1. ホーム
  2. 礼拝説教集
  3. 2024
  4. 8月11日「罪のゆるし」

2024.8.11「罪のゆるし」 YouTube

旧約聖書:ミカ書7章18~19節(旧P.1458)

18 あなたのような神がほかにあろうか/咎を除き、罪を赦される神が。神は御自分の嗣業の民の残りの者に/いつまでも怒りを保たれることはない/神は慈しみを喜ばれるゆえに。

19 主は再び我らを憐れみ/我らの咎を抑え/すべての罪を海の深みに投げ込まれる。


ハイデルベルク信仰問答書

問56 「罪のゆるし」について、あなたは何を信じていますか。

答 神が、キリストの償いのゆえに、わたしのすべての罪と、さらにわたしが生涯戦わなければならない罪深い性質をも、もはや覚えようとはなさらず、それどころか、恵みにより、キリストの義をわたしに与えて、わたしがもはや決して裁きにあうことのないようにしてくださる、ということです。


1.罪とは何か

 今日の聖書箇所である旧約聖書のミカ書では神の赦しのすばらしさが表現されています。ミカは「主は再び我らを憐れみ/我らの咎を抑え/すべての罪を海の深みに投げ込まれる」(19節)と、読者の想像を駆りてるような言葉でその素晴らしさを示しているのです。この聖書の言葉を説明してある人は「神は私たちの罪のすべてを取り去って、その罪を海の底深くに沈めてくださいます。そして、その海に続く入江の先には『つり禁止』という看板が掲げられているのです」と言っています。せっかく、神が海の底深くに沈めてくださった罪を、もう一度勝手に吊り上げるように思い起こす行為は大変に愚かな行為であり、また決して信仰的なことではないと言っているのです。私たちは今日、ハイデルベルク信仰問答書が教える聖書の真理から「罪のゆるし」について学び、私たちの犯したすべての罪を赦してくださる神に感謝する信仰生活を送って行きたいと思うのです。

 「キリスト教は何かというとすぐ「罪」、「罪」と言ってくるので好きではない」。よくそんなことをおっしゃる方がおられます。確かに、キリスト教会では「罪」とか「罪人」と言う言葉が頻繁に語られています。それだけキリスト教を理解するためにはこの「罪」と言う言葉が重要であることが分かるのです。しかし、誤解してはならないのは聖書が「罪」と言う言葉で表しているのはこの世での法律違反の犯罪行為や、人間の道徳に反するような行いを指して言っているのではないと言う点です。

 聖書が語る「罪」と言う言葉は一言で表せば、私たち人間と私たち人間を創造された神との関係を表す言葉であると言うことができます。聖書に収められている創世記と言う書物には人間が神によって創造されたとき、人間は問題のない素晴らしい存在として造られたことが書かれています。しかし、それに反して今を生きている私たちはどうでしょうか。私たちの人生には問題が山積みされています。また私たち生きるこの世界もたくさんの問題を抱えています。それではなぜ、人間は聖書に記されている最初の状態からこのように変わり果てた姿になってしまったのでしょうか。それを私たちに教える言葉こそが聖書の語る「罪」と言う言葉です。そして「罪」とは私たちと私たちを造られた神との関係が破壊されてしまっていることを表す言葉でもあると言えるのです。

 病人を治療する医者はまず、その病人を苦しめている病気が何であるかを検査して調べます。その病気を知った上で、治療を始めるのです。病気の原因が正しく分かっていないのに、適当な薬だけを処方しても、その病人は癒されませんし、もしかしたらもっと悪くなってしまうかもしれません。聖書が「罪」と言う言葉を語るのは、私たちの人生を悲惨にしている根本的な原因がそこにあることを指摘し、その上で正しい治療法を示そうとしているからです。そのような意味で今日のテーマとなる「罪のゆるし」は私たちを苦しめている「罪」の問題を癒してくださる神からの正しい処方箋であると言ってもよいのです。


2.キリストを根拠にして

①罪人に対する神の愛

 さて聖書が語る「罪」とは私たちと神との関係を語ると今、説明しました。そしてこの「罪」の正体をもっと詳しく語れば、私たち人間が私たちを造られた神の御心に従って生きることなく、返って神に背き続けていることだと言えるのです。私たち人間は「罪」を犯すことで神の御心を傷つけ続けていると言うことになります。「足を踏まれた者の痛みは、足を踏まれた人にしか分からない」。そんな言葉を聞いたことが昔あります。「足を踏まれた者の痛みを、足を踏んだ方の人間は決して理解することができない」と言うのです。私たち人間が犯している罪がどんなに神の御心を苦しめているかについては神の言葉である聖書を読むとよく説明されています。

