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2024.8.18「天から降って来たパン」 YouTube

ヨハネによる福音書6章51~58節(新P.176)

51 わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」

52 それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。

53 イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。

54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。

55 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。

56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。

57 生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。

58 これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」


1.つぶやくユダヤ人

①「群衆」から「ユダ人」へ

 五つのパンと二匹の魚から五千人の人々の食事を準備したイエスの奇跡の物語(1~15節)をきっかけにしてイエスを自分たちの王としようと探し求めた群衆、その群衆に対してイエスが語られたお話が今日も続いています。イエスはここで「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(35節)と語り、私たちのために命のパンとして来られた救い主イエスを信じることが大切であることを教えています。

 イエスのお話はこの後も続くのですが、今日の朗読箇所の少し前の41節からヨハネの福音書の記述にはいくつかの変化が生まれています。その第一はイエスの後をここまで追いかけて来た人々が「群衆」(22、24節)と言う呼び方から「ユダヤ人たち」(41節)と言う呼び方に急に変わることです。ここで突然イエスの話を聞いている人々が別人になってしまった訳ではありません。これはむしろ、イエスの話を聞いていた人々の態度がここで大きく変化したことを表現しているのです。そしてヨハネによる福音書はこの決定的な変化がどのようにして起こったかについて次のような言葉で記しています。

「ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め」(41節)。

 彼らはイエスのなされた素晴らしい奇跡から、イエスを旧約聖書の中に現れるような偉大な預言者と同じような方だと認めていました。だからこそ彼らはいつの間にか自分たちの前からいなくなってしまったイエスを捜し出すために必死になって行動したのです。ところが彼らはそのイエスの語られる話をここまで聞くと、急に態度を変え「つぶやき始め」と言うのです。

 この「つぶやく」と言う言葉は日本語の辞書を引くと「小さな声で話す」という説明がまず示されます。どちらかというと周囲に分からないにように小さな声で不満を語ると言う意味で使われるようです。しかし、この点において聖書が使う「つぶやく」と言う言葉を大きく意味が違います。「つぶやき」の代表的な例は旧約聖書に登場する荒れ野をさ迷ったイスラエルの民です。神はエジプトで奴隷となり苦しんでいたイスラエルの民を救い出すためにモーセを遣わして、彼らを荒れ野へと導きました。ところがイスラエルの民は荒れ野での過酷な生活に辛抱しきれずに、神に対して「つぶやいた」のです。この場合の「つぶやく」は自分たちのために神が立ててくださった計画に異を唱え、大きな声で抗議すると言うような意味を持っています。これはここでイエスからお話を聞いていた人々も同じであったと言えます。彼らは小さな声で不満を語ったのではありません。彼らは神がイエスを通して実現されようとしている救いの計画に対して、明確に反対し始めたのです。


②自分の知識や経験

 それではなぜ、彼らはイエスを通して実現されようとしている神の計画に反対するような愚かな行動に出たのでしょうか。その理由を福音書は6章42節で次のように語っています。

「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」

 彼らはイエスを理解しようとするために大切な判断材料として自分たちが持っていた知識と経験を使ったのです。このお話はガリラヤ湖の近くにあったカファルナウムの町が舞台になっていると考えられています。イエスの出身地のナザレもこの同じガリラヤ地方にありましたから、群衆の中にナザレから来た人々も混じっていたと考えることができます。彼らは自分たちが知っていたイエスの家族関係を取り上げて、「これはヨセフの息子のイエスではないか」とイエスを預言者の一人と考えていた人々の考えを退けてしまうのです。そしてこの話を聞いた人々の大半も彼らの言葉に説得されてしまったのです。

 もうだいぶ前のことですが、ある雨の降る日に見知らぬ青年が一人で教会を訪ねてきたことがありました。彼は「キリスト教について教えてほしい」と願ったので、私は簡単にキリスト教についてのお話を彼にしました。その後彼は「分かりました。それでは失礼します」と足早に教会を去ろうとするのです。私は「是非、日曜日の礼拝に来てください」と伝えました。すると青年は「これから天理教の教会に行ってお話を聞いてみようと思います」と言うのです。よく聞いてみると彼は私たちの教会に来る前に、どこかのお寺を訪ねてお坊さんからすでにお話を聞いてきたらしいのです。そして彼はそう言いながら「自分が信じれる宗教を見つけたい」と語るのです。私は彼の話を聞いて「信じられるものを見つけたい」と言う熱心な求道心を感じました。しかし、私は彼が立ち去った後、「彼は結局どうやって自分の信じれる宗教を見分けることができるのだろうか…?」と言う疑問を感じざるを得なかったのです。

