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2024.7.21「幸いな死」 YouTube

ヨハネの黙示録14章13節(新P.468)

「また、わたしは天からこう告げる声を聞いた。「書き記せ。『今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである』と。」"霊"も言う。「然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。」


礼拝指針 第21章 教会の葬儀諸式

第99条(神礼拝としての葬儀)

 葬儀は、神礼拝であり、御言葉による慰めにあずかり、神への賛美と祈りのうちに行う。司式は通常任職された御言葉の教師が行う。


第100条(葬儀の目的)

 葬儀の目的は、神の民が礼拝において、聖徒の交わり・体の復活・永遠の命を信じる信仰を証しすること、主にある慰めと励ましが特に遺族に対して与えられること、故人の上に注がれた神の恵みを列席者と共に思い返し、丁重に遺体を葬ることである。

 したがって、死者のために祈ること、死者に供えものをすること、死者に語りかけることなど、異教的慣習を避けるように、牧師は注意を払って執り行う。


第101条(葬儀の内容)

 葬儀にふさわしい内容は、適切な詩編歌や賛美歌の歌唱・聖書の朗読・説教による御言葉の説き明かしと適用・主への感謝と福音の希望を含む祈り・遺族のためのとりなし・すべての列席者のために信仰と恵みを願うことなどである。


第102条(葬儀の諸式)

 葬儀の諸式(前夜式・火葬式・埋骨式など)は、遺族の希望を聞いたうえで実施する。牧師はこれらの諸式を、詩編歌、賛美歌・御言葉の朗読と説教・祈りなどによる神礼拝をもって行う。


1.キリスト教葬儀

①神礼拝としての葬儀

 今朝の礼拝では午後から開催される葬儀に関するセミナーとの関係からキリスト教の葬儀についてお話をしたいと思います。皆さんの中にはキリスト教式で行われた葬儀に出席したことが無いと言う方もおられるかも知れません。私の意見ではキリスト教式の葬儀は日本で広く行われている他の宗教の葬儀と形式もまた、その目的も大きく違うと考えてよいと思っています。

 とても分かりやすいところから言えば、キリスト教の葬儀では司式者である牧師は、その葬儀に集まった列席者に顔を向って聖書のお話を語ります。これは仏教の僧侶が亡くなった方の位牌に向って、聞いただけでは全く意味を理解することができないお経を読むのとは全く違っています。それではこの違いはどこから生まれるのでしょうか。

 その大きな原因は、キリスト教式の葬儀の目的は神を礼拝すると言うところに置かれているからです。ですからキリスト教の葬儀の式順は、今、私たちがささげている日曜日の礼拝とほとんど変わっていないのです。葬儀でも聖書の言葉が読まれ、その言葉について牧師がお話をします。さらに神に祈りがささげられ、神をほめたたえる讃美歌が歌われます。つまりキリスト教葬儀の主役は神であって、亡くなった故人ではないのです。

 日本の多くの葬儀の場合は亡くなった故人の魂を弔い、また供養をすると言う性格を持っているようです。つまり、亡くなった故人の魂が安らかに眠れるように、葬儀の出席者皆でお手伝いをすると言うことになるのでしょうか…。ところがキリスト教葬儀では亡くなった故人に対して何かをすると言うことは必要とされていません。むしろ改革派教会の作った礼拝指針と言う文章を読むと「死者のために祈ること、死者に供えものをすること、死者に語りかけること」を「異教的習慣」と呼んで、それらの行為が行われないように心がけるようにと教えているのです。それはどうしてなのでしょうか。キリスト教は天地万物を造られた神に信頼を置く宗教です。だからこそ、私たちは「故人の魂がどうなってしまったのか」と心配することなく、その神にすべてをお任せすることができるのです。だからキリスト教の葬儀ではこの神にすべての人が心を向けるために、礼拝がささげられるのです。


②人間の死は不浄なものではない

 以前、この教会堂で教会員のご家族のための葬儀が執り行われたことがありました。そのとき、この近所に住む親戚や知人や友人の方がたくさん葬儀に参加されていました。慣れないキリスト教の葬儀に参加された方々がその葬儀が無事に終わり、いざ帰ろうとしたときのことでえす。受付で「お浄めの塩がない」と戸惑いながら語り合っている人たちの声を私は聞いたのです。私も日本の葬儀の習慣を十分に理解しているとは言えませんが、日本の葬儀で「お浄めの塩」が配られるのは、人間の死は不浄なものであり、忌み嫌われるものと考えられているかではないでしょうか。つまり、人々はその不浄な死を家に持ち帰ることがないようにと「お浄めの塩」を使おうとするのです。

 この点で、キリスト教の死生観は全く違っています。なぜならキリスト教における人間の死は、その人の地上での生涯が終わり、神から与えられた使命を果たすことができたことを表しているからです。今日の聖書の朗読ではヨハネの黙示録の言葉が読まれました。ここでは神から与えられた地上の生涯を、信仰を持って全うした人々に対して、神から与えられる祝福の言葉が語られています。このような意味でキリスト教における人間の死は、不浄なものでも、忌み嫌われるものでもありません。それはむしろ私たちの地上の人生の完成のときと言うこともできるのです。