 私たちの住む人間社会であれば問題を起こす者は排除する、つまり処分することが行われます。しかし、聖書を読むとその点で神は私たち人間の考え方とは全く違う思いを抱かれることが分かるのです。たとえば、旧約聖書のヨナ書にはイスラエルの預言者であったヨナが自分たちにとっては憎むべき敵国であったアッシリアの都ニネベに派遣されるお話が紹介されています。神が罪に満ちたこの都を滅ぼすというメッセージをヨナは伝える使命を与えられたのです。ヨナはこの都が神によって滅ぼされることを期待していました。ところが神はこの都の人々が悔い改める姿を見て、その計画を変えてしまいます。ヨナ書はこの時の神の思いを次のように語っています。

「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」(4章10~11節)

 聖書には罪を犯して神の御心を苦しませ続けている私たち人間を愛し続ける神の姿が記されています。私たちは問題行動を立て続けに犯す人を見て「あの人はダメだ」と簡単に諦めてしまうかも知れません。しかし、神はそうではないのです。私たち人間を愛し続けて諦めることのできないのです。そしてその神が私たちの罪の治療ために提供する方法こそが「罪のゆるし」であると言えるのです。信仰問答はそのことについてこう解説しています。

「神が、キリストの償いのゆえに、わたしのすべての罪と、さらにわたしが生涯戦わなければならない罪深い性質をも、もはや覚えようとはなさら(ないこと)」

 ここには私たちが今まで神の御心に反して犯して続けて来た「罪」のすべてと、また依然としてこの地上では不完全な私たちがこれからも犯し続けるであろう罪を神はゆるして、もはやそれを覚えようとなさらない、つまり忘れてくださる姿が表現されているのです。


②ゆるしの確かさの根拠は何か

 ところで私たちは「人を許す」と言ってもそれがどんなに難しことなのかを自分たちの経験でよく知っているのではないでしょうか。なぜなら、私たちは自分が傷つけられたという経験をいつまでも忘れることができないで、そのために苦しみ続けているからです。

 以前、「過去に自分が他人から傷つけられたと言う思い出を忘れることができずに苦しんでいる」と言う人から電話で相談を受けたことがあります。その方は自分がどのように人に苦しめられたかを克明にお話されたのです。そのお話を私はつい最近に起こった出来事のように思いながら聞いていたのですが、実はそれが何十年も前に起こったことで、もうその方は自分を苦しめた人がどこいるか、生きているかもいないかも分からないと言うのです。そして、その方は今生きているかいないか分からない人たちのために今も毎日苦しみ続けていると言うのです。人の罪を許すことはたやすいことではないことが分かります。 神が私たち人間をゆるすと言うことはどういうことなのでしょうか。本当にそのゆるしは確かなものと言えるのでしょうか。そのことについてハイデルベルクは最初のところで「神が、キリストの償いのゆえに」と言う言葉を添えて説明しています。

 神のゆるしは単なるひと時の思い付きのようなものではありません。むしろ私たちの犯した罪がキリストよって償われているからこそ、私たちにゆるしが与えられるのです。聖書は私たちが自分の犯した罪を償う能力を持っていないことを教えています。だからこそ神は私たちのために救い主イエスを遣わしてくださり、私たちに代わって罪を償わせると言う方法をとってくださったのです。

 新約聖書の中でイエスはご自身がこの地上に遣わされた理由を次のように人々に語っています。

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マルコ2章17節)

 この言葉のようにイエスは私たちの罪を解決するために遣わされた方です。そして私たちを罪の病から癒すこの名医は自分が十字架にかかり、命をささげることで、私たちの犯した罪を代わって償ってくださったのです。


3.キリストの義を与えてくださる

①恵みによって

 ハイデルベルク信仰問答はこのキリストの償いについて後半部分で次のように続けて解説しています。

「それどころか、恵みにより、キリストの義をわたしに与えて、わたしがもはや決して裁きにあうことのないようにしてくださる、ということです。」

 まず、ここで大切になる言葉は「恵み」です。私たちが神にゆるされる根拠はキリストのなしてくださった「償い」によってです。そしてキリストはこの「償い」のために十字架にかかり、御自身の命をささげてくださったのです。これは私たちがゆるされるためにキリストの命と言う高価な代償が支払われたことを言っています。それではキリストの償いを通して神からゆるしを受ける私たちには何が求められるのでしょうか。その答えは「何も必要ない」と言うことです。私たちはキリストの償いの故に罪のゆるしを無償、ただで受けとることができるのです。このように「恵み」と言う言葉はそれが無償で、私たちには何も求められていないことを語る言葉なのです。

