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  4. 7月7日「故郷の人々の不信仰」

2024.7.7「故郷の人々の不信仰」 YouTube

マルコによる福音書6章1~6節(新P.71)

1 イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。

2 安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。

3 この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。

4 イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。

5 そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。

6 そして、人々の不信仰に驚かれた。


1.故郷の人々の不信仰

①小さな集落ナザレ

 今日のお話はイエスの故郷で起こった出来事が報告されています。イエスの母マリアとその夫であったヨセフはナザレと言う村の出身であり、イエスもこの村で暮らしたことが分かっています。当時、このイエスと言う名前を持った人はたくさんいました。ですから人々はそれらの人と区別してマリアの子であるイエスを「ナザレのイエス」とその出身地の名前を付けて呼ぶことがありました。

 ナザレはイスラエルの北に位置するガリラヤ地方にあった村です。しかし、村と言ってもむしろ現代の私たちから見れば「集落」と呼んだ方がよいような場所であったようです。当然、その集落に住む人々の交流は現代の都市生活をする私たちには想像もつかないように緊密なものであったと考えることができます。その住民は自分と同じ集落に住む者の情報をほとんど把握して、知っていました。ある意味でそれは「大きな家族」のような存在であったとも言えるかも知れません。ところが、今日の物語ではその親密な村人の関係が大きな問題となってしまうのです。


②故郷の人々の反応

 この当時、すでにイエスの評判は国中に広まっていました。ですからその評判はナザレの人々の耳にも届いていたようです。「その評判のイエスがたくさんの弟子たちを連れて故郷に帰って来た」と言うのですから、ナザレの村は大騒ぎになったはずです。

 この日はちょうどユダヤ人たちが神を礼拝するために会堂に集まる日「安息日」でした。安息日の会堂では専門的宗教家に限らず、誰もが立って聖書の教えを人々の前で語ることが許されていました。ですからここでもイエスは会堂に集まった村人に対していつものようにお話をされたのです。するとその話を聞いた村人たちは驚きます。この驚きはイエスの語られた言葉に驚嘆する、ある意味で誰もが表す正しい反応であったと言うことができます。しかし、故郷の人々の行動はここからおかしくなっていきます。なぜなら、イエスの話に驚いた村人たちは次のような言葉を語り始めたからです。

 「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか」(2~3節)。

 彼らは確かにイエスの知恵とその手で行われた奇跡に驚き、またそれを認めていました。しかし、その後の彼らの反応が、結果的にはイエスに「つまづく」という新たな出来事を引き起こすこととなったのです。


2.自分の経験と知識のうちに答えを求める

①故郷の人々が陥った罠

 「人々はイエスにつまづいた」(3節)と聖書はここで記しています。この「つまづく」と言う言葉の元々の意味は「罠にはまる」とか「罠に陥る」と言う意味を持っています。もちろん、これはイエスや他の誰かが村人たちを罠にはめたと言う意味ではありません。村人たちは彼ら自身が自ら仕掛けた罠にはまってしまったと言ってもよいと思います。それでは村人たちはどんな罠にかかったと言うのでしょうか…。

 一言で言えば「自分はイエスのことをよく知っている」と言う村人たちの思いが、イエスを正しく知る機会を奪い、今日の事件を引き起こした原因と言えるのです。確かに村人たちはイエスのことをよく知っていました。またイエスの母や兄弟姉妹たちとも知り合いでした。村人たちはかつてヨセフの息子として大工の仕事に打ち込むイエスの姿を覚えていたはずです。また、今も村で共に暮らす彼の母マリアやその息子、娘たちのことも知っています。そしてそれが村人たち判断を狂わせる原因となりました。なぜなら彼らはその知識に基づいて「イエスは私たちと何も変わらない普通の人間でしかない」と言う結論を下してしまったからです。


②イエスは私たちと同じ人間

 現代の社会でもこれと同じような現象が存在しています。東大の西洋古典学研究室では今でも新約聖書を写本から検討し、ギリシャ語の知識を身に着けた研究者たちが研究を行っています。しかし、そのような研究をしている人が必ずしもキリスト教信仰を持っているのかと言えばそうではありません。なぜなら、彼らの聖書の学び方は私たちの学び方とその前提が大きく違っているからです。彼らは聖書を人間の記した文学遺産の一つとして研究しているのです。しかし、私たちは違います、聖書は神が私たちに与えてくださった大切な書物であり、その言葉を通して私たちは神に従うことができると信じているのです。だから私たちは毎日、飽きることなく熱心に聖書を読み続けることができるのです。

 ナザレの村の人々は「自分はイエスについてよく知っている」と言う誤った先入観を持っていたために、イエスを通して語られる神の言葉をまた神の御業を信じることができなくなってしまったのです。これが今日の物語が告げている故郷の人々に起こった出来事であったと言えるのです。


3.信仰とは

①本来の能力を発揮できない

 ここで聖書は大変に興味深いことを語っています。イエスは故郷の人々の不信仰に驚いて次のように語り、また行動されたと言うのです。

 「イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた」(4~5節)。

 この福音書が記された同時代のギリシャ語の文書の中に次のような言葉が残されていることが今では分かっています。

「預言者は自分の故郷では敬われない。また医者は彼を知る者の間では病気を治すことができない」。

 預言者にしても医者にしてもお互いの間に信頼関係がなければ本来の能力を発揮できないと言うことなのでしょうか。確かに、聖書はイエスが故郷の人々の不信仰に驚いたこと、またそのために故郷では「何も奇跡を行うことがおできにならなかった」とここで報告しているのです。


