2024.6.16「神の国の種」 YouTube
マルコによる福音書4章26~34節(新P.68)
26 また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、
27 夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。
28 土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。
29 実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」
30 更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。
31 それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、
32 蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」
33 イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。34 たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。
1.神の国の祝福とは
①理解が困難なたとえ話
今日は皆さんと共にイエスの語ってくださったたとえ話から学びたいと思います。「たとえで語る」ということを私たちもよくすることかも知れません。通常、たとえで語るということは自分が伝えたい内容をより相手に分かりやすく伝えるために、聞き手にとって身近な題材を使って話す手法が「たとえ話」であると言えます。イエスはこのたとえ話を用いて様々なところで人々に語られています。ところが、今日の最後の箇所の言葉を読んで見るとイエスの語られたたとえ話は、「いったいそれは何のことを語っているのか…?」それを別の機会に説明する必要であったことが分かります。そしてイエスはたとえ話の説明を御自身の弟子たちだけに、ひそかに語られたと言うのです(34節)。
たとえ話がよく分からなくなってしまう…、あえてそのたとえ話に解説が必要となる理由はいくつか考えられると思います。まず一番の理由はイエスが何のためにこのたとえ話を語られたのか、その目的が分からなくなると言う点です。実はイエスの語られたたとえ話には当初、その話をイエスがどうしても語らなければならなかった理由があったと考えられています。つまり、それぞれのたとえ話にはその話をしなければならない特定の相手や問題が存在したのです。福音書の記者たちはたとえ話が語られた当初の事情の説明を省いて、イエスが語られたたとえ話だけを福音書に載せたと現代の聖書学者たちは主張するのです。ですからたとえ話を理解するためにはその話が語られた当初の事情を想定することが大切になってくると言うのです。
また、たとえ話が分からなくなるもう一つの理由は、当初、その話を聞いている人にとってたとえで語られている内容は非常に身近で分かりやすいものであったのに、後になって福音書を読む読者たちにはそこで語られている内容がむしろ縁が薄いものになってしまったからだと言う理由が考えられるのです。例えば、今日のお話はいずれも種を蒔く、あるいはそれを育てるという農業にまつわるお話が題材となっています。しかし、都市で生活する現代の私たちは農業などと全く関係ない環境で生きて来た者たちがほとんどです。つまり、たとえで語られる農業の事情がよく理解できないのです。ですから私たちはこのような事情を考慮しながら、イエスの語られたたとえ話を学んでいく必要があるのです。
②神の国の福音
まず今日の聖書箇所で語られているたとえ話はいずれも「神の国」について語っていることが分かります(26節、30節)。それではそもそも聖書が言う「神の国」とはどのような意味を持っているのでしょうか。この言葉の本来の意味は「神の支配」と言う意味で、神の国はこの神の支配が行われる場所と拡大して考えてもよいと思います。
私たちは様々な問題を持って自分の人生を送っています。何の問題も抱えていないと言う人はもしかしたら私たちの中に一人もいないと言えるかも知れません。そこで私たちは「あの問題がなくなったら自分は幸せになれるのに…」、あるいは「あの人がいなくなれば、自分の人生は楽になる…」と考えることがあるはずです。しかし、不思議なことに私たちの願いが偶然にも叶って、その問題が解決しても、また問題の人物がいなくなったとしても、その人の人生にはまた新たな問題が起こり、また新たに都合の悪い別の人物が現れて、私たちを苦しめるようになります。そして結局、私たちはいつまでも幸せになれないのです。
