2024.7.28「どこでパンを買えばよいだろうか」 YouTube
ヨハネによる福音書6章1~15節(新P.174)
1 その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。
2 大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。
3 イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。
4 ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。
5 イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、
6 こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。
7 フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。
8 弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。
9 「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」
10 イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。
11 さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。
12 人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。
13 集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。
14 そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。
15 イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。
1.イエスの行われた「しるし」
①四つの福音書が共通して取り上げた物語
今日はヨハネによる福音書が紹介している物語、イエスが五つのパンと二匹の魚から五千人以上の人々の飢えを満たしたというお話を取り上げます。この物語は聖書を読む多くの人々の心に残るお話の一つであると言えるでしょうか。その理由はいろいろありますが、まず考えられるのはこの物語をマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネと言う四つの福音書すべてが共通して取り上げて紹介しているところです。福音書の中でマタイ、マルコ、ルカの三つは「共観福音書」と言う名前で呼ばれるように内容が大変に似通ったお話が紹介されています。キリスト教会の歴史ではマルコはマタイの福音書のダイジェスト版として後から書かれたという伝承が伝わっていました。しかし、近代において聖書学の研究が進む中で明らかになったのは、本来福音書の中で最初に書かれたのはこのマルコで、マタイとルカはマルコの福音書を参考にしながらそれぞれの持っていた資料を付け加えて、新たに自分たちの福音書を記したと考えられるようになりました。三つの福音書がよく似ている理由はここにあると考えらるのです。
この三つの福音書に対してヨハネによる福音書は特殊な性格を持っている書物だと考えられています。おそらくヨハネによる福音書はすべての福音書の中で最後に書かれたものであったと考えられています。つまりこの福音書を記した著者は他の三つの福音書の内容をすでによく知っていたと言うことができます。その上で、この福音書の著者は全く別の観点からイエスについての物語を伝えようとしたと考えることができます。そのヨハネもこの五つのパンと二匹の魚の記事はどうしても記しておく必要があると考えたのでしょうか。ですからこの物語は私たちがイエス・キリストを知るために決して省略してはならない物語だとも言えるのです。
②奇跡ではなく「しるし」
さて、現代人が聖書を読むときに一番に問題とされるのは今日の箇所のような科学では証明ができない奇跡を報告していることだと言えるかも知れません。明治以降になり日本の知識人に聖書の内容が紹介されるようになったとき、彼らが引き付けられたのは「山上の説教」に記されているような教えであったと言われています。その一方でイエスのなされた奇跡を紹介するような物語はあまり評判がよくなかったのです。それは彼らがこれらの物語を歴史的な事実に基づかない架空の出来事だと考えたからではないでしょうか。なぜなら彼らもまた当時、西洋から輸入され始めていた科学の洗礼を受けていたからです。この科学の見方から考えれば、ここに記された出来事は科学的には受け入れがたい迷信を教えていると言うことになるのです。そうなると私たちがこの物語から何も学ぶものはないと言うことになります。
実はこの点についてヨハネによる福音書が興味深いのは、イエスのなされたこのような奇跡をこの福音書は「しるし」(14節)と言う特別な言葉で紹介していることです。「しるし」とはその出来事を通して何か大切なことが示されていると言うことを表す言葉です。私たちが読んでいる福音書はイエスの福音を明らかにしようとして記されたものです。つまり、この「しるし」とはイエスとはどのような方なのか、また何をしに来られたのかと言うことを教えるものだと言えるのです。そのような意味でヨハネは福音書の読者たちがこの奇跡事態にだけに目を向けるのではなく、この「しるし」を通して明らかになったイエスを知り、そのイエスを信じるようにと教えていると言うことがわかるのです。