②イエスの決断

 しかし、ここで注意すべきなのはイエスが「何も奇跡を行うことがおできにならなかった」と言う言葉の解釈です。この言葉を聞いて「神の子であるイエスにもできないことがあるのか…?」と考えることも可能かも知れません。しかし神の子であるイエスには不可能なことは何も存在しないはずです。ですからここではその能力の限界が語られているのではありません。ここで大切になるのはそれを行うか、行わないかを決める権限はイエスの側にあると言うことです。つまり、イエスは自分の御業をイエスに対する信仰を持って従おうとする人々にあらわすことを決めていて、それ以外の人々には表さないことを決断されていたと考えることができるのです。

 前回の「十二年間も出血の止まらない女」と「会堂長ヤイロ」のお話でも私たちは学びました。この当時、難病で苦しみ続けていた人は他にもたくさんいたはずです。親しい家族や友人を病の故に失う人々も多くいたはずです。しかし、イエスがここでその御業を表したのは「イエスの衣に触れれば癒される」と信じた女性の上であり、娘が死んだという報せを聞いても「恐れることはない、ただ信じない」と語られるイエスの言葉を信じて従ったヤイロに対してだけでした。

 このようにイエスは今も昔も信仰を持ってイエスに従おうとする人に神の御業を豊かに表してくださると言うことができるのです。そのような意味では今日の故郷の人々はこの信仰の大切さを私たちに教えるために登場する反面教師とも言えるのです。

 「神がおられると言うなら、なぜ、世界には争いや問題が絶え間なく起こり続けるのか…」。あるい「神がいるなら、なぜ自分の人生は不幸の連続なのか…」。そんな抗議を神に向ける人が今でもいます。この問いが誤っているのは、第一に問題の原因を生み出しているのが人間の世界自身であり、また自分自身であるのに、その責任転嫁を神に負わせようとする点です。もう一つはこのような言葉は神を信頼しない人間の不信仰から生まれて来るものであり、神はそのような人間の上には決してその御業を表してはくださらないと言う点をです。


4.イエスはメシア

 あるときイエスは自分と共にいた弟子たちに「人々は、わたしのことについて何者だと言っているのか」と問われたことがあります。そこで弟子たちはイエスについての当時の人々の評判をここで告げています。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」

 ナザレの村の人々は自分の持っている知識に基づいてイエスを「大工ヨセフの子」と判断しました。同じように人々は自分の持っている知識に基づいてイエスが誰であるかをそれぞれ考えたのです。その答えを聞いたイエスは、今度は弟子たちに向って「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と尋ねられています。するとこのとき、ペトロが弟子を代表して「あなたはメシア」ですと答えたと言うのです(マルコ8章27~30節)。

 キリスト教会はこのペトロの答えを二千年以上の間、大切にして来ました。なぜなら、それはイエスに従う者が必ず告白する信仰の言葉と言えるからです。ここで語られている「メシア」とは救い主という意味を持ったヘブライ語の言葉です。この言葉をギリシャ語で言い換えると「キリスト」になります。そして「メシア」とは神が私たち人間を救うために遣わす人物を指す言葉です。だから神はこのメシアを通して豊かにその救いの御業を表してくださるのです。

 今日はこの礼拝で洗礼式を執行しました。この洗礼式は弟子のペトロと同じようにイエスを神から遣わされた救い主と告白する者が受ける儀式です。この世の人々は自分の人生を救ってくれる様々な手段を知っており、その中の何かを選んで生きています。しかし、私たちは自分を救うことができる方はこのイエスしかおられないと信じて、洗礼を受けるのです。ですからこれはある意味で、信仰を持ってイエスの服に触れた女性や、「恐れることはない。ただ信じなさい」と言う言葉に促されてイエスに従ったヤイロと同じ決断をしたことを表す行為であるとも言えるのです。そしてメシアであるイエスはこの信仰の決断をして洗礼を受け、イエスに従う人の人生の上にこれからも豊かにその御業を表してくださるのです。

 私たちは今日洗礼を受けられた一人の姉妹と共に、私たちの人生の上に豊かな御業を表してくださるイエスをほめたたえ、またそのイエスの御業を多くの人々に証していきたいと願うのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.故郷に帰ったイエスはそこで安息日に何をしましたか。それをしたイエスに対して故郷の人々はどのような反応を示しましたか(2節)。

2.ここで故郷の人々が語った言葉から、彼らがイエスの示した知恵や奇跡の根拠をどこに捜し出そうとしていたことが分かりますか(2~3節)。

3.このような故郷の人々が語った言葉から彼らがイエスにつまづいた原因はどこにあったとあなたは考えますか。

4.イエスはこのような反応を示した故郷の人々に対してどのような言葉を語りましたか(4節)。

5.聖書はイエスが故郷でしたこと、あるいはできなかったことをどのように報告していますか(5節)。

6.この物語からイエスの御業とわたしたちの信仰との間にはどのような関係があることが分かりますか(8節)

2024.7.7「故郷の人々の不信仰」