2024.8.25「永遠の命の言葉を持つ方」 YouTube
ヨハネによる福音書6章60~69節(新P.176)
60 ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」
61 イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。
62 それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。
63 命を与えるのは"霊"である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。
64 しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。
65 そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」
66 このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。
67 そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。
68 シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。
69 あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」
1.人々の離反
①イエスと群衆の間で続いた会話
しばらくの間、この礼拝ではヨハネによる福音書が伝える五つのパンと二匹の魚で五千人以上の人々に食事を与えてくださったイエスの奇跡から始まる物語について学んで来ました。そしてこの物語は今日の部分でひとまず結末を迎えることになります。ヨハネによる福音書はイエスのなされた不思議なみ業、つまり奇跡を「しるし」と言う言葉を使って紹介しています。これはイエスのなされた「しるし」が、イエス自身がどのような方であり、何をするためにこの地上に来てくださったのかを示す重要な役割を持っているからです。しかし、この「しるし」の意味を理解できない多くの人々は、イエスを自分たちにとって都合のいい存在とだけ考えようとしました。その結果、彼らはイエスを自分たちの王としようとしたのです。そのためイエスはこの人々の前から姿を突然消してしまいます。ところがイエスが自分たちの前からいなくなったことを知った人々は、イエスの後を追い、やっとの思いでイエスをカファルナウムという町で見つけ出します。そしてここで再会できたイエスと彼らとの間で会話が始まります。この会話の目的はイエスが示した「しるし」の意味を教えるためです。そしてイエスはご自分が「天から降って来たパン」であることを示し、その天からパンであるイエスを信じる者には神から永遠の命が与えられることを語られたのです。
②ユダヤ人とキリスト教会との対立
しかし、これまで私たちも学んできたように、イエスの話を聞いた人々はその話の真意を全く理解することができませんでした。むしろ、彼らはこの話を受け入れることができずにイエスに敵対する者と変わって行ったのです。ヨハネはそのために今まで使っていた「群衆」と言う表現をここから「ユダヤ人」と言う表現に変えて彼らの豹変を説明します。今日の部分ではイエスに反感を抱いて離れて行ったのはこの「ユダヤ人」と変わった「群衆」だけではなく、イエスにこれまで付き従って来た弟子たちもたくさん含まれていたことが語られています。つまり、ここでは「イエスの弟子」たちさえイエスに敵対する「ユダヤ人」へと変わって行ったことが述べられているのです。
聖書学者たちはこの福音書の記述の背景にはこの福音書を記したヨハネの時代の出来事が影響していると考えています。なぜなら、ヨハネがこの福音書を記した時代、ユダヤ教とキリスト教会の対立が決定的な段階を入っていたからです。それは紀元80年にユダヤ人の宗教指導者たちがキリスト教徒を自分たちの共同体から公に追放するという決定を下したことに表れています。それまで使徒言行録は初代のキリスト教会の信徒たちがユダヤ人と同じようにエルサレム神殿に詣でたり、あるいはパウロが伝道をするときにはまずユダヤ人の集まる各地の会堂を行ったことを報告しています。ヨハネの福音書が記された時代にはエルサレム神殿はすでに無くなっていました。ですから海外に散らされたユダヤ人はそれぞれの場所に会堂を立て、そこで礼拝を守っていたのです。そのユダヤ人の宗教指導者たちが「キリスト教は自分たちの信仰とは全く相容れない異端の宗教である」と言う決定を正式に下したが紀元80年に起こった出来事です。そのためたくさんの人が信仰を捨てキリスト教会から離れ、ユダヤ人のコミュニティーに戻って行くと言う出来事が起こりました(ヨハネ一2章18~27節参照)。今日の福音書の物語はなぜこのようなことが起こるのかを、イエスのお話から学び、イエスを信じて生きるとはどのようなことなのかを私たちに改めて教えようとしているのです。
2.パンを食べて満足した人々
①食べ物があり、健康が維持され、金持ちであること
まず、イエスの周りに集まった群衆はなぜイエスを信じることができなかったのでしょうか。イエスはその原因を彼らに次のように語っています。
「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」(26節)。
