2024.6.9「聖なる公同の教会」 YouTube
テサロニケの信徒への手紙二2章13~17節(新P.381)
13 しかし、主に愛されている兄弟たち、あなたがたのことについて、わたしたちはいつも神に感謝せずにはいられません。なぜなら、あなたがたを聖なる者とする"霊"の力と、真理に対するあなたがたの信仰とによって、神はあなたがたを、救われるべき者の初穂としてお選びになったからです。
14 神は、このことのために、すなわち、わたしたちの主イエス・キリストの栄光にあずからせるために、わたしたちの福音を通して、あなたがたを招かれたのです。
15 ですから、兄弟たち、しっかり立って、わたしたちが説教や手紙で伝えた教えを固く守り続けなさい。
16 わたしたちの主イエス・キリスト御自身、ならびに、わたしたちを愛して、永遠の慰めと確かな希望とを恵みによって与えてくださる、わたしたちの父である神が、
17 どうか、あなたがたの心を励まし、また強め、いつも善い働きをし、善い言葉を語る者としてくださるように。
ハイデルベルク信仰問答書
問54 「聖なる公同の教会」について、あなたは何を信じていますか。
答 神の御子が、全人類の中から、御自身のために永遠の命へと選ばれた一つの群れを、御自分の御霊と御言葉とにより、まことの信仰の一致において、世の初めから終わりまで集め、守り、保たれる、ということ。
そしてまた、わたしがその群れの生きた部分であり、永遠にそうあり続ける、ということです。
1.聖霊が働く場としての教会
もう相当昔のことになりますが、私は軽井沢のキリスト教施設で開催された教会成長のためのセミナーに参加したことがありました。日本中から様々なキリスト教会で働いている牧師や宣教師たちがたくさん集まる場所でした。そこで私はたまたまドイツから日本に宣教師としてやって来ていた方と挨拶を交わす機会がありました。私はそのドイツ人の宣教師に敬意を込めて「ドイツは宗教改革者たちが生まれた場所です。いつかドイツに行ってみたいと思っています」。そんな言葉を言ったのだと思います。するとそのドイツ人の宣教師はとても残念そうな顔をして「現代のドイツに来ても何も学ぶことはありません。信仰について学ぶとしたらむしろアメリカに行った方が良いでしょう…」と言うアドバイスを下さったのです。人づてに以前聞いたところでは、現在のドイツでは昔からの立派な教会堂がたくさん立ち並んでいる反面、その会堂に礼拝のために集まる人は極少数であると言われています。だからその宣教師はそのような問題を深刻に悩んでいて、私にそう語ったのかも知れません。
おそらくこのような現象がドイツなどで起こっているのはドイツを始めかつてのヨーロッパの諸国が「キリスト教国」と呼ばれ、生まれたときから国民は教会で洗礼を受けて、どこかの教会に所属するという「国教会制度」を採用していたからであると思います。ですからこのような「キリスト教国」で教会員となることは信仰によるのではなく、国民の義務となってしまうからです。
これはある意味で、日本人が仏教に対する信仰など一欠片も持っていないのに、「私の家は何々宗の檀家だ」と言うのと同じものと言えます。まさに宗教から信仰と言う大切な要素がなくなってしまえば、その宗教の命は失われてしまうと言えるでしょう。残念ながら宗教改革者たちはこの国と宗教との問題には改革の手を向けることはあまりありませんでした。しかし、その一方で宗教改革者は当時のカトリック教会によって死せる教会となりつつあった教会を甦らせるために信仰の大切さをどこまでも強調したと考えることができます。それは私たちが今学んでいるハイデルベルク信仰問答を作り出した牧師たちも同じ思いであったと言えるのです。
この信仰問答は私たちを救いに導く三位一体の神の素晴らしい御業を私たちに証して来ました。天地万物を創造され今もそれを治めておられる父なる神の御心によって、御子イエス・キリストが私たちの住むこの地上に送られました。そしてイエス・キリストはその救いの御業を成就されたことで、私たちを罪と死の呪いから救い出してくださったのです。さらに聖霊なる神はこのイエス・キリストが得てくださった救いの恵みを私たち一人一人に分け与えてくださる方だと言えるのです。
私たちは現在、このハイデルベルク信仰問答の順序に従い「聖霊なる神」の働きについて学び始めています(問53から)。そしてその箇所で取り上げられているのが「教会」という集まりです。つまり、この信仰問答は聖霊がイエス・キリストが実現してくださった救いの恵みを、私たち一人一人に分け与え、私たちの信仰を成長させてくださる場所として「教会」が私たちに与えられていると言うことを教えているのです。
2.聖なる公同の教会とは何か
①神の子によって呼び集められた集団
ハイデルベルク信仰問答の問54を次のような質問で始まっています。