 私たちの持っている知識、またその経験は不確かであやふやなものでしかありません。それを持って真理を判断しようとするのは難しいことではないでしょうか。むしろ聖書は神の言葉を通して真理を見極めることを私たちに勧めているのです。もし、イエスの話を聞いていた人々が自分たちの経験や知識ではなく、神の言葉に基づいてイエスについて考えようとしていたなら、彼らは「つぶやく」のではなく、イエスを通して実現しようとしている神の救いの計画を知り、喜びを持って受け入れることができたはずだからです。


2.血はいのち

①ひどい話

 さてヨハネによる福音書の記述の変化は他にもあります。特に今日の箇所である51節から現れるのは今まで命のパンであるイエスを受け入れ、そのイエスを信じることが永遠の命を得るために必要なことが教えられて来ました。しかし、ここから「信じる」と言う行為ではなく、イエスの肉を食べること、またその血を飲むことと言う具体的な行為が強調され始めるのです。ですから聖書を研究する学者たちはこの部分にはヨハネがこの福音書を書いた時代に聖餐式を守ることを重要視した教会の教えが反映されていると主張します。つまりその教会の教えが福音書の記者によってイエスの物語に付け加えられていると言うのです。だとすれば、なおさらのことこの箇所を私たちが毎月の礼拝で守っている聖餐式の意味を正しく理解するために重要であると考えることができるのです。

 世界の宗教を調べてみてもその宗教の開祖の肉を食べ、また血を飲むという教えを大切にしている宗教団体は他にはないと言います。この後、イエスの話を聞いていた人々は、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始め(52節)、ついには「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」(61節)と叫び出します。そしてイエスの後を追って来た群衆はもちろんのこと、イエスを信じてここまで従って来た弟子たちの多くもイエスから立ち去って行ったと聖書は伝えるのです。


②血は命をあらわす

 特にここでユダヤ人たちがつまずいたのは「血を飲む」と言うイエスの語った言葉です。なぜなら旧約聖書は血を飲んだり、食べたりすることを固く禁じているからです(レビ記17章)。だからこの掟を熱心に守るユダヤ人たちは動物の肉を食するときには、必ずその血を抜き取って食べるようにしたのです。それではなぜ、神はそのように血を飲むことを固く禁じたのでしょうか。それは「すべての生き物の命はその血であり、それは生きた体の内にある」(14節)とレビ記17章の中でも語られているように、血は命そのものを表すと考えられていたからです。つまり、イエスがここでご自身の肉を食べ、また血を飲むようにと教えているのは、私たちを救うためには、イエスの命が必要であることを示されようしたからです。

 しかし、イエスの話を聞いた群衆は「血を飲む」ことを禁じた律法を知っていても、もう一方でこの血が人間の救いのために重要な場面で用いられて来たことを見逃していました。なぜなら、旧約聖書の定める贖罪の儀式、つまり祭司が罪のゆるしを神に願うために行なった儀式では、祭壇に動物犠牲の血を振りかけることが求められているからです(レビ記16章)。このことについて新約聖書のヘブライ人への手紙には「血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです」(9章22節)とその意味を語っています。

 ですから聖書を読む人は罪人である私たちの罪が赦され、私たちが命を得るために、イエスの命が十字架上でささげられ、そこで血が流れなければならなかったことを知ることができるのです。


3.イエスを食べる意味

①イエスと私たちの関係

 そしてイエスはご自分の肉を食べ、その血を飲む者について次のような約束を私たちに教えてくださっています。

「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」(56節)。

 ここには私たちと私たちの主イエスとの間に結ばれる命の関係が語られています。イエスはこの後、この関係を有名なぶどうの木のたとえを通しても説明されています(ヨハネ15章1~10節)。