その点で、福音書が記したこの物語のクライマックスと言える、イエスが五つのパンと二匹の魚を五千人の人々に配ったと言う部分の記録には特徴があります。
「さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた」(11節)。
ここでイエスは五つのパンと二匹の魚をそこに集まった五千人の人々に配っています。そんな数では到底目の前の問題は解決することができなかったはずです。しかし、イエスはそれを解決されたのです。すべての人々に食べたいだけ分け与えることできたと言うのです。ここにはイエスがそのようなことをしたと言う言葉は報告されていますが、それがどのように増えたのかという説明は一切記されていません。この物語を非科学的だと非難する人々はこれがどのように増えたのか証明できないと考えています。つまり、彼らの関心はパンや魚が「どのように増えたのか」という点ですが、この福音書は最初からその部分には全く関心を持っていないことが分かるのです。ヨハネが読者たちに知ってほしいと願うのは「イエス・キリスト」であって、パンや魚がどのように増えたかと言うところではないからです。
2.イエスの力
①神による救いの出来事
さてこの物語は四つの福音書が共通して取り上げていますが、その内容はやはりそれぞれの福音書によって特徴があります。ヨハネではまず、今申し上げたようにこの出来事を「しるし」と言う言葉で紹介しています。また、ヨハネはこの出来事が「山」で起こったと記しますし、また起こった時も「ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた」時と記す点で他の福音書と異なっているのです。ヨハネはこの「山」がどこの山かは記すことなく、山で起こったこと自体が大切だと教えているようです。なぜなら、聖書では神と人との特別な出会いが起こる場所が「山」と言う言葉で表現されているからです。その代表的なものは旧約聖書のモーセの出来事です(出エジ19章)。モーセはシナイ山に上り、そこで神と出会い、神の戒めが書かれた二枚の板を受け取ります。そのような意味でヨハネはこのモーセの出来事に匹敵するような神と人との出会いがここで起こったことを教えていると考えることができます。
また、過越祭はユダヤ人が最も大切にした祭典です。昔、彼らの先祖がエジプトの地で奴隷であったときに神が救いの手を伸ばして、彼らを約束の地まで導いてくださったことを記念するものがこの過越祭です。ですからヨハネはこの祭りを記すことで、神がイエスを遣わすことによって再び救いの手を差し出しくださり、私たちを救い出そうとされていることを教えていると考えることもできるのです。
②貧しい少年の弁当
さてさらにここで興味深いのはこの物語では重要な品物となる五つのパンと二匹の魚についての説明です。マタイ、マルコ、ルカでは自分たちには「五つのパンと二匹の魚しかない」と弟子たちは語っているのですが、その出所がどこでから来たかは語られていません。むしろ他の福音書では五千人もの群衆がいるのに、ここにはこれだけしか食料がないと言うことが強調されて伝えられているだけなのです。ところがこのヨハネでは「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」(9節)と記されています。私たちはこのヨハネの記録によってこのパンと魚が元々一人の少年が持っていたものだったということが分かるのです。
大麦は日本では麦ごはんの材料として用いられますが、パンの材料としては小麦のようにグルテンが含まれていないのふさわしくはありません。大麦でパンを焼いてもひびが入ってしまい、おいしいパンを作ることができないからです。聖書の時代のユダヤで大麦は家畜の材料として用いられていたと言われています。つまり、そんな大麦でパンを焼くのは貧しい家庭であると言うことがわかります。もしかしたら、この少年の母親がイエスに会いに行こうとする少年のためにこの食物を持たせたのかも知れません。それともこのパンと魚は初めから少年を通してイエスに手渡すために持たせされて来たものなのかも知れません。そのいずれにしてもこの食物は貧しい少年の家庭から「イエスに食べていただこう」とささげられたものだと言うことが分かるのです。この少年の家庭にとっては自分たちが出来うる精一杯のささげものです。しかし、それは本当にわずかなもので、到底、五千人の群衆に役立つものとは言えないものでした。
このように考えると、この少年が持って来た五つのパンと二匹の魚は、私たちが神のためにささげるようとするものを象徴しているように思えるのです。私たちもまた、私たちを救い出してくださったイエスに感謝して、そのささげものを行います。ささげものの意味は他の誰かのためではなく、「イエスに喜んでいただきたい、イエスのためにささげたい」と言う動機からささげられるものなのです。それは私たちの力でできる精一杯の捧げものです。しかし、それがイエスの手に渡されるとき、その捧げものはすべての必要を満たすために用いられると言うのです。私たちの神への奉仕や献金は現実の目から見れば「ここには五つのパンと二匹の魚しかありません」と言えるようなものかも知れません。しかし、そのささげものがイエスの手に渡るとき、大きな力を発揮することを私たちはこの物語から学ぶことができるのではないでしょうか。