群衆はイエスのことについてほとんど理解していません。彼らがイエスを捜し求めた動機は「パンを食べて満腹したから」です。つまり、彼らはイエスに続けて「同じような出来事を引き続き起こしてほしい」と期待したのです。この点において彼らが自分たちの人生で重要であると思っていたことが何かが分かります。それは食べることに困ることがないこと、健康が守られること、またそれらを維持するために財産が必要になると言ったことです。そしてイエスはそれらのものを自分たちに十分に与えてくれればよいと彼らは考えたのです。もちろん、私たちの生活でもこれらのものは無くてはならない大切なものであると言うことは確かです。最近の日本でも貧困の問題が深刻であることが叫ばれています。貧しい母子家庭の子どもは一日三食の食事を十分にとることができません。そうすれば子供たちの健康が損なわれる可能性があります。そしてそのような貧しさを抱える家庭の子供たちからは十分な教育を受ける機会も奪われていきます。私たちはこのような問題を他人事ではなく、私たちの問題として考え、その解決を神に祈り求めて行く必要があると思います。
しかし、もし信仰とはこれらの問題を解決するためだけにあると考え、神の祝福とは私たちの毎日の生活を豊かにすることだと考えるなら、そこには問題が起こって来るはずです。今、貧しさで苦しんでいる人は、深刻な病のために苦しんでいる人は、神に愛されていない人たちなのでしょうか。彼らは神を信じず、神を愛していないから神からの罰を受けているのでしょうか。
②私たちの人生を用いて下さる神の計画
実はこのヨハネによる福音書はこのような信仰の問題に真正面に向き合おうとします。それはこの礼拝でも何度も語った生まれつき目が見えない人についての物語でも同じです(9章)。この物語の主人公は生まれつき目が見えません。そのために彼にできたのは道に座ってそこを通りかかる人に施しを求めることだけでした。彼は生まれたときから人生の可能性を奪われた不幸な人と考えられていたのです。だから、当時の人々はこの人が神に見放されていると考えるだけではなく、誰かの罪の罰を受けてこのような不幸な人生を送っているのだと考えたのです。しかし、イエスだけはこの人の人生の本当の意味を知っていました。だからイエスはこの人について次のように語ったのです。
「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(3節)。
貧しさも、病も神からの罰では決してありません。その人の人生が神から見放されているからそうなっているのでもありません。むしろ私たちの人生にはそれぞれ異なった神の計画があるのです。そして神はその人の人生に起こるすべての出来事を用いて、神の素晴らしい御業をその人の人生に表してくださるのです。イエスはこの神の計画がどのようなものであるかを知っておられます。いえ、イエスがその人の人生を深く関わって神の素晴らしい御業を表してくださる方だと言えるのです。だからイエス、御自分の周りに集まった群衆に次のように語りました。
「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。」(27節)。
イエスはわたしたちを金持ちにするために来られた方ではありません。イエスを信じれば問題のない人生を送ることができるわけでもありません。しかし、イエスを信じれは私たちの人生の秘密が分かるのです。私たちの人生に起こる出来事のすべてを用いて、神が私たちに永遠の命の祝福を与えてくださることが分かるのです。そしてこれこそがイエスが語る「いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物」であると言えるのです。
群衆はこのイエスが語る祝福を理解することができませんでした。むしろ彼らはイエスが自分たちの願望に答えることができないと考え、イエスに失望してその周りから離れて行ったのです。
3.天から降って来たパン
①イエスは律法を教える教師?
群衆はこのようにイエスを「都合のよい」救い主と信じようとしました。イエスを信じれば、自分の人生に不都合なことは何も起こらなくなると考えたのです。しかし彼らはイエスがそのような方ではないことを知り早々に彼の前を立ち去って行きました。しかし、今日の箇所では彼らだけでなくこれまでイエスに従って来た弟子たちの大半の人々がイエスの前から離れ去って行っています。それではなぜ彼らはイエスの前から立ち去って行ったのでしょうか。彼らはイエスの話を聞いて「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」(60節)と語ったと言われています。
この「ひどい話」とは既に学びましたように、イエスが「私の肉を食べ、血を飲む」と言う言葉を語ったからだと考えることができます。彼らはこのイエスの言葉からイエスを通して実現するはずの神の救いの計画を理解しようとしたのではなく、その言葉が聖書の教える神の掟、律法に反することを問題にしました。この点で彼らは自分たちの救いは神の律法を自分の力で守ることで実現するとまだ考えていたことが分かります。つまり彼らはイエスを旧約聖書に記されている律法を教える教師と考え、イエスに対してそれ以上の期待を持っていなかったことが分かります。
②天から来られたイエス
