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  4. 6月30日「子どもは死んだのではない」

2024.6.30「子どもは死んだのではない」 YouTube

マルコによる福音書5章21~24、35~43節(新P.70)

21 イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。

22 会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、

23 しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」

24 そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。

35 イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」

36 イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。

37 そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。

38 一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、

39 家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」

40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。

41 そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。

42 少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。

43 イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。


1.ヤイロを襲う危機

①二つの物語

 今日も聖書の御言葉から共に学んでいきたいと思います。あるとき幸せな家庭を突然に襲った悲劇、今日の聖書箇所に登場するヤイロはそのような経験をしています。悲劇の原因はヤイロの娘が病にかかることによって起こります。彼女はその病のために命さえ危ぶまれるという状態に陥ります。人を不幸のどん底に追い込む病を、私たちは「病魔」と言って忌み嫌います。実は今日の箇所でこの病魔に侵されたのはヤイロの娘だけではなくもう一人います。そのもう一人の病魔に襲われた人物はそのために長い年月の間苦しめられていました。この人物は聖書では名前さえ明らかにされておらず、ただ「十二年間も出血の止まらない女」と言う呼び方で紹介されています。この女性の物語がヤイロの娘の物語によってサンドイッチのように挟まれるように福音書では紹介されているのです。

 本日の聖書朗読ではこの「十二年間も出血の止まらない女」の部分を省略して読んでいただきました。ヤイロとその娘の出来事に焦点を当てようとしてそうしたのですが、実際にはそう簡単ではありません。なぜなら、この「十二年間も出血の止まらない女」のお話が物語の間に挿入されることで、ヤイロの物語は娘の死という出来事へと進展していくからです。しかもこの福音書では「十二年間も出血の止まらない女」はイエスに「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」(34節)と言われていますし、娘の死に出会ったヤイロには、「恐れることはない。ただ信じなさい」(36節)と語られています。つまりこの二つの物語にはいずれも「信じること」、「信仰」という主題が取り上げられているのです。それではこの福音書を書いたマルコは私たちにこの物語を通して「信仰」について何を教えようとしているのでしょうか。私たちはこの時間、そのことについて少し考えてみたいのです。


②訪れた人生最大の危機

 この物語に登場するヤイロと言う人物は「会堂長」という職務で紹介されています。この会堂はユダヤ人が集まって神を礼拝し、また律法を学ぶような宗教的な施設です。ユダヤ人はエルサレムの神殿で神を礼拝することを重要視していましたが、エルサレムから離れた場所で生活する人々は簡単には神殿に行くことはできません。ですから普段はこの会堂が彼らの宗教活動を支える大切な場所となっていました。そして「会堂長」はこの会堂の運営と管理を任されていた人物です。そのような意味でこの会堂長に選ばれる者は人々から信頼される信仰者でなければなりません。ヤイロはそのような資質を備えた立派な人物であったと考えられています。たぶん普段であれば、このヤイロとイエスとの間には接点は生まれなかったと言ってよいかもしれません。なぜならばヤイロがイエスの元に向かったのは彼の人生に大きな危機が訪れた結果だったからです。

「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」(23節)。

 ヤイロはその問題をこのようにイエスに語り、イエスの助けを必死に求めています。「幼い娘」とヤイロはここで呼んでいますが、後の方でこの少女は「もう十二歳になっていた」(42節)と紹介されています。当時のユダヤ人の女性はこの年齢になると結婚話が持ち上がります。私たちはイエスの母になるマリアをとても成熟した女性と考えることがあるかも知れませんが、マリアも天使から初めてみ告げを聞いたのはおそらく十二歳ごろだったとも考えられています。このように世間的に見ればヤイロの娘は決して「幼い」と呼ばれる年齢ではありませんでした。しかし、ヤイロにとっては今でも「幼い娘」と呼ぶように、誰よりも愛すべき可愛いい娘であったと言えるのです。

 ですからその娘が病のために死の境をさまよっていると言う出来事は彼の人生に起こった最大の危機であったと言えるのです。おそらく、ヤイロは娘の病を癒すためにこれまで手を尽くしてきたのでしょう。しかし、それもすべて効果がでなかったのです。そして彼は最後の手段としてイエスの元にやって来たのです。おそらく、この娘の病がなければ、ヤイロはイエスと出会うことはなかったはずです。つまり、このときヤイロを襲った人生最大の危機こそが、彼をイエスに導く大切な出来事であったとも考えることができるのです。