なぜ、私たちはいつでまでも問題を抱えて、その問題から解放されず、決して幸せになることができないのでしょうか。聖書はその根本的な問題が神と私たちとの関係にあることを教えています。そして私たちが本当の幸せを手に入れるためには、私たちが自分の人生を自分で支配するのではなく、神のご支配に委ねていくことが必要だと教えるのです。
それは私たちが「自分の人生」と言う自動車の運転席に座って、必死になってハンドルを握って運転しているのと同じです。聖書はもし私たちが本当に幸せになりたいなら、その自動車の運転席を神にお譲りし、そのハンドルをこの神に握ってもらいなさいと勧めるのです。このように私たちが自分の人生を進んで神にお任せして生きることが、この神の国に生きることになるからです。確かに「そのような人生には問題が全く起こらない」と言う訳ではありません。この人生にも問題は確かに起こります。しかし、私たちの人生のハンドルを握っておられる神はその問題をすべて私たちの祝福に役立つようにと変えてくださるのです。
それでは私たちがこのような人生を送るためにはいったい何が大切なのでしょうか。そこでまず大切になることは「福音の種」、「神の国の種」である聖書の御言葉を私たちが信じて、受け入れることにあると聖書は教えます。そうすれば神の国の種が私たちの人生を変えてくださるからです。
2.ひとりでに実を結ばせる種
今日のイエスのたとえ話が強調するのは私たちがこの「福音の種」、「神の国の種」を自分の人生に受け入れて、その種に信頼して生きると言うことです。この箇所では短いたとえ話が二つ語られています。前半部分のたとえ話で大切なのは「ひとりでに実を結ばせる」(28節)と言う言葉です。ここには英語の「オートマティクス」と言う言葉の語源となったギリシャ語の言葉が使われています。
確かに農夫は畑を耕し、蒔いた種に水をまき、また雑草が生えればそれを引き抜くという労働に従事します。しかしこの農夫の労働がたくさんの収穫物を生じさせるのではありません。それは農夫がどんなに畑を耕し、そこに水をまき、また生えて来た雑草を抜き取ったとしても、肝心の種が蒔かれなければ、その畑からは何の収穫も生じないことでも分かるはずです。つまり、蒔かれた種が立派に成長し、収穫物をもたらすのはすべて、その種自身がもっている力、種の持つ豊かな生命力にあるのです。私たちの心に蒔かれた神の国の種はそのような力を持っているのです。だから私たちはその種の力に信頼して信仰生活を送ることが必要になるのです。
明治大正の時代に日本で活躍した内村鑑三という有名なクリスチャンを御存じの方も多いと思います。彼は札幌農学校で学んだ青年時代にキリストを受け入れ、熱心な信仰者となりました。しかし、まだ若かった頃の内村は自分の思い描いた理想の信仰生活とは異なり様々な人生の失敗を繰り返して苦しみました。その代表的事件が同じ信仰を抱く女性と結婚したのに、結局は性格の不一致のために離婚することになったことです。この後、内村はその失敗を挽回すべく一人アメリカ大陸に渡り、新たな人生を歩もうと決心します。
しかし、内村はそこでも自分の思い通りの人生を送ることができず苦しみます。あげくは自分の信仰の確信さえ失いかねないような窮地に陥ります。その当時、内村の面倒を見ていた神学校の校長は彼を心配して次のように語ったと言います。「君は植木鉢に植物を植えて、その植物が育ったかどうかを確かめるために、その都度、その植物を鉢植えからひっこ抜いているようなものだ。それではせっかく植えた植物も育たないし、むしろ枯らしてしまうことになる。君に大切なのはその植物が育つことを何もせずにじっと待つことだ…」。そうアドバイスしたと言うのです。
神の国の種は私たちの期待した時に、期待した実りを実らせるものではありません。しかし、この種は必ず成長し、豊かな実を結ぶ力を神からいただいているのです。だからこそ、私たちはこの種が成長し、立派に実を結ぶことを信じ、その時を農夫のように忍耐強く待つ必要があると言えるのです。もちろん、「待つ」と言うことは何もしないと言うことではありません。私たちは神の言葉に従って、収穫の時を待つのです。しかし「早く実を結ばないから」と言って私たちがそこに自分の愚かな考えや行為を付け加える必要はないのです。なぜならこの神の国の種は私たちの余計な力を借りることなく、実を「ひとりでに結ばせる」力を持っているからです。
3.小さな自分では何もできないと言う誤解
①イエスの周りに集められた人
イエスが活動していたパレスチナ地方は当時、地中海一帯を支配していた巨大なローマ帝国の植民地となっていました。確かに自らを「ユダヤ人の王」と称したヘロデと言う人物もいましたが、彼もまたローマに取り入ってその地位を得た者であり、ローマ皇帝の許しなしに何もできない傀儡政権でしかありませんでした。そしてこのような他国の支配を打ち破って、自らの国を再建したいと考える人々もこの時代、多く現れました。福音書にその名が登場する「熱心党」はそのような考えを持った人々の集まりです。彼らは自らの力でローマ軍をパレスチナの地から追い出し、ユダヤ人の国、つまり「神の国」を再建しようと考えたのです。彼らはこの当時、たくさんの民衆から人気を集めていたイエスのような人物を自分たちのリーダーにしたいとも考えていました。しかし、実際のイエスはローマに対する抵抗運動を呼びかけるでもなく、また熱心党の考えに同調することもしませんでした。返ってイエスは彼らとは違った「神の国」についての理解を示し、それを多くの人々に伝えたのです。
