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  4. 8月4日「何が人を生かすのか」

2024.8.4「何が人を生かすのか」 YouTube

ヨハネによる福音書6章24~35節(新P.175)

24 群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。

25 そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。

26 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。

27 朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」

28 そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、

29 イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」

30 そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。

31 わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」

32 すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。

33 神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」

34 そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、35 イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。


1.パンに満ち足りて、しるしを見ない

 今日の聖書箇所には「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(35節)と言う大変に有名なイエスの言葉が記されています。これは私たちがこの後で行う聖餐式の式文の中にも収められている御言葉です。どうして私たちは毎月の礼拝で聖餐式を行うのでしょうか。その意味を示す言葉の一つとしてこのイエスの言葉が式文では引用されているのです。それではイエスが「命のパン」であると言うことはいったいどういうことなのでしょうか。私たちは今日の聖書の言葉を読みながら、そのことについて考えてみたいと思うのです。

 さて、今日の物語ですが、私たちが先週学んだ五つのパンと二匹の魚で五千人以上の人々の飢えを満たしたというイエスのなされた出来事の続きです。このときイエスによって食物にあずかることができ、満腹した大群衆は大変に驚いて、改めてイエスの存在のすばらしさに気づいたようです。彼らはイエスを旧約聖書に登場するような偉大な預言者の一人として認めるような発言をここでしているからです(14節)。しかし、彼らが本当にイエスを神から遣わされた預言者であると認めていたならば、まずイエスを通して伝えられる神からのメッセージに耳を傾けようとしたはずです。しかし、彼らはそうではありませんでした。彼らは自分たちの都合を優先して、その都合によいと言う理由で、イエスを自分たちの王としようとしたからです(15節)。

 このすれ違いは今日の物語でも続いています。ここではイエスと群衆との間で交わされた会話が記録されています。しかし、この会話は互いの理解を深めるというよりは、むしろその亀裂を大きくしていくような形で進められて行きます。興味深いのはこの会話が進むにつれて福音書の記者ヨハネはイエスと会話を交わしていた人々を「群衆」から「ユダヤ人」と言う呼び名に変えているところです(41節)。ヨハネによる福音書の中で「ユダヤ人」と呼ばれる人々は神から遣わされた救い主イエスを拒み続け、そのイエスを十字架につけてしまった張本人を示す言葉として使われています。

 第二次世界大戦中にドイツのナチスは自分たちが行ったユダヤ人迫害の政策を正当化するためにこのヨハネによる福音書を利用したと言われています。しかし、誤解してはならないのはヨハネが言っている「ユダヤ人」は救い主イエスを信じず、拒否した人々を象徴する呼び名であって、現実のユダヤ人という民族のことを言っているのではありません。その証拠にこのヨハネは最初彼らを「群衆」と呼んでいましたが、後で彼らがイエスを拒否するようになったときにあえて「ユダヤ人」たちと呼び変えているのです。いずれにしてもここでのイエスと群衆の会話は終始すれ違っていて、お互いの溝を埋めることなく、決定的な対立関係が深まって行ったことをヨハネはここで記しています。それではなぜ、群衆はイエスの話を理解することができなかったのでしょうか。


2.永遠の命に至る食べ物のために働け

①イエスを捜した群衆

 今日の物語はイエスがガリラヤ湖の湖上を歩いて、弟子たちの乗っていた舟に近づいてきたという物語(6章16~21節)の後に起こっています。この出来事が起こった場所は、イエスが五千人の人に食べ物を与えた場所からガリラヤ湖を挟んで対岸、カファルナウムの町が舞台となっています。イエスを自分たちの王としよとした群衆は、いつの間に自分たちの前から消えて、どこかにいなくなってしまったイエスを懸命に探しました。そして彼らは「どうやらイエスは弟子たちと共に向こう岸に渡って行った」という情報を手にいれます。そして、彼らもまた後を追ってカファルナウムの町にやって来たと言うのです。彼らはイエスを必死で捜したことになります。そしてやっとの思いでイエスを見つけ出すことができた彼らに、イエスはこう語ったと言うのです。