2.非常事態発生

 このヤイロの申し出をイエスはすぐ聞き入れて、ヤイロの娘の元に向おうとします。ところがここでさらにヤイロを襲う悲劇が起こります。それが「十二年間も出血の止まらない女」の登場であり、その女性とイエスとのやり取りです。長い間、病苦に苦しめられた女性はこのときすべての財産を使い果たしてしまい、どうにもならない状態に追い込まれていました。一口に「病人」と呼んでも彼女の事情は複雑です。なぜなら、彼女の病は当時、宗教的には「汚れた者」として考えられていて、律法によって彼女の人生は大きく制限を受けていたからです。彼女が触れれば「汚れがうつる」と考えられて、彼女は自由に人と交流を持つことができませんでした。また、神もそのままでは彼女を受け入れてはくださらないと人々に考えられていたのです。

 彼女が「群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた」(27節)と言う行動をとった理由はここにありました。本来であれば彼女がイエスに触れるということは律法の違反を犯す行為であり、厳しく咎められることだったからです。しかし、彼女が隠れてイエスに触れた途端、彼女は「すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた」(29節)と言うのです。

 ところがここでイエスはヤイロの娘が死にそうだという緊急事態にも関わらず、そこで足を止めて、「わたしの服に触れたのはだれか」とその人を探し出そうとしたのです。おそらくこれは、この時たくさんのひとが周りにいましたからかなりの時間を要したと思います。この女性も最初は黙ってここを立ち去ろうとしていたのかも知れません。しかし、自分を必死に探し出そうとするイエスの姿を見て、彼女は「震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した」(33節)と言うのです。ここでさらに時間が費やされていきます。しかし、彼女はこのことによってイエスから「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」(34節)と言う赦しの言葉をいただくことができたのです。


3.イエスが求める信仰

 この女性の登場はヤイロにとって決定的な出来事をもたらすことになりました。

「イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」」(35節)。

 ここで病気の娘が死んでしまうというヤイロが最も恐れていた出来事が起こり、その知らせがもたらされます。ヤイロの家からやって来た人々は「もうイエスが来られてもどうにもならない」とここで語っています。まさにヤイロ自身も一時はこのような思い陥り、絶望したかも知れません。しかし、イエスはそのようなヤイロに次のように語り掛けます。

「恐れることはない。ただ信じなさい」(36節)。

 娘の死と言う厳しい現実に直面したヤイロにイエスは「ただ信じなさい」と語り、信じることを要求されたのです。「ただ信じなさい」とイエスはヤイロに語られています。この言葉には「何をどのように信じろ」と言った詳しい説明が加えられていません。しかし、この後のヤイロの行動から分かるのは、ヤイロはイエスと行動を共にしています。ですからイエスがこのときヤイロに求めた信仰とは、イエスを信じること、イエスに自分の抱えているすべての問題を委ねて、共に歩むことであったと言えるのです。

 ここで今日の物語を考えることで分かってくることは「信仰」とは私たち人間の側から見れば一つの選択であると言うことができると思います。「十二年間も出血の止まらない女」は多くの医者に診てもらいましたが、何の効果も得ることができませんでした。そればかりか、彼女を診断した医師たちは「治療費」と称して、彼女の財産を奪い取って行ったのです。このとき、彼女は「万事休す」と考え、すべての望みを捨てて、やがて訪れる自分の死を待つことを選ぶこともできたはずです。また、自分をこのような絶望に追い込んだ医者たちを恨み、また自分を「汚れた者」と軽蔑して、何も助けてくれない自分の周りの人々に怒りをぶつけ、自分に残された最後の力を使って彼らに復讐するということもできたかもしれません。しかし、彼女はそのいずれも選ぶことはしませんでした。彼女が選んだのはイエスの服に触るということだったのです。しかし、彼女の選んだこの選択こそが、彼女の病を癒し、その後の人生を全く変えてしまうことになります。