さらに彼らをつまずかせる原因があったとすれば、おそらくそれはここまで何度もイエスが語っている「わたしは天から降って来たパンである」と言う言葉です(41節)。実はこの言葉がユダヤ人たちに与えた衝撃は、ある意味で私たち日本人には理解しにくいものであると言えます。なぜ、なら私たちの知っている日本の宗教では神と人との区別は非常にあいまいだからです。そのような意味で私たち日本人は「神が人となった」とか、「人が神になる」と言った言葉を聞いても何の抵抗感も感じることがないばかりか、むしろ簡単に納得してしまう傾向があります。
しかし、聖書を信じるユダヤ人にとってこれは到底受け入れることができない考え方でした。なぜなら彼らは神と人とは全く違った存在であると信じていたからです。聖書は神が天地万物を創造された方であることを教えています。そしてその神の創造の御業の中で造られたものの一つが私たち人間です。つまり、神と人間は創造者とその被造物と言う関係であり、この違いは変わることがありません。つまり、聖書を信じる人とっては神が人となったり、人が神になると言うことは決してあり得ませんし、ましてやそれを信じることはできなかったのです。
イエスは「天から降って来たパン」であると語られています。これは言葉を変えて言えば「自分は神が住む天からやって来た者」、つまり「自分は神だ」と言っているに等しい言葉だったのです。この言葉を聞いた一部の人は「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか」(42節)とイエスの言葉を真っ向から否定しようとしました。つまり、彼らにとっては「天から降って来たパン」と語るイエスは「自分は神だ」と言っているような神を冒涜する不心得者でしかなかったのです。だから弟子たちの多くはこのイエスの言葉を聞いて「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」と口々に語り、イエスの前から去って行ったと考えることができるのです。
4.ペトロの告白
さてこのお話の結論部分はイエスが残っている十二人の弟子たちに、「あなたがたも離れて行きたいか」(67節)と質問した言葉から始まります。そしてこの問いに答えて弟子の一人であるペトロが「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています」(68~69節)と語ったと言うのです。
ペトロはここで「他の人たちはともかくとして、自分たちにはもう行くところがない」と答えています。その理由はイエスだけが「永遠の命の言葉を持っておられる」からだと言うのです。もちろん、この言葉を語ったペトロさえもイエスがユダヤ人たちに逮捕されたとき、他の弟子たちと共にイエスの前から逃げ出して行ってしまっています。さらに残された十二人の弟子の一人であるイスカリオテのユダはユダヤ人たちにイエスを売った張本人です。しかし、この言葉を語ったペトロや他の弟子たちイエスの復活の以後、キリスト教会の礎を築く大切な役割をした人であることも事実であり、その点で彼らはまさに神に選ばれた人たちと言えます。そのような意味でこのペトロの言葉もまた、神がイエスへの真の信仰の意味を伝えるためにペトロの口を通して私たちに教えてくださったとも言うことできます。
それでは聖書が教えるイエスへの信仰とは何でしょうか。それは私たちを救いえる方はこのイエスしかおられないこと、他に私たちが救いを求めるところはないと言うことを認め、信じることです。そしてその上で、私たちに神の御心を教え、私たちの人生の秘密を知ってくださっておられる方も神の元から遣わされた方であるこのイエス以外におられないことを認め、信じることにあるのです。
先ほど、お話した生まれた時から目が見えなかった人は、イエスを通して自分の人生に隠された本当の意味があったことを知らされました。またイエスはこの人の目を開かれることで、神の御業を豊かに彼の上にあらわしてくださったのです。このときイエスに敵対するユダヤ人たちは彼がイエスのすばらしさを表す生き証人となることを恐れました。そして最後には彼をユダヤ人の共同体から追放するという決定を下しています(9章34節)。しかし、それでも彼のイエスへの確信は揺らぐことがありませんでした。なぜなら彼は自分の人生に起こった出来事を通してイエスが永遠の命の御言葉を持っておらえる方、神から遣わされた方だということを信じることができたからです。そしてイエスは今もイエスを信じる私たちの人生に同じように働いてくださるのです。私たちの人生が神の御業があらわれるためにあることを信じることができるようにしてくださるのです。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.弟子たちの多くはイエスの話を聞いてどのようなことをつぶやきましたか(60節)。
2.イエスはこのようにつぶやく人々がさらに驚くべき出来事があると言っています。それは何ですか(61~62節)。
3.イエスはご自分が語られた言葉を、この世の思考では理解することはできないことをどのような言葉で教えていますか(63節)。
4.イエスは誰がお許しにならなければ、御自分の来ることはできない、イエスの弟子になることできないと教えていますか(65節)。
5.イエスは残された十二人の弟子たちに何と尋ねられましたか(67節)。この質問にペトロは何と答えましたか(68~69節)