 もちろん、私たちが人間の死をこのような意味に受け止めることができるのは、私たちのために救いの御業を成し遂げてくださったイエス・キリストのためであると言えます。なぜなら、イエスは十字架の死によって私たちの罪を贖うことで、罪人の死に込められていたすべての呪いや罰を取り去り、私たちを祝福するものと変えてくださったからです。だからこそハイデルベルク信仰問答はこの主の御業によって今や私たちの地上の死と言う出来事が、私たちのための「永遠の命への入り口」と変えられた大胆に宣言しているのです(問42)。

 ですからこのような意味でも、私たちは人間の死と言う厳粛な出来事を通しても、神を礼拝し、神に感謝をささげるために葬儀を行うのです。


2.遺族をなぐさめる

①神の言葉による慰め

 さて、このようにキリスト教式の葬儀は日本人が普通経験している葬儀と形式や目的が違っています。しかし、その中でもある意味では共通していると言える点もあります。それは「残された遺族を慰め、励ますため」と言うことかも知れません。礼拝指針でも「主にある慰めと励ましが特に遺族に対して与えられること」と言う教えが明記されています。この地上で長い時間を共有した家族の誰かがある日突然いいなくなると言う出来事、それは誰もが経験するものでしょう。しかしだから取って私たちの心は簡単にそれを受け入れることができないのです。ですからキリスト教式の葬儀においてもこの遺族を慰めると言うことがとても大切になってくると言えます。

 ただ、ここでもキリスト教葬儀の特徴は残されています。なぜなら、礼拝指針は「主にある慰めと励まし」と言っているからです。キリスト教では通常、遺族に対して「ご愁傷さまでした」とか「ご冥福をお祈りいたします」と言う挨拶の言葉は使いません。だから、私はいつも葬儀の席でご遺族に何と声をかけるべきか迷ってしまうことが多いのです。私の場合には「たいへんでしたね…」と言う言葉を最初に使って、自分の素直な気持ちを遺族に語るように心がけています。しかし、どんなに考えを尽くしても葬儀の席で悲しんでいる遺族を慰める言葉を見つけることは困難です。だからこそ礼拝指針は「主にある慰めと励まし」と語っているのです。遺族を本当に慰め励ますことができるのは神の御業であると私たちは信じているからです。そしてキリスト教式の葬儀では、まさにそのような意味で遺族をはじめとして列席者全員に向けて神の言葉である聖書の言葉が解き明かされるのです。


②葬儀は大切な伝道の場

 通常、亡くなった故人の葬儀ではその家族が葬儀の主導権を持っています。だから、そのご家族が「葬儀はお寺で行います」と言えば、どんなに私たちがその亡くなった故人の意志を知っていても、遺族の意志に反することはできないと言えるのです。ですから、皆さんにお願いしたいのは、「教会でキリスト教式の葬儀を行いたい」と願っているならば、その願いを事前に家族に伝えておいていただきたいのです。このとき、皆さんに考えていただきたいのは、「葬儀は自分の意志を貫く場所」と言うよりも「家族を神に導く」伝道の場所となると言うことです。

 私が牧師としてもまだ経験も浅いときに奉仕していた教会で、若い私のために事あるごと励ましてくださった婦人の執事さんがおられました。私はその執事さんの末期のがんとなられた御主人の病床を訪ねたり、病床洗礼を行ったり、そのご主人の葬儀のすべてをほとんど未経験の私がすることになり、大変に勉強になったことを覚えています。実はその執事さんは大学生だった娘さんを脳腫瘍で失うという悲しい体験を通して教会に導かれ、信仰に入ったという方でした。生前の娘さんは鎌倉雪の下教会という教会で子供たちに熱心に聖書を教える奉仕をされていたと言います。そしてその娘さんが天に召されたとき、鎌倉雪の下教会の加藤常昭牧師という方が葬儀を行い、聖書の言葉をご遺族に伝えと言うのです。そして、その執事さんは亡くなった娘さんに導かれるようにこの葬儀の後にキリスト教信仰を受け入れ、御自身も熱心な信徒となられたのです。

 日本ではまだまだキリスト教式の葬儀に参加したことがない、教会で聖書のお話を聞いたことがないと言う方々がたくさんおられます。そのような方々が葬儀と言う機会を通してはじめて教会にやって来られます。ですから、キリスト教の葬儀は私たちの愛する家族に神の福音を伝える機会でもあり、また友人や知人にも福音を伝える機会ともなるのです。そのような意味でも、是非、生前からご家族とのコミュニケーションを大切にし、その家族に「教会で葬儀をしたい」と言うご自分の意志を伝えておいてくださることをお願いしたいのです。


3.復活の希望を持って遺体を葬る

①復活の希望と葬儀

 さて改革派教会の礼拝指針では「故人の上に注がれた神の恵みを列席者と共に思い返し、丁重に遺体を葬ることである」と言う言葉が続けて記されています。特に葬儀が私たちのささげている普段の礼拝と違う点は、この「丁重に遺体を葬る」と言うことだと思います。

