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  4. 7月14日「聖徒の交わり」

2024.7.14「聖徒の交わり」 YouTube

ローマの信徒への手紙12章1~8節(新P.291)

1 こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。

2 あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。

3 わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。

4 というのは、わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、

5 わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。

6 わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、

7 奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、

8 勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。


ハイデルベルク信仰問答書

問55 「聖徒の交わり」について、あなたは何を理解していますか。

答 第一に、信徒は誰であれ、群れの一部として、主キリストとこの方のあらゆる富と賜物にあずかっている、ということ。

第二に、各自は自分の賜物を、他の部分の益と救いとのために、自発的に喜んで用いる責任があることをわきまえなければならない、ということです。


1. 聖霊なる神と「聖徒の交わり」

 教会の週報の裏には毎週、「使徒信条」と言う文章が印刷されています。これは世界のキリスト教会の中で長い間、使われて来た文章です。ここにはキリスト教信仰の要点を簡潔に示す言葉が記されています。この中で「わたしは聖霊を信じます。きよい公同の教会、聖徒の交わり…」と後半の部分に記されている言葉の中、今日は「聖徒の交わり」と言う項目をハイデルベルク信仰問答の文章から学びます。

 まず、この部分の内容を正しく理解しようとすれば「聖霊を信じます」と言う文章以降に並んで表現される項目の対象は神ご自身ではないことが分かります。「神を信じます」と言うならともかく、なぜ使徒信条はこれ以後、神以外の教会や聖徒の交わりを「信じます」と言っているのでしょうか。

 実はこの後半の文章は最初の「聖霊を信じます」と言う言葉と密接な関わりを持って表現されていることを私たちは忘れてはならないと思います。なぜなら教会も聖徒の交わりもこの聖霊なる神の働きによって成り立つものと言えるからです。つまり、この部分の言葉は「教会も聖徒の交わりも聖霊の御業によって実現するものであることを信じます」と言っていると考えるべきなのです。だから、今日の聖徒の交わりの項目も私たちは聖霊なる神の御業であることを理解しながら読む必要があるのです。

 以前「聖徒の交わりとは誰のことを言っているのですか…」と言う質問を受けたことがあります。おそらくその質問をされた方は「自分の周りには「聖徒」などと呼べるような人は一人もいない」と考えたのかも知れません。これはある意味で正しい見方かも知れません。なぜなら私たち人間は誰も自分の力では「聖徒」と呼ばれるような生き方ができる人は一人もいないからです。聖書は神の助けを必要としない人間、つまり自分の力で「聖徒」となり得る者はこの世に誰も存在しないことを私たちに教えています。


2.聖徒についての誤解

 聖書は「正しい者はいない。一人もいない」(ローマ3章10節)と言う言葉を使って、すべての人間が罪を犯して神の裁きを免れ得ない者たちであることを明らかにしています。ただ、ここで私たちが注意しなければならないのは使徒信条が語る「聖徒」と言う言葉をどのように理解するかと言うことです。おそらくこの言葉を「聖人」と言うような意味で読む方がおられるのかもしれません。だから当然、「そんな人は誰もいない」と言うことになるのだと思うのです。

 それではこの「聖人」と言う言葉から私たちはどのような人を想像するのでしょうか。「すべての欠点を克服し、完成した人格を持つ人」そんな風に考える人もいるかも知れません。しかし、使徒信条がここでそのような「欠点のない、完璧な人間」について論じたとすれば、これはむしろ私たちの信仰に反することになると言えるのです。

 なぜなら、何度も語るように完璧な人間には神の助けも必要ありませんし、またキリストの救いも必要がないからです。人間は弱さを持ち、また自分では自分の犯した罪を解決することできない存在であるからこそ、神に助けを求め、キリストの救いを必要としていると言えるのです。

 さらにここでは「聖徒の交わり」と言う言葉が語られています。もし完璧な人間がこの世に存在するとしたら、その人にははたして「交わり」は必要となるのでしょうか。ユダヤ人の心理学者ビクトル・フランクルは、人間は誰もが生まれつき欠点を持ち弱さを持っている存在であることを強調しています。そしてだからこそ人間はお互いの助けを必要とする存在なのだと言うのです。だから人間がもし完璧な存在であるならば誰の助けも必要とならず、その存在は孤独なものとなってしまうとも語っているのです。完璧な人間に「交わり」が必要でないとすれば、そこには「愛」も必要がなくなると言えます。もし、キリスト教信仰がこのような聖人を作り出すためのものとなれば、その信仰は「交わり」も「愛」も必要のないものとなるのです。つまり使徒信条が語っている「聖徒」は決してこの世の人が考える「聖人」のような存在ではないと言うことがわかるのです。


3.なぜ私たちが聖徒なのか

 ここで私たちはハイデルベルク信仰問答の言葉に戻り、「聖徒」の意味を考えてみたいと思います。信仰問答の答えは次のような言葉で始まっています。

「第一に、信徒は誰であれ、群れの一部として…」。

 信仰問答が語るようにこの聖徒は今、イエス・キリストを信じて教会に集められている私たちのことを言っていることが分かります。それでは今もなお弱さや欠点を持っている私たちがなぜ「聖徒」と言う名前で呼ばれることができるのでしょうか。信仰問答は「群れの一部として」とここで語っています。聖書は私たちがキリストに救われたとき、私たちの命はキリストの命とつながり、私たちはキリストの体の一部分とされると言うことを教えています。つまり「聖徒」とはキリストの体の一部分とされた私たちのことを言っているのです。このような意味で私たちの命はいつもイエス・キリストの命と繋がっています。そうするとどのような変化が私たちの側で可能となるのでしょうか。