 私たちは信仰を誤解して、罪のゆるしをいただくために私たちが神に支払う何らかの代償だと考えることがあります。しかし、信仰にはそのような意味は全くありません。ですから宗教改革者のマルチン・ルターは信仰についてそれは「物乞いが、施しを受けるために差し出す手のようなものだ」と言っています。神は私たちの差し出す信仰と言う手の上に、黙ってキリストの恵みという宝を置いてくださるのです。

 今私たちはこの信仰によってキリストが十字架を通して勝ち取ってくださったすべてのものを私たち自身のものとすることができるのです。私たちは「キリストの義」、キリストの正しさを自分のもととすることができるのです。そこで信仰問答はこう断言します。

「わたしがもはや決して裁きにあうことのないようにしてくださる、ということです」。

 日本の法律でも刑事事件の裁判で一度判決を受けて結審した者が、同じ罪を理由に再度裁判に訴えられることはないと言う「一事不再理」と言う決まりがあるそうです。私たちの神も私たちの罪の問題について、キリストが私たちに代わって裁かれることで、再び私たちを裁くようなことはなさらないと言うのです。つまり、私たちは一度、神が決めて下さったことが、何らかの理由で変わってしまのではなかと心配する必要は一切ないのです。


②完全なイエスの償い

 このように神のゆるしの確かさをハイデルベルク信仰問答が教えている背景には宗教改革時代に当時のカトリック教会が聖書とは違う誤った教えを人々に語っていたことが背景にあると言えます。なぜなら、彼らはキリストによる償いは洗礼を受ける前に犯した出来事にだけ適応され、信徒は信仰生活の中で犯す罪を自分の力で償い、神父を通してゆるしをもらう必要があると教えたのです。よく映画やドラマで神父と信徒が小さな部屋に入って罪の告白をするという場面が登場するものがあります。カトリックの信徒には自分が日々犯す罪を定期的に教会に行って、神父に告白してゆるしをもらわなければならないという義務があるのです。そうしないと神の裁きを受けて、簡単には天国には行けないと教えたからです。

 このような教えに対して宗教改革者はキリストの償いの完全性を語りました。私たちの罪はすべてキリストの償いよって神のゆるしを受け、もはや私たちは再び神に裁かれることはないと教えたのです。

 確かに私たちも信仰生活の中で神に従うことができずに度々罪を犯し、またそのことで悔いることがあります。私たちもそのために聖餐式を受ける際に、礼拝の中で罪の告白をしています。しかし、これは私たちが自分の犯した罪を償うためになしているものではありません。そうではなく、そのように罪を犯し続ける私たちがキリストの償いによって、今、完全なゆるしを受けていることを確認するためのものと言えるのです。

 私たちが自分の犯した罪の重大さを知り、またそれを悔いることは大切です。しかし、その思いはそこで終わってしまってはいけないのです。その私のために救い主イエスが来てくださったこと、またそのイエスによって私たちの罪が完全にゆるされていることを確信する必要があります。だからこそ私たちは私たちの罪をゆるす神の御業を喜び、感謝をささげる信仰生活をこれからも送るために、自分の罪と向き合い、その罪を償ってくださった主イエスの御業に私たちの信仰の目を向け続けて行きたいのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.あなたもハイデルベルク信仰問答の問56の文章を読んでみましょう。

2.信仰問答は神が私たちの罪をゆるすことで、わたしたちの何を「もはや覚えようとしない」と教えていますか。

3.「キリストの償いのゆえに」と言う信仰問答の文章は私たちが罪のゆるしを受けることのできる根拠をどのように示していますか。

4.信仰問答の語る「恵みにより」と言う言葉はどのようなことを教えていますか。この恵みと私たちの信仰にはどのような関係があると言えますか。

5.信仰問答はキリストの償いによって実現した神のゆるしにより、私たちがもはや「裁きにあうことはない」と教えています。この救いの事実は私たちの信仰生活にどのような喜びと確信を与えますか。

2024.8.11「罪のゆるし」