 これは娘を病のために失ったヤイロの場合も同じです。恥も外聞も捨てて必死にイエスにすがり、「娘を癒していただこう」と考えたヤイロでした。しかし、現実はそのように甘いものではありません。病の娘はヤイロに連れられたイエスが到着する前に、すでに死んでしまったのです。ヤイロはこの事態を引き起こした「十二年間も出血の止まらない女」を恨むことができました。また、一刻も争う緊急事態であることを知りながら、ヤイロにとっては余計なことに時間を費やしたイエスを非難することもできました。また、すべてを諦めて、家に帰り娘の葬儀の準備を整えることもできたのです。しかし、ヤイロは娘の死と言う取り返しの出来ない現実と思われた出来事を経験しながら、ただイエスに従うこと、イエスにこの事態を委ねることを選んだのです。

 このように、私たちにとって信仰とは一つの人生の選択であると言うことができます。確かに私たちもイエスを信じることではなく、他のことを選ぶことができたはずです。しかし、そのような選択の中で、私たちはイエスを信じると言うことを選んだのです。そして、その選択の結果によって私たちの人生は全く変えられたと言えるのです。


4.イエスが選んでくださった

 ここに集まる私たちにもそれぞれの人生があり、またそこで起こった出来事がありました。そしてその出来事を通して、私たちは皆、イエスを信じるという「信仰」を選び、イエスに生かされるという恵みの体験をして来たのです。このように、私たちが自分の人生の中でイエスを信じるという選択をするということは最も大切なことであり、祝福の道であると言えるのです。

 しかし、私たちはここで最後にもっと違った見方で私たちの信仰を考えることが大切かも知れません。なぜなら、主イエスは私たちに次のように語っているからです。

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15章16節)。

 この物語が起こった当時も、病魔に侵され苦しむ人はたくさんいました。もちろん愛する家族を失って絶望する人々もいたはずです。しかし「十二年間も出血の止まらない女」も会堂長ヤイロは他の人々とは違いイエスを信じることを選びました。それは、彼らにそのような優れた素質があったからでしょうか。何か隠された才能があったからでしょうか。イエスの言葉はそれを否定しています。私たちには自分を信仰に導く力も、可能性も持っていません。私たちがイエスを信じることができたのはイエスが私たちを選んでくださったからです。だから私たちは今、イエスを信じ、イエスと共に歩むことができるようにされているのです。

 「十二年間も出血の止まらない女」は病気に苦しみ、全財産を失うという悲劇に見舞われました。しかし、その出来事を通して彼女はイエスに導かれます。イエスは彼女の病を癒してくださいました。しかし、大切なことは病が癒やされたことだけではありません。なぜなら、人間は生きていく限り、これからも病と付き合い続けなければなりません。また、その病の故に死を迎えることもあるでしょう。しかし、彼女はこのときイエスの口から「安心して行きなさい」と言う言葉を確かに聞いたのです。彼女の人生にこの後、どんなことが起こったとしても彼女は「安心」することができました。それはイエスが彼女を選び、その人生を導いてくださるからです。

 またヤイロの娘はイエスの起こされた奇跡によって生き返ることができました。しかし、彼女はこのことを通して決して死ななくなったと言う訳ではありません。ヤイロもその娘も地上の死を経験せずに生きることはできません。しかし、ヤイロはこの出来事を通してイエスが人間、いえ、すべてのものの命を自由に支配する力を持っておられる方であることを知ることできたのです。そしてそのイエスは私たちすべての人間を支配する死に勝利する力を持っておられる方でもあるのです。私たちは皆、このイエスによって選ばれて信仰者としての道を今、歩んでいます。そしてイエスは私たちにも「安心して行きなさい」と言ってくださる方なのです。なぜなら、イエスは私たちがすでにご自分がなさえれた救いの御業によって復活の命にあずかっていることを知っておられるからです。ですから、私たちはこのイエスに選ばれていることを覚えて、なお一層、イエスを信じる信仰生活を送って行きたいと思うのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.このときイエスの元にやって来た会堂長ヤイロはどのような問題を抱えていました(22節)。

2.十二年間も出血が止まらない女は、これまでどのような苦しみを体験していましたか(26節)。また、彼女はどうしてイエスのところにやって来て、その服に触れようとしたのですか(27節)。

3.イエスはなぜ、自分の服に触れた者があることを知り、またその人を捜し出そうとされたのでしょうか(30~34節)。

4.この事態を受けて、ヤイロの状況はどのように変わりましたか。イエスはそのヤイロにどんなことを要求されましたか(35~36節)。

5.ヤイロの家に着いた後、イエスは何をされましたか(38~43節)。

6.この二つの物語を通して私たちはイエスについてどのような方であることがわかりますか。

2024.6.30「子どもは死んだのではない」