おそらく、この熱心党の人たちが驚き、呆れたのは、当時、イエスの周りに集まった人々です。なぜなら、熱心党は武力を持ってローマ帝国を打ち破ることを考えていましたから、そのために誰よりも屈強で勇敢な人物を集めたいと考えていたのです。しかし、実際にイエスの周りに集まり、イエスに従った人々はそのような人々ではありませんでした。イエスの周りには病人や体が不自由な人がたくさん集まっていました。女性や子どもたちもその群れに加わっていました。熱心党の人々から見れば、彼らは返って戦いのために足手まといとなるような人々だったと言えるのです。
さらにイエスの身近につき従う弟子たちはいままで武器など持ったことがない、ガリラヤ湖に網を入れて魚を獲ることしかしか知らない人々でした。その中にはかつてローマ帝国に手を貸して、ユダヤ人同胞から重い税金を取り立てていた徴税人たちも含まれていたのです。まさに彼らはこの世の力とは無縁な、小さな人々、この世からはその存在さえ忘れ去られてしまうような人々だったのです。だからこそイエスはこの人々を「からし種」と語り、この世のどんな人々よりも小さな存在だと言うことを強調したのです。しかしイエスは同時に、神の国はこの小さなからし種を通して成長することを語りました。小さなからし種がやがて何よりも大きな存在となり、豊かな実を結ぶ者たちとなることを教えられたのです。
②からし種によって実現する神の国
この言葉の意味は何よりもイエスご自身がご自身の人生を通して証明してくださったと言うことができます。天地万物を創造され、今もそれをすべ治めておられる全知全能の神の御子が、私たちと同じ人となられてこの地上に遣わされたからです。イエス自らが小さな「からし種」となってくださたのです。この世の人間は誰よりも自分を大きく見せ、またそれによって人々の上に立ち、彼らを支配しようと考えます。しかし、この地上に遣わされた神の御子イエスは違いました。彼はこの地上で何よりも小さな存在として生きようとされたのです。そしてイエスは仕えられる者ではなく、私たちすべての人間に仕える者としてその生涯を送られたのです。その生き方の行きつくところが十字架の死でした。しかし、聖書はこの小さな種が死ぬことで、豊かな実がもたらされたことを教えています。
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ12章24節)。
そして私たち一人一人はこの小さな種であるイエスが結んでくださった実だと考えることができるのです。
この小さな一粒の種であるイエスによって始まった神の国は、その後も、同じように小さな種たちよって受け継がれて行きました。なぜなら、キリスト教会はこの地上では取るに足りない、小さな群れでしかなかった弟子たちから世界へと広がって行ったからです。
私たち一人一人もこの世の価値観から考えれば、何の影響力も持ち合わせていない、取るに足りない人の群れであると言えかも知れません。しかし、イエスはこのたとえ話を通して、私たちを小さな「からし種」だと教えているのです。そして神の国はその取るに足りない私たちのような小さなからし種を通して実現し、やがては全世界を支配するものとなると語っているのです。
何よりも私たちが小さなからし種として神の国の実現のために役立つことができるのは、私たちの内に蒔かれた神の国の種が力を持っているからです。この種は誰の力も借りずに豊かな実を結ぶ力を自らもっているのです。だからこそ、私たちはこの神の国の種に信頼してこれからも信仰生活を送って行きたいのです。そうすれば、私たちのような小さな群れも、そしてそこに集まる小さな私たちのような存在も、神の国の働きに無くてはならない存在として神によって用いられることになるのです。そのために私たちは今日も神の言葉に信頼して、自分の人生を支配してくださる神に、自分の人生の運転席を喜んで譲るような信仰生活を送って行きたいと願うのです。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.イエスは神の国をどのようなたとえを使ってで教えてくださいましたか(26~31節)。
2.土に種を蒔いた人は何を知らないのでしょうか(27節)。このたとえ話でイエスは畑に収穫をもたらす力がどこにあると教えていますか(28~29節)。
3.イエスがここで語られたからし種の特徴は何ですか(31節)。
4.このイエスの語られたたとえ話を通して、私たちが学ぶべきことは何だと思いますか。