3.イエスに「しるし」が示すもの
さて、この物語は最初にお話したようにイエスのなされた「しるし」を通して、イエスが誰であるかを、あるいはイエスは何をするために来られたかを読者に教えています。少年が持って来た五つのパンと二匹の魚がイエスの手に渡され、そのイエスを通してそこに集まったすべての人に手渡されました。聖書はここで「男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった」(10節)と人数を報告しています。しかし、この数え方は当時のユダヤ人のやり方で、そこにいた女性や子どもたちの数が含まれていません。ですから、女性や子どもの数を含めると一万人近い人々がこの場所に集まっていたと想定されるのです。いずれにもしても、イエスの御業によってそこに集った人々のすべてが満腹になり、たくさんのパン屑が残されました。そのパン屑だけで十二の籠がいっぱいになったと報告されています(13節)。「十二」と言う数字は聖書が用いる完全数ですから、ここはむしろすべての必要がイエスによって完全に満たされたという意味を伝えていると言えます。
ところでここで食べて満足した群衆はこのイエスのなされたしるしを見て次のように考えたと記されています。
「そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った」(14節)。
人々はこのイエスの御業を見て旧約聖書に登場するエリヤやエリシャと言った預言者たちを思い出したのかも知れません。壺の中に残されたわずかな小麦粉と瓶の中のわずかな油を使ってエリヤのためにパンを焼いた寡婦の話では、不思議な力によって壺の小麦粉も瓶の油も尽きることがなく、寡婦の一家はこれによって飢饉の中で生き延びることができました(列王上17章8~16節)。またエリシャについては一人の男が持って来たパン二十個を使って百人の人々を満腹させ、なお残り物がでたと言うお話が残されています(列王下4章42~44節)。このように彼らはイエスを通して昔の預言者の物語と同じように神の業が現わされたということを理解したのです。彼らはイエスのなされたしるしを見てここまでは正しい反応を示した訳です。しかし、その後が問題です。なぜなら、この物語は次のような言葉で結ばれているからです。
「イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた」(15節)。
彼らはイエスを通して神の御業が現れたことは認めていました。しかし、その上で彼らが考えたことはその力を使って、自分たちの願いを実現させることだったのです。当時、ユダヤの国はローマ帝国の植民地とされていました。支配者たちはその力を使ってユダヤ人たちから収奪を行ったのです。だから当時の人々は自分たちをローマの厳しい支配から解放してくれるリーダーを待ち望んでいたのです。彼らにとってイエスはうってつけ人物と思われたのです。それにもし、自分たちが飢えることがあっても、イエスがいればその問題も解決することできます。しかし、それはイエスがこの地上に遣わされた目的と明らかに違っていまいした。だからイエスは彼らから離れ一人で山に退かれたと言うのです。
だいぶ以前、教会の礼拝に数回出席され、その後来られなくなった一人の方がおられました。しばらくしてその方から教会に丁寧なお手紙が届きました。その手紙には「私は私にピッタリの神様に出会いました。だから、私は教会にもう行きません」、そんな言葉が手紙には書かれていたのです。私はこの方が書いてきた「私にぴったりの神様」と言う言葉を今でも忘れることがありません。私はイエスを自分たちの王としようした人々の話を読むと、不思議とその方の書いた言葉を思い出すのです。
確かに彼らはイエスが自分たちにぴったりの救い主だと思ったのかも知れません。しかし、それは大きな誤解でした。なぜなら、本当に私たちが救われるために何が必要であるかを知っておられるのは、イエスご自身だからです。そしてそのイエスはご自分の行われた奇跡を通して、私たちに本当に必要なものが何であるかを明らかにしようとされたのです。残念ながら私たちは私たちに一番何が必要なのかを分かっていません。だからこそ、私たちがすべきことは福音書に記されたイエスの御業を学び、そこから私たちに本当に必要なものが何であるのかを知ることだと言えるのです。そして私たちはそのような意味で聖書の記しているイエスの「しるし」に向き合っていく必要があるのです。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.このときどうしてたくさんの群衆はイエスの後を追ったのですか。(1~2節)この群衆を見てイエスは弟子のフィリポにどんな言葉を語りましたか(5節)。
2.このイエスの言葉にフィリポは何と答えましたか(7節)。また、ペトロの兄弟のアンデレは何とイエスに語りましたか(9節)。
3.イエスは五つのパンと二匹の魚を使って何をされましたか(11~12節)。そこにはパン屑がどのくらい残されていましたか(13節)。
4.この出来事を体験した人々はイエスについてどのよう考えましたか。また、イエスはそのような人々の反応をご覧になって何をされましたか(14~15節)。