2024.9.1「人を汚すものとは何か」 YouTube
聖書箇所:マルコによる福音書7章1~8、14~23節(新P.74)
1 ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。
2 そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。
3 ――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、
4 また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。――
5 そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」
6 イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。
7 人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』
8 あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」
14 それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。
15 外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」
16 (†底本に節が欠落 異本訳) 聞く耳のある者は聞きなさい。
17 イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。
18 イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。
19 それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」
20 更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。
21 中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、
22 姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、23 これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」
1.律法に従うことに熱心なファリサイ派
①ファリサイ派
しばらく学んできたヨハネによる福音書から離れて、今日から再びマルコによる福音書の学びに戻ります。今日の箇所では「ファリサイ派の人々と数人の律法学者」がイエスの弟子たちの素行を問題にして、イエスに抗議したことから始まるお話が記録されています。すでに何度も説明してきましたが、ここで登場する「ファリサイ派」と言う名前の人々は当時のユダや社会を支配した宗教家たちの名称です。当時、ユダヤには大きく分けてファリサイ派とサドカイ派という二つの宗教家のグループが存在していました。サドカイ派はエルサレムの神殿で働く祭司たちを中心にして作られたグループで、神殿で行われる祭儀を大切にし、それを民衆が厳格に守ることを求めました。
もう一方のファリサイ派の人々は旧約聖書に記されたモーセ律法と呼ばれる神の掟を生活の中で厳格に守ることを強調し、自分たちはもちろんのこと民衆に対しても律法に従う生活を送ることを勧めました。調べてみるとファリサイ派は紀元前二世紀に起こったユダヤ独立戦争(マカバイ戦争)の際、多くの人々が当時ユダヤを支配していたセレウコス朝シリアからの政治的独立を望んだのに対して、ファリサイ派の創始者たちは宗教的な自由だけが守られればよいと考え、その独立派から分裂した人々だったと説明されています。新約聖書を読んでみると彼らは当時、ユダヤを支配していたローマ帝国の総督に取り入って、自分たちの主張や存在を守ろうとしていたことが分かります。彼らの名前であるファリサイは「分離派」という意味を持っていると考えられています。聖書を読んでみると彼らは「律法を知らない一般の人々と自分たちは違う」と言うことを誇っていたように見えます。ですから彼は「自分たちは一般の民衆とは別な特別な存在」と意味でこのファリサイ派と言う名前を使っていたとも考えられるのです。いずれにしてもイエスの時代に民衆に影響力を行使していたのはこのファリサイ派の人々であったと言われています。