「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」(26節)。

 前回学んだように、「しるし」とはイエスがどのような方であり、また何をするためにこの世界に来られたかを示すためのものです。ですからイエスはその真理を人々に教えるために五つのパンと二匹の魚を使って五千人以上の人々に食物を与えられると言う不思議な出来事を行って見せたのです。しかし、群衆はこの時点になってもその「しるし」の意味を全く理解していません。むしろ、彼らは「イエスがいれば、いつでも自分たちは食べることに困ることがない」と考えたからこそ、ここまでイエスを追ってやって来たのです。そのような意味で彼らはパンを得ること、食べ物に困らない生活を送ることこそが自分たちにとって最も重要だと考えていました。そのような彼らにイエスは次のような言葉を続けて語ったのです。


②誰が働くのか?

「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」(27節)。

 子どものころ「人は食べるために働かないといけない。働くためには食べないといけない。働いて食べて、食べて働いて、そして人間の命は終って行くのか…」。そんなことを考えたことがあります。工場で一日働いて疲れて夜遅く帰って来る自分の父親の姿を見て、「いずれは自分もそうなるのかな…」と思うと何か虚しさのようなものを感じたからかも知れません。イエスは私たちの人生は食べ物を得るためにあるのではなく、もっと大切な目的のためにあることをここで教えてくださっているのです。

 今日のこの会話はヨハネによる福音書の4章に記されているサマリアの女とイエスとの会話によく似ています。なぜなら、サマリアの女は「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(4章13~14節)と言うイエスの言葉を聞くと、「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」(15節)と必死にイエスに願ったからです。ところが群衆はイエスの言葉を聞いても「それを私たちにください」とはすぐには言いませんでした。なぜなら彼らはイエスがここで語った「永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と言う言葉に拘ったからです。「その食べ物を得るためには自分たちはどんな努力をする必要があるのか」と考え始めたのです。しかし、それは大きな誤解であったと言えます。なぜならイエスは次のように彼らに答えているからです。

「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」(26節)。

 キリスト教を誤解して「努力や修行が求められる宗教だ」と考える人がいます。神が求めている働きを、自分の努力でクリアすることの見返りとして救いを得ることができると考えるのは聖書の中で「律法主義」と言われていてます。そして「律法主義」は聖書の正しい教えに反しいると厳しく批判されているのです。キリスト教において大切なのは私たちが何をしたか、あるいは何をするかと言うことではありません。むしろ私たちは神が私たちのために何をしてくださったかと言うところに目を向ける必要があるのです。神は私たちに本当の命を与えるために救い主イエスを遣わしてくださいました。つまり、私たちが本当の命を得るためには神が私たちのために遣わしてくださったイエス・キリストを信じることが大切なのです。


3.モーセではなく神が与えてくださったマナ

 しかし、このイエスの話を聞いても群衆はまだイエスを信じる気にはなれません。「わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか」(30節)とイエスに信じるための根拠となる「しるし」を見せてくれるようにと願ったのです。彼らはこの物語の直前にイエスの行った「しるし」、五つのパンと二匹の魚から五千人以上の人が満腹した出来事を体験したばかりだったのに、すでにそれを忘れてしまったようです。そしてイエスに向って「もっとはっきりとして「しるし」を見せてほしい」と願い、その例として旧約聖書に記録されている「荒れ野でのマンナ」の奇跡を取り上るのです。これはモーセによって導かれたイスラエルの民が荒れ野で飢えに苦しんだとき、神が天からマナという不思議な食べ物が与えてくださったと出来事を指しています(出エジ16章)。興味深いのは群衆がこの出来事を「モーセが起こした」と考えている点です。