「主キリストとこの方のあらゆる富と賜物にあずかっている、ということ。」

 ここにはとても素晴らしい約束が語られています。主イエス・キリストが持っているすべての富と賜物が私たちのものとなると言っているからです。キリストは世界のすべてのものを支配し、またそれを自由に使う権利を持つお方です。そのお方が私たちにすべての富と賜物を預けてくださると言うのです。

 ですからこう考えると「聖徒の交わり」とは聖なるイエス・キリストとの交わりに入れられている者、そしてそのイエス・キリストのすべての富と賜物にあずかることができる者たちの交わり、つまり今、教会に集められて神に礼拝をささげている私たちであると言うことがはっきり分かるのです。


4.聖徒の交わりと弟子の使命

①交わりの必要性

 それではイエス・キリストとの生きた交わりに生き、その方かたからすべての富と賜物をあずかることができるようになった私たちは、聖徒としてどのように生きることを神から望まれているのでしょうか。神は何の目的もなく何かをするような無計画なお方でありません。神が私たちにこのような祝福を与えてくださることにも、確かな目的があるはずです。そのことについて信仰問答は続けて次のように語っています。

「第二に、各自は自分の賜物を、他の部分の益と救いとのために、自発的に喜んで用いる責任があることをわきまえなければならない、ということです。」

 イエス・キリストが私たちに各自に賜物を与えてくださるのは、それを自分のためだけに使って自己満足するためにではありません。イエス・キリストはあるとき「愚かな金持ち」と呼ばれるたとえ話を語ってくださったことがあります。自分一人では決して使い果たせないほどの財産を手に入れたこの金持ちには、それを自分一人が楽しむために用いようとします。彼は決して、他人を助けるために自分の財産を使おうとはしないのです。そして結局この金持ちは死んでしまうことで、その財産を自分のためにも使うことができなくなってしまったとイエスは教えています(ルカ12章16~21節)。

 このお話の中には金持ちの友人や仲間は一人も登場しません。彼には「交わり」が存在しないのです。しかし、私たちはそうではありません。私たちには同じイエス・キリストを信じる仲間たち、聖徒の交わりが与えられているのです。だから私たちはあずけられた富と賜物を「他の部分の益と救いとのために、自発的に喜んで用いる責任がある」と信仰問答は教えているのです。

 先にも何度も繰り返し語って来たように、教会に集まっている私たちは一人一人、弱さや欠点を持っている者たちでしかありません。しかし、イエス・キリストはその私たちを助けるためにこの「聖徒の交わり」を与えてくださるのです。それは各自がイエス・キリストから預かった富と賜物を使って互いに助け合うことができるためです。このような意味で「聖徒の交わり」は私たちの救いのために、イエス・キリストが私たちに与えてくださるものであると言えるのです。そしてこの聖徒の交わりが実現するために聖霊はいつも私たち一人一人に上に働いてくださるのです。


②キリストからゆだねられた使命を遂行するため

 実は今日の日曜日に読まれる教会暦の聖書箇所はマルコによる福音書6章7~13節でここにはイエス・キリストが十二人の弟子たちを伝道旅行に派遣する物語が記されています。このときイエスは十二人を二人ずつ組みに分けています。弟子たちを決して一人だけにしてはいないのです。ここには様々な理由が考えられますが、その一つとして二人が旅先でお互いに助け合うことが求められていたと考えることができます。弟子たちにはイエスから与えられた使命を果たすために「聖徒の交わり」が最初から必要とされたのです。なぜなら、聖徒が互いの賜物を持って相手を助けることはまぎれもなく「愛」の行為だと言えるからです。神の愛を伝えるために派遣された弟子たちは自らの生活を通してもこの「愛」を証したのです。そして「聖徒の交わり」はそのために必要だったのです。

 このときイエスは弟子たちのために「汚れた霊に対する権能」授けられました。その上で「旅のために杖一本の他何も持っていなかにように」と命じられたのです。これはイエスが与えてくださる賜物だけを使って弟子たちは働くと言うことを表していると言えます。

 私たちはこの物語から「聖徒の交わり」について最後に学ぶことができることは、この「聖徒のまじわり」は私たちを弟子として召してくださったイエス・キリストが私たちに託してくださった使命を果たすために与えられたものだと言うことです。つまり、「聖徒の交わり」はそこに集う人々の共通の利益のために存在するのではなく、私たち一人一人がイエス・キリストに仕え、イエス・キリストから託された使命を果たすためにあるのです。そしてこれが「聖徒の交わり」が与えられている最大の目的であると言えるのです。

 かつてイエスは天に昇られる直前に弟子たちに次のように語ってくださいました。

「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28章18~20節)

 私たちがイエス・キリストから託された使命に生きようとするとき、「聖徒の交わり」のもつ本当の力は発揮されると言えるのです。そしてそのためにイエス・キリストはすべての富と賜物を私たちにあずけてくださろうとしていることを今日も覚えたいと思います。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.まずあなたもハイデルベルク信仰問答の問55の本文を読んでみましょう。あなたはこの文章を読んでどのような感想を持ちましたか。

2.「信徒は誰である、群れの一部として」と言う言葉は「だれもみな、枝として」(旧竹森訳)と読むこともできます。また今日のテキストのローマの信徒への手紙12章1~8節を読んでも私たちが「聖徒」と呼ばれる理由が何であることがわかりますか。

3.聖徒である私たちはキリストからどんなものをあずかる者とされていますか。また、私たちにはキリストからあずかったそれらのものを何のために用いることが求められていますか。

4.「自発的に喜んで用いる責任」と言う言葉から、私たちが教会やその他のところで行う奉仕についてどのようなことを学ぶことができますか。

2024.7.14「聖徒の交わり」