「「聖なる公同の教会」について、あなたは何を信じていますか」。ここで注意したいの日本語では教会と訳されているこの言葉が、新約聖書の原語であるギリシャ語では全く違った意味を持つ言葉で表現されていると言うことです。ギリシャ語で教会は「エクレシア」と言う単語が使われています。ところがこの言葉には日本語のように「教える」と言う意味は全く含まれていません。ギリシャ語のエクレシアは「呼び集められた者の集い」と言う意味を持った言葉だからです。
おそらく教会では牧師が説教をしたりして聖書の内容が教えています。その姿を見た人々がこのエクレシアに「教会」と言う翻訳用語を当てはめた者と思われます。この「教会」と言う言葉からはそこには教える側と教えられる側の二種類の人がいて、どちらかと言うと教える側が重要であると言う印象を受けます。しかし、本来のエクレシアはそこに集められた者すべての者を区別なく指し示しているのです。さらにここで最も大切なことはそのエクレシアに人々を集めた人、招集した人は誰かと言うことです。だからこの問答の答えは「神の御子」、つまりイエス・キリストと言う存在を示す言葉で始められているのです。つまり、この教会に私たちを呼び集めてくださったのは、イエス・キリストご自身であると言うことができるのです。
②聖なる公同の教会(カトリック)
ところでここでさら注意しなければならないのは信仰問答がここで説明しているのは「聖なる公同の教会」と言う言葉の意味です。実はこの「聖なる公同の教会」と言う言葉をそのままラテン語で表現すると「カトリック」と言う言葉になります。しかし、誤解してはならいこれはローマ教皇を頂点とする地上に存在する「カトリック教会」というある特定の宗派を表すことばではないと言うことです。この「聖なる公同の教会」はキリストによって集められた人々の群れ、真の教会は国や人種、すべての違いを超えてただ一つであると言うことができます。確かにこの地上にはキリスト教に属する様々な教派が存在しています。私たちも日本キリスト改革派教会と言う教派に属する東川口教会という組織に集められています。しかし同時に私たちはキリストの集めてくださったただ一つのまことの教会に属していと言うことができるのです。
たとえば私たちは信仰を得て、新たにその教会の仲間に入る場合には必ず洗礼を受けることになります。ですからこの洗礼式を「洗礼入会式」と呼ぶ人々もいるのです。しかし、もしその人が何らかの事情で他の教会に移ることになったとき、そこでその人が再び新しい教会で洗礼を受けるということはありません。なぜなら、その人が受けた洗礼はどこの教会に行っても有効であると認められるからです。むしろ他教会の洗礼を認めず、その人に再び洗礼を授けるような教会は誤った教えを語る教会として警戒しなければならないと言えるのです。なぜなら、私たちはこの地上ではお互いに所属する教会が違っていても、皆、キリストの集めてくださった聖なる公同の教会の一員とされているからです。
➂旧約聖書の時代の聖徒たち
ここで興味深いのは信仰問答がこの聖なる公同の教会について「世の初めから終わりまで集め、守り、保たれる」と言っているところです。つまりこの聖なる公同の教会のメンバーは今、地上の教会に所属する私たちだけではなく、すでに世を去った人々、またこれからこの地上に生まれてくる人々も含まれていると言うことになります。そして「世の初めから」と言う言葉から分かるのはこのイエス・キリストがこの地上に誕生する前に生きた旧約時代の人々もこの教会のメンバーとされていると言うことにもなるのです。
今でもキリスト教会は新約聖書だけではなく、旧約聖書も私たちの信仰を育む大切な書物であると信じています。この旧約聖書が大切なのは私たちの救い主イエスについての様々な預言がそこに記されているからです。実際に初代教会の人々はこの旧約聖書の言葉によってイエス・キリストに導かれて、キリストを信じる者となりました。そして実は、キリスト教会が旧約聖書を大切にするのはもう一つの理由は、そこに登場する旧約時代の信仰者も私たちと同じようにキリストを信じ、キリストによって救われた人々だと考えるからです。確かに彼らは地上に遣わされたイエス・キリストに出会うことができなかった人たちでしす。しかし、彼らは神が示されたキリストについての約束を通して、私たちと同じようにキリストを信じて生きた人たちだと考えることができるのです。
私たちが通常「ユダヤ教徒」と呼んでいるのは約束されたキリストが地上に来てくださった後に、そのキリストを信じることを拒んだ人々のことを言っています。つまり、旧約聖書の時代の人々はこの「ユダヤ教徒」とは違うと考えてよく、彼らのまたまことの教会のメンバーであると言えるのです。
3.教会はまことの信仰によって一つ
さてここまで学んだようにこの聖なる公同の教会はイエス・キリストによって集められた人たち、その人々について「御自身のために永遠の命へと選ばれた一つの群れ」であると信仰問答は説明しています。それでは神の御子であるキリストは永遠の命へと選ばれた人々をどのようにこの教会に集め、また彼らを養ってくださるのでしょうか。信仰問答は次のような言葉を使ってそのことを説明しています。
「御自分の御霊と御言葉とにより、まことの信仰の一致において」。
