単なおさらいをしておきたいと思います。なぜなら、聖書が語る「愛」と言う言葉は、私たちが日常で使ったり、また聞いている「愛」と言う言葉の意味とは大きく違うところがあるからです。実は聖書が記されているギリシャ語では日本語で「愛」と訳される言葉が、それぞれ違う意味を持った三つの「愛」と言う言葉で表現されているのです。「エロス、アガペー、フィリア」の三つの言葉がそれぞれ日本語では同じ「愛」と言う言葉で翻訳されてしまうのですが。その意味は大きく違うのです。
特に日常生活で私たちが「愛」と言っている言葉に該当するのはギリシャ語では「エロス」と言う言葉で表現されます。これはどちらかというと「自分のための愛」と言うことができるかも知れません。エロスの愛ではその対象が人であってもそれ以外のものであっても、自分自身が心地よくなり、幸福になるためになされるのがその愛の特徴です。つまり、私たちは自分に害をもたらしたり、不利益になるものを愛することは決してしないのです。
ところが新約聖書が「愛」と言う言葉を使う場合の大半、そして今日の聖書箇所でも使われているギリシャ語の「アガペー」はエロスの「愛」とは違います。この言葉が表す「愛」の特徴は今日の箇所のイエスの言葉の中にもよく説明されています。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」。自分の命を捨ててしまったら、それは自分の役には立ちません。しかし、主イエスはここで自分には役に立たない、いえむしろ友のために自分の命を捨てる「愛」、「アガペー」の愛に生きることを弟子たちに掟として生きるように命じておられるのです。
3.掟や命令で人は愛することができるのか
①規則に従うのは「愛」ではない
ところでイエスはここで「互いに愛し合いなさい」と言う掟を私たちに守るようにと命じています。しかし、そもそも私たちにとって「互いに愛し合う」ことが掟であり、命令であるとしたら、それは本当に「愛」と呼べるものなのでしょうか。
最近、私はよくYouTubeで韓国から日本に観光旅行でやって来る人たちの様子を撮影した動画を見ることがあります。興味深いのは彼らが日本にやって来て、「日本には思いやりの精神が生きている」というようなことを語るところです。まず、バスに乗ると乗客が席に座るまで運転手はバスを発車させません。そして韓国では乗客がバスから降りる際はバスが停車する前に降り口に行って待っていないといけないのだそうですが、日本ではバスが停車してからお客は立ち上がって出口に向かうことが勧められています。町を歩くと、横断歩道の前で赤信号でもないのに車が止まり、歩行者が横断歩道を渡り切るのを待ってくれます。韓国からの観光客はこのように自分の国では考えられないような光景を目撃しては、その感想を素直に表すのです。最もこの動画自身が日本人の視聴者のために作られているので、その日本人に気に入られるようにこのような話題が特に取り上げられているのかも知れません。
しかし、考えてみるとバスでお客が席に着くまで動かないこと、また停車してからお客が席を立つようにさせるのはその運転手の思いやりではありません。それはバスの運行規則で決まっているからです。だからそれを守らないと運転手が会社から注意を受けることになるのです。また歩行者が立っていると横断歩道の前で車が止まるのも、交通規則が改正されて違反すると運転者が厳しいペナルティーを負わなければならなくなったからです。もちろん、これらの規則が作られたきっかえはお互いの安全を大切にしようとする思いやりの心から生まれたのかもしれません。しかし実際これを守っている人は命令だから、それに従わなければ罰を受けるので従っているだけだと言えるのです。もし、「互いに愛し合いなさい」と言う掟が命令にであって、それに従わなければ私たち厳しい懲らしめを受けることになるとしたら、これはもはや「愛」の行為とはいえないのではないでしょうか。
②この掟の根拠はどこから来るのか
実はイエスの語る「互いに愛し合う」と言う掟は、これに従わなければ罰則を受けるというようなものではありません。そのような意味ではこれは私たちが普通考えている掟のようなもの、規則に基づく命令のようなものではないと言えます。それでは、この掟を私たちはどうして守らなければならないのでしょうか。そもそもこの掟の根拠はどこにあるのでしょうか。イエスは先ほどのところで「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい」(9節)と教えています。つまり、この掟の根拠はイエスの私たちに対する愛にあると言えるのです。イエスが私たちを愛してくださったから、私たちもイエスのように「互いに愛し合いなさい」と言う掟に従うのです。イエスはこの言葉に続いて次ように語っています。
「わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる」(10節)。
イエスの私たちに対する愛は「それを守らないから罰を受けるので愛した」と言うようなものではありません。なぜなら、イエスは私たちを愛する父なる神の御心を私たちに示すためにこの地上に来られ、私たちを愛して、その命までささげてくださったからです。ですから私たちが「互いに愛し合う」と言う掟に従うのは、このイエスの愛を私たちが体験することができたからです。そのような意味でイエスの愛を知らない者は、「互いに愛し合いなさい」と命じられるイエスの掟の意味を理解することはできませんし、ましてやその掟に従うこともできないのです。