 私は神学生の頃、「霊魂の不滅か死者の復活か」と言う題名の本を買い求めたことがあります。ソクラテスやプラトンと言った古代ギリシャの哲学者たちは「肉体は魂の牢獄である」と主張し、人間の死は魂がその肉体から解放されるときだと主張しました。そして彼らは人間の肉体は滅びゆくものだが魂は不滅であると考えたのです。つまり、人間とって肉体はむしろ好ましくないもの、じゃまなものと考えられているのです。不思議なことにこの考え方は私たちの住む日本の宗教とも共通している部分があります。日本では各家庭の仏壇に位牌と言うものがおかれ、その位牌に向って供養がなされます。位牌は亡くなった方の魂が宿るものとして敬われているからです。それとは違い墓は役目を終えた人間の肉体が、他の人々に害を及ぼすことがないように葬られる場所だと考えられているのです。

 キリスト教ではこのように魂と肉体を対立的に考えたり、分離して考えることをしません。なぜなら、人間の肉体も魂も神が創造されたものであると信じられているからです。つまり神は最初から人間を肉体と魂を伴う一つの存在として創造されたのです。ですから、やがて神の救いが完全に実現するときに、死んだ者たちはその身体を伴って復活すると言うのがキリスト教の信仰の重要な教えなのです。このことは皆さんが今持っている教会の週報の裏側に記されている使徒信条にも明記されています。「からだのよみがえり、永遠のいのちを信じます」。永遠の命は肉体がなくなっても魂は永遠に残るというものではありません。肉体の復活を伴った命こそが聖書の語る本当の命なのです。この死における人間の魂と肉体の関係についてウエストミンスター小教理問答書の問37で次のように説明されています。

「問 信仰者は死ぬとき、キリストからどのような恩恵を受けますか。

答 信仰者の霊魂は、彼の死のとき、完全に聖(きよ)くされ、直ちに栄光に入り、信仰者の体は、なおキリストに結びつけられたまま、復活まで墓の中で休みます」

 キリスト教式の葬儀ではもう用を済ませていらなくなった遺体を墓に葬るのではありません。イエス・キリストが再びこの地上にやって来られて、私たちを復活させてくださるまで、その肉体は墓で休ませるのです。もちろん、これはホラー映画のゾンビのように墓の中の遺体がそのままで甦ると言うことを語っているのではありません。私たちはその時、新しい完全な姿に変えられて復活することができるからです。そのため私たちはこの希望を持って、遺体を丁重に墓に葬ることを葬儀で行うのです。


②宗教改革と葬儀

 イエス・キリストの復活を経験した初代教会の人々にとっての人の死は「自分もキリストと同じように復活する」という希望を伴うものとして受け取られていました。ですから人間の死は敗北ではなく、キリストにある勝利を意味するものと信じられていたのです。そのような信仰を抱く人々は、葬儀もキリストの勝利を人々に示すものとして行っていたようです。だからそれまでは夜の闇の中でひっそりと執り行われていた葬儀を、彼らは昼の日中に行なったのです。

 残念ながらこの初代教会の葬儀の考え方は中世の教会に入り込んだ誤った考え方によって変質して行きます。なぜなら、中世の教会は人の死を完全な勝利をとは教えず、亡くなった信仰者が完全な救いに至るためにはなおたくさんの助けが必要だと教えたからです。皆さんは「死者のためのミサ曲」という題名のクラシック曲を知っておられるでしょうか。中世の教会では死んだ人の魂が天国に行けるようにと、死者のために祈るという聖書的ではない誤った習慣が生まれてしまったのです。その結果、人の死は勝利ではなく、人に新たな不安を与えるものとなってしまったと言えるのです。私たちの教会を生み出した宗教改革者たちはこの中世の教会の過ちを徹底的に批判し、葬儀においても初代教会の信仰に戻るようにと促しました。

 だからこそ先ほど礼拝指針に書かれているように「死者のために祈ること、死者に供えものをすること、死者に語りかけること」は必要ないばかりか、私たちの地上の死を通して与えられる神の祝福に反するものだと教えているのです。私たちはこの点においてもヨハネの黙示録が語る言葉を心にとめて私たちの地上の死について、また葬儀についてこれからも考えていきたと思うのです。

「書き記せ。『今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである』と。」"霊"も言う。「然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである」。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.改革派教会の作った礼拝指針の文章によれば教会で行われる葬儀諸式は何の目的のために行なわれると教えられていますか。

2.どうしてキリスト教の葬儀では聖書の御言葉の朗読と説教、祈りや賛美というプログラムが中心となるのですか。

3.なぜ、キリスト教葬儀では「死者のためにいのること、死者に供えものをすること、死者に語りけること」を避けなければならないのでしょうか。

4.聖書やキリスト教のことを知らない人々が大半を占める日本においてキリスト教の葬儀はどのような機会を提供するものとなりますか。

2024.7.21「幸いな死」