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」(5節)。

 イエスはこのようにご自分の肉を食べ、その血を飲む者、つまり教会で行われている聖餐式に参加する私たちとの間にご自分との固い命の関係が結ばれていることを教えてくださっているのです。つまり、聖書が語る永遠の命とは私たちの主であるイエスの命を指す言葉であり、そのイエスに信仰を持ってつながる私たちにはこのイエスの命、永遠の命がぶどうの木がぶどう枝を通して実を結ぶように、自分たちの人生を通して実現するのです。


②信仰は父なる神が与えてくださるもの

 私たちはこのイエスとの関係を聖餐式にあずかるごとにはっきりと示され、その救いを確かめることができるのです。もう何度も、この講壇から語りましたが、私が教会に行ってイエスを信じて洗礼を受けた時、それを後で知った私の古い友人たちは「今度は、どのくらいもつのかな…」とうわさしていました。彼らは熱しやすく冷めやすい私の性格をよく知っていました。もちろん、私はいつも真剣に考えて行動しようとしたと思っているのですが、残念なことにすぐにその自分の確信が揺らいでしまい、考え方を変えざる得ないことが度々起こったのです。

 もし、私たちのイエスへの信仰が、頼りにならない私たちの考えや、心から出ているとしたら、それはすぐに揺らぎ跡形もなくなくなってしまう可能性があります。しかし、イエスは私たちに与えられている信仰はそのようなものではないとはっきりと教えてくださっているのです。

「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。…父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」(ヨハネ6章35、37節)。

 イエスは私たちがイエスの元に来ることができたのは、そして私たちがイエスを信じることができたのは父の御業の結果であるとここで教えてくださったのです。つまり私たちに与えられた信仰は私から出たものではなく、父なる神の救いの計画から出たものだと言っておられるのです。このように聖書が語る神の計画とは、弱い私たちを慰め励ますために教えられているのです。

 教会の祈祷会の席でよく「自分の体が日々衰えて行くことを感じている」と繰り返し語られる方がおられます。同席する私たちもその方の話を聞いて、「それは私たちも同じだな…」と感じるのです。自分が明日どうなっているのか、私たちは誰もわからないのです。確かだと思っていたものが、そうではなくなってしまうことを私たちは日々の生活で体験しています。私たちの中には「もし、自分が将来認知症になって、神のことさえ、イエスのことさえわからなくなってしまったらどうしようか」と不安になられる方もおられるかも知れません。しかし、聖書はその心配は無用だと私たちに教えているのです。なぜなら、私たちの救いは神の計画によるものだからです。そしてその計画は私たちの人生に何が起こっても変わることがないのです。

 もしかしたら私たちは自分の力で必死になってイエスにすがりつこうとしているのかも知れません。だから、その自分の力が衰えていくことを私たちは信仰の危機と勘違いしてしまうのです。しかし、実際に私たちをつかんで離さないのはイエスの方なのです。イエスは私たちがたとえどんなに変わっても、その握った手を決して放すことはありません。そしてそのイエスが私たちに自分の肉を食べないさい、そして血を飲みなさいと聖餐式を定めてくださったのです。

 それは日々、自分の弱さを感じる私たちのために与えられているものです。目の前に起こったできごとに影響されて、心乱れる私たちに平和を与えるためにです。イエスは聖餐式にあずかる私たちがパンとぶどう酒を飲むたびに、御自分が成し遂げてくださった救いが確実であることを私たちに教えてくださるのです。今は私たちの罪ある目には見えませんが、私たちのそばにいて、私たちを決して放すことのない主イエスを、私たちは聖餐式のパンとぶどう酒を通して確かめることができるのです。このようにイエスの肉を食べ、その血を飲む者にはイエスによって永遠の命が与えられ、その救いが保証されているということを私たちは今日のイエスの言葉から学ぶことができるのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.イエスが私たちのために与えてくださるパンとはどのようなものですか(51節)。この言葉を聞いてユダヤ人たちは互いにどのようなことを激しく議論し始めましたか(52節)。

2.イエスは「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者」にどのような約束を語ってくださいましたか(54節)。

3.さらにイエスは「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者」とご自身との関係、父なる神との関係をどのように教えてくださいましたか(56~57節)。

4.このイエスの言葉が、私たちが毎月の礼拝で守っている聖餐式の意味を教えるものだと考えるならば、私たちはこのイエスの言葉からどのような慰めと励ましを受けることができるでしょうか。

2024.8.18「天から降って来たパン」