 聖書を毎日読む助けとして作られている「リビングライフ誌」では現在、旧約聖書の列王記下が取り上げられています。そこには南ユダ王国のヒゼキヤ王が行った宗教改革によって、そこにあった様々な偶像が破壊されたと言う出来事が記録されています。その中で「モーセの造った青銅の蛇を打ち砕いた」(列王記下18章4節)という言葉が記されていました。この出来事は民数記21章(4~9節)に記されていて、荒れ野の旅の過酷さに耐えられないイスラエルの民が神に不平をもらしたところ、その罰として猛毒の蛇が彼らの元に送られて彼らの命を奪ったという出来事が起こりました。そのとき蛇にかまれた人でもこの旗竿の上に掲げられた青銅の蛇をすぐに見上げると助かると言う救済策が神から与えられたのです。どうやら人々はその時に使われた青銅の蛇には何か特別な力があると考えて、その時以来大切にして、礼拝の対象にまでしていたらしいのです。実際に人々の命を助けたのは神ご自身であったのに、人々はそれを忘れてしまったのです。これはマナの場合も同じです。マナは天から神が与えてくださったものなのに、いつのまにかそれはモーセと言う人間が行ったものだと信じられて来たのです。イエスはこのような人々の過ちをここで改めて指摘しています。

「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる」(34節)

 大切なのはモーセと言う人物ではありません。そのモーセをイスラエルの民のために遣わした神の御業こそが重要なのです。同じようにマナも神がイスラエルの民を助けるために天から送ってくださったものなのです。そしてイエスはこのマナの出来事とは比べられないようなことが今、神によって起ころうとしていると告げるのです。


4.わたしが命のパン

「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」(33節)

 「神は私たちに命の与えるために、天から真のパンを降らしてくださる」とイエスはここで語ります。このイエスの言葉を聞いていた群衆はすぐに「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」(34節)と言い出しています。しかし、群衆はこの時に至ってもイエスの言葉を理解できずに「パン」と言う言葉に拘っていることが分かります。むしろ彼らはイエスが不思議な力を使ってマナのような「世に命を与えるパン」を天から降らしてくれると考えているのです。そこで、イエスはそのパンの正体が何であるかをここで改めてこう宣言したのです。

「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(35節)。

 ここでイエスは「わたしが命のパンである」とはっきりと断言されています。イエスこそが私たちが本当に必要としている「命のパン」なのです。聖書はこのように私たちに与えられる神の救いを私たちに理解し易くするために、私たちの生活で使われる様々な物を使ってその真理を表しています。私たちは生きるために日ごとのパン、つまり食物を必要としています。このパンが無くなったとき、私たちの地上の命は途絶えることになります。同じように私たちの生かす本当の命はイエス・キリストを通して私たちに与えられるものであることをこの「命のパン」と言う言葉は私たちに教えているのです。

 なぜなら、私たちの命は本来神によって造られ、また神によって豊かにされるはずのものだからです。しかし罪の犯すことによって神から離れてしまった人間はこの命の源である神との関係を失ってしまったことで悲惨な状態に陥ってしまったのです。そこで神はその私たち人間のために救い主イエスを遣わすことで、その命の関係をもう一度、回復させようとしてくださったのです。ですから聖書が語る「永遠の命」はこの神の命に連なる命であると言うことができます。旧約聖書の詩編は救い主イエスによってこの命の関係を回復させられた人の姿を次のような言葉で表現しています。

「その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」(詩編1編13節)。

 イエスはこのような命を私たちの人生に回復させるためにこの地上に来てくださった救い主、私たちの「命のパン」なのです。そして私たちはこのイエスを信じることによって永遠の命の祝福に生きるものとされたのです。だから私たちはこの救いの出来事をこれから行われる聖餐式にあずかることでもさらに確かなものとして確信することができるのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.イエスを捜し求めてた群衆たちはどのような経緯でカファルナウムにいるイエスを見つけ出しました(22~25節)。

2.イエスはこの群衆に対してどうし「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」(25節)のような言葉を語ったのでしょうか。

3.イエスが語った「永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」(27節)と言う言葉は、私たちにどのようなことを要求しているのでしょうか(29節)。

4.32節のイエスの言葉から群衆は荒れ野のマンナの奇跡をどのように誤解していたことが分かりますか(31~33節)。

5.「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」(34節)と願う群衆に対して、イエスは「命のパン」の真理についてどのような言葉で宣言されましたか(35節)

2024.8.4「何が人を生かすのか」