4.愛する力をはどこから来るのか
①愛の掟の根拠はイエスの愛
さて、このような意味で私たちが主イエスの命じる「互いに愛し合いなさい」と言う掟に従うことができるのは、私たちが私たちを愛してその命まで十字架でささげてくださったイエスの愛を知っているからなのです。そしてそのイエスの愛によって今も私たちは生かされているからこそ、私たちもイエスのために生きたいと願い、そのイエスに感謝をささげたいと願うのです。だからたとえ私たちが「互いに愛し合いなさい」と言う掟に従っても、それは自分自身のためではなく、イエスのためであり、イエスを私たちのために地上に遣わしてくださった父なる神に感謝をささげるためだと言うことができるのです。
ただここで大切なのはこの掟の根拠は今申しましたように、父なる神とイエスにあると正しく理解できたとしても、私たちが実際に兄弟姉妹を愛する力はどこから来るのかと言うことを正しく理解しているかと言う問題です。私たちはこれを勘違いしてしまうと、「互いに愛し合いなさい」と言う掟に従えないばかりでなく、私たちに対するイエスの愛を見失ってしまうことにもなりかねないのです。
なぜなら私たちは自分の信仰生活の中で「互いに愛し合いなさい」と言う掟に従うことに困難を覚えたり、また、この掟に躓いて、信仰の喜びを失い、その確信さえ奪われるようなことをたびたび体験するからです。それはおそらく、私たちは私たち自身では「エロス」の愛、自分のための愛は知っていても、「アガペー」の愛に生きる力を持っていないからです。だからこそイエスはまことのぶどうの木の結論で、「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」(7節)と約束してくださっているのです。つまり、イエスだけが私たちの願いに答えて、私たちに愛の力を与えることが出来る方であり、私たちはそのイエスから愛の力を受け続ける必要があるのです。
②愛の力をイエスからいただく
先日、私は「魂への配慮の歴史」と言う本を読んでいて興味深いマルチン・ルターの言葉をそこで見つけました。ルターは「われわれはキリストの教会を豚小屋にしたくない。豚が飼料槽に突進するように、誰もが、信仰も問われないままに、聖餐に進むことがあってはならないのである」と当時、ある意味で無秩序に行われつつあった教会での聖餐式の様子を批判する言葉を語っているのです。そして「神の恵みが求めるのは、純粋で、飢えて、ひたすらな思いに生き、渇き、求めつつあるこころである」と語り、聖餐式に参加する者が誰でも悔い改めて、そのような思いを抱いて聖餐にあずかることを求めているのです。つまり、魂の飢え渇きを覚えて、自分の力では神への信仰をひと時たりとも保ことができなと思える者こそが、この聖餐式に参加することができるし、またその聖餐の恵みをイエスから豊かに受けることができることをルターは教えています。自分自身の力に満足して飽き足りている者にはイエスの救いは必要とされず、聖餐式も意味がないのです。
私たちが「互い愛に愛し合いなさい」という掟に従おうとするとき、私たち自身にはその掟を守る力がないことを痛感します。しかし、こんな時に私たちが誤解してはならないことはその経験を通して「自分はイエスの弟子ではない」と早合点したり、「自分は主イエスから見捨てられている」と考えてしまうことです。このように考えることは神の御心ではありません。むしろ私たちがこのようなことを考えたとしたら、「それは私たちと神との間を破壊しようとする悪魔の仕業である」ときっと宗教改革者マルチン・ルターなら言ったかも知れません。そもそも、私たちが私たちのした愛の業でイエスの弟子になったり、できなかったら弟子を止めなければならなかったとしたらそれはイエスが厳しく聖書の中で非難している律法主義の信仰に私たちが戻ってしまうことになるでしょう。
ですから大切なことは私たちが「互いに愛し合いなさい」と言う愛の掟に生きることができるように、その力を主イエスに求めることです。主イエスはそのような私たちの願いを無視される方では決してありません。むしろ私たちの傷ついた心を癒やし、励ました、そして力を与えてくださるのが主イエスと言うお方です。私たちがこれからあずかろうとする聖餐式はこの主イエスが私たちのために備えて下さった食卓です。だから私たちはこの聖餐式から主イエスの豊かな愛を受け、その愛の力をいただき、再び愛の掟に従う信仰生活へと立ち戻ることができるようにされるのです。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.どうしえ私たちはイエスの愛にとどまる必要があるのでしょうか。また、わたしたちがイエスの愛にとどまるためには何を守る必要があるとイエスは語っていますか(9~10節)。
2.イエスが語った「大きな愛」の特徴は何ですか。このような愛を私たちは何によって知り、また体験することができるのでしょうか(11~13節)。
3.イエスは私たちをどうして「友」と呼んでくださるのですか。その友にはイエスからどのような特権が与えられていると言えますか(14~15節)。
4.わたしたちが「互いに愛し合いなさい」という命令に従って、実を結ぶことができるように、イエスは私たちに何をしてくださったのでしょうか(16~17節)