この教会に集まる人々は主イエスが遣わしてくださる聖霊の御業によって、そして聖書の御言葉によって集められています。そしてその「御霊と御言葉」は「まことの信仰の一致において」私たちを一つの群れ、つまり聖なる公同の教会のメンバーにしてくださると言うのです。
現在、この地上のキリスト教会が様々な教派に分かれて存在しているのは、決して神が望まれたことではないと言うことができます。むしろ、地上の教会が様々な教派に分裂してしまう原因はそこに集まる人間が誤りを犯す弱い人間であるからだとも言えます。ですから私たちは自分たちが誤りうる人間であることを認め合い、お互いに謙虚になって互いを認め合う必要があるとも言えるのです。しかし、だからと言って教会は真理を蔑ろにして一致することはできません。むしろ私たちは御霊と御言葉に導かれることで真の信仰に導かれる必要があることを信仰問答はここでも教えているのです。つまり教会の一致を実現してくださるのは、私たちを導いてくださる神の御業であることを私たちは謙虚に認め、その神に従う必要があるのです。
4.私もその教会の一部とされている
この信仰問答の特徴は聖書に基づいてキリスト教の教理を語るだけではなく、その教えと自分がどのように関係しているのかと言うことに関心を向ける点にあります。信仰問答はその関係を「利益」と言う言葉で表現して来ました。「キリスト教信仰はご利益信仰ではない」と言う言葉を聞いたことがあります。しかし信仰が生きている私たちの人生に何の益ももたらさないとしたら、その信仰にどのような意味があるのでしょうか。もちろん、聖書が語る「利益」は私たちが普通考えるような商売繁盛、無病息災と言うような「ご利益」とは違うと思います。しかし、神は確かに私たちの人生を救い、真の祝福に導くためにイエス・キリストを遣わしてくださり、私たちに信仰を与えてくださったことも間違いないことであると言えるのです。
ここで信仰問答はこの私たちがこの「聖なる公同の教会を信じる」ことで受ける利益について次のような言葉を語ります。
「そしてまた、わたしがその群れの生きた部分であり、永遠にそうあり続ける、ということです。」
私たちは今、確かに聖霊の御業と御言葉によって信仰が与えられています。そしてこの目には見えませんがただ一つの確かなキリストの教会のメンバーとされてもいるのです。
私たちの目に見える地上の教会には確かに様々な誤りが生まれます。時にはその教会の存続さえ揺るがすような事件も起こります。しかし、だからと言ってそのような教会に所属した私たちの救いが無効になってしまう訳では決してありません。地上の教会がどのように変わっても、私たちが所属している目に見えない教会、聖なる公同の教会は揺るぎがないからです。そして、私たちの信仰はその教会よって守られているのです。
キリスト教会が誕生して間もない頃、ローマ帝国はそのキリスト教会を厳しく迫害し続けました。ですから信仰を守るために命を失った殉教者も多数生まれました。しかし、残念なことにその迫害に耐え切れずに信仰を捨ててしまった人々も多く生まれたのです。その人々の中にはそれまで教会を導き、人々に洗礼を授けた教会のリーダーも存在していました。そしてこの問題を受けて、当時の教会の中で大きな論争が起こりました。「信仰を捨ててしまったリーダーによって施された洗礼は意味がない、だからそのような人々から洗礼を受けた人はもう一度、正しい信仰を持ったリーダーの下に行って洗礼を受け直さなければ救われない」と主張する人々が現れたのです。そして当時の教会は「洗礼の効力はそれを授けた人の信仰によって左右されるものではない」と判断し、この論争を終わらせたのです。なぜなら、誰もみな聖霊の御業と御言葉に導かれて信仰を得て、洗礼を受けて聖なる公同の教会のメンバーとされているからです。
このように聖なる公同の教会を信じると言う信仰は、私たちを取り巻く様々な状況が変化しも私たちは確かな目に見えない教会の一員としされていて、私たちの救いが確かであることを保証する役目を果たしているのです。
私たちは神の御子であるイエス・キリストによって御霊と御言葉が与えられて、この聖なる公同の教会の一員とされていることを感謝したいと思います。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.まずあなたもハイデルベルク信仰問答の問54の本文を読んでみましょう。この信仰問答の構成ではこの「聖なる公同の教会」についての問い、信仰問答のどのような部分で取り上げられていることがわかりますか(問53~64)。
2.この問54では聖なる公同の教会には誰によって呼び集められたどのような人が所属していることが分かりますか。
3.この教会を一つの群れとして一致させるものは何ですか。
4.この信仰問答はこの聖なる公同の教会と私との関係をどのような言葉で言い表していますか。また、私たちがこの教会の「生きた部分」とされていると言うことは、私たちの信仰生活にどのような助けを与えると思いますか。