イエスの時代の後、エルサレム神殿は紀元70年にローマ軍によって徹底的に破壊されてしまいます。サドカイ派はこの神殿が破壊され、無くなってしまったことにより、その存在理由を失い歴史の中から消えて行きました。しかし、もう一方のファリサイ派はこの出来事以後も各地に散らばったユダヤ人たちを組織して彼らの宗教生活を指導したと言われています。私たちが現代、「ユダヤ教」と呼んでいる人々はこのファリサイ派の教えに根拠を置いている人々だと考えることができます。また、ここで「律法学者」と呼ばれている人たちもこのファリサイ派に属した人々なので、ファリサイ派と律法学者は同じグループに属して、同じ主張をする人と考えてよいと思います。
②手を洗う
ファリサイ派の人々がここで問題にしたのはイエスの弟子たちが食事の前に手を洗わないという行為でした。コロナ禍が起こって以来、私たちは「手洗い」に敏感になったと思います。外出先から帰ったら必ず石鹸で手を洗うことがウイルス感染から自分を守る有効な方法だと私たちは信じて来たからです。そのような意味で「手を洗う」と言う行為は私たちの健康を守るために重要なことだとも言えます。しかし、ここでファリサイ派の人々が問題にしているのは健康を守ると言う理由ではありません。ここに「汚れた手で」(2節)と言う言葉が記されるように理由は「汚れ」から自分を守るためです。なぜなら、ファリサイ派の人々は自分が何らかの影響で汚れると、神との交わりができなくなり、神から自分たちは見捨てられてしまうと考えたからです。
家から外出するとそこには神を知らない、そして律法を守らない異邦人、つまり外国人が町を歩いています。ファリサイ派にとって彼らは「汚れた人々」と考えられていましたから、彼らから、また彼らが触ったものを介してその「汚れ」が自分たちに感染し、自分たちも汚れてしまうとファリサイ派の人々は考えていたのです。だから、その汚れから自分を守るために手を洗うこと、またそのほかにも食事や日常生活で彼らが用いる道具まで熱心に洗うことが必ず行われていたと言うのです。ファリサイ派の人々は自分たちが知らない間に、自分の家に異邦人たちがやって来てそれらのものに触ったかも知れないと考えたからでした。
2.昔の人の言い伝え拘るファリサイ派
ただここで重要になるのはファリサイ派の人々が「昔の人の言い伝え」にイエスの弟子たちが従わないと言っている点です。つまり、彼らの主張は直接には聖書に記されているモーセの律法、神の掟に従ってはいないと言うものではないのです。実はここで語られている「昔の人の言い伝え」と言うのは聖書の律法を実際の日常生活にどのように適用させるべきかをファリサイ派の人々が考え、長い歴史の中でその解釈が蓄積させたもののことです。イエスの時代にはこの「昔の人の言い伝え」がまだ文書化されず、口伝という形で人々に伝えられ受け継がれて来ていたのです。そしてこの口伝は後に文書化されて「ミシュナー」とか「タルムード」と呼ばれる膨大なユダヤ教の遺産として残り、現代まで受け継がれているのです。
そのような意味でこの「昔の人の言い伝え」は自分たちが現実の日常生活の中で聖書が教えるモーセ律法をどのように守るかと言うことを教える、大変便利な働きをしたものだったのです。しかし、イエスの時代になると多くの人は「昔の人の言い伝え」に熱心に従うが、そもそも何のためにそれを守る必要があるのかと言う肝心の目的が見失われ、形ばかりが重要視されるという問題が生じていたのです。イエスはこのような形式だけを重んじて、返って神の御心を見失ってしまったファリサイ派の人々の教えを様々な場所で問題視しています。
一人の婦人がフレンチトーストを作るときに食パンの四隅を必ず包丁で切り落とすということをしていました。それは彼女の母親がやっていた調理方法で、彼女は子どものときからその母の調理方法を見て来たので、何の疑問もなくその調理法を自分も受け継いだからです。しかし、彼女はあるときふと「何のためにパンの四隅を切り落とすのか」と疑問を持ち始め、その意味を知りたいと思いようになりました。そこで実家の母親のところに行き、その理由を尋ねてみると「そうね、私もこの方法を自分の母親から教えてもらったから、意味が分からないのよ」と言うのです。そこで彼女は、今は施設で暮らす、自分の祖母を尋ねてその意味を聞いたのです。すると祖母はすぐに思い出したかのようにこう彼女に語ったと言うのです。「ああ、あれはね、私が新婚当時、家がとても貧しくて、小さな丸いフライパンしか持っていなかったの…。だから仕方なくパンの四隅を包丁で切り落としてその小さなフライパンで料理するしかなかったのよ。え、あなた今でもそんなことを続けているの?」と孫の質問に祖母は驚いて答えたのです。
「昔の人の言い伝え」には確かにその当時には大切な意味があったかも知れません。しかし、今自分たちが遭遇している問題に、その言い伝えがふさわしいかどうかは必ずしも分からないのです。
それではファリサイ派の人々はなぜここまで「昔の人の言い伝え」に拘りそれを大切にしようとしたのでしょうか。それはおそらく「言い伝え」に従っていれば、自分で難しいことを考える必要がないからです。しかし、これでは人間はロボットのようになり、自分に対する神から語りかけに、自分で考え、自分で答えるという生きた神との交わりが失われる恐れが生じるのです。
3.汚れは自分自身の中から出る
この点においてイエスは自分の日常生活を通して語られる神からの問いかけに対して、自分で真剣に考え、行動するという模範を私たちに示してくださった方だと言うことできます。また、ここでは「汚れ」の問題について大変に興味深い解釈がイエスの口から語られています。
イエスは「人間を汚すものは、自分の外から入ってくるものではなく、自分の中から出て来る」と言うのです。ファリサイ派の人々は自分の外側から目に見えない何らかの「汚れ」が入って来て、自分を蝕み、自分の存在を危うくすると考えていました。しかし、彼らはその点で、自分の外側ばかりに関心を払い、肝心の自分の心の中から何が出ているかを顧みようとはしなかったのです。
先週、大河ドラマの「光る君へ」を見ていたら死の床についている安倍晴明(あべのはるあきら)が「呪詛も祈祷も人のこころのありようであり、私が何もしなくても人の心が勝手に震えるのです」と言う言葉を語っていました。人の心は外からの力で害されるのではなく、心の内側にある恐怖が、自らを危うくして行くのだと言うのです。
イエスもここで私たちが自分の外側で起こる問題に目を向けるのではなく、自分の心の中に存在する問題に目を向けるようにと私たちに促していると言えます。自分の外側から入る汚れであれば、ファリサイ派の人々が主張したように「昔の人の言い伝え」に従って「手を洗え」ば解決するもしれません。しかし、自分の内側から湧き出るように現れる私たちの「汚れ」についてはそんな言い伝えは全く通用しません。そして、聖書はこの自分の心から出て来る汚れの問題に向き合う人々に、イエス・キリストがもたらして福音を教えようとしていると言えるのです。なぜなら、主イエスは私たち自身では解決できないこの「汚れ」を生み出す私たちの「罪」を解決するために、十字架にかかり、私たちをこの罪の汚れから清めてくださったからです。
4.キリストの救いにあずかるために
①不確かな信仰の確信
以前、近代カウンセリングの父と呼ばれるアメリカのカール・ロジャースと言う心理学者の書いた書物を読んだことがあります。その本の中で「心理的に混乱しているクライアントの言葉をカウンセラーが聞くことができない、あるいは受容することができない理由は何かと」いう問題について、そのカウンセラーの側に「この人の話を聞いたら、自分は何らかの影響を受けてしまうのではないか。自分が変化してしまうのでないかという恐れがあるからだ」と言う説明が記されていました。
ファリサイ派の人々は自分たちこそが聖書の教える律法を正しく守る真の信仰者だと考えていました。しかし、彼らの信仰の確信は、異邦人や異邦人の触れたものに触っただけで簡単に揺らいでしまうようなものであったことがこのイエスの言葉から分かるのです。だから彼らはまるで脅迫神経症のように「手を洗う」ことを止めることはできなかったのです。それほどまでに彼らの信仰の確信は不確かで、簡単に彼らから奪われてしまうようなものだったと言えるのです。
②初代教会の異邦人伝道
聖書学者たちの見解によればこのマルコによる福音書の記事は当時、異邦人たちに積極的に福音を伝えようとした初代教会の姿勢が背景となっていると言っています。最初イエスの弟子から始まった初代教会の群れの大半はモーセの律法を忠実に守るユダヤ人たちでした。しかし、彼らはキリストの福音をユダヤ人たちだけではなく、進んで異邦人に伝え、やがてキリスト教会はユダヤ人以外の異邦人が大変を占める群れと変わって行きました。どうして、初代教会の人々はこのように大胆に異邦人の中に出て行って、彼らに伝道をすることができたのでしょうか。
聖書によれば始めは、異邦人の中に出て行くことを恐れたペトロに神は幻を見せ「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」(使徒11章9節)と言ったと記録されています。また、「教会に加わった異邦人たちもモーセの慣習、つまり旧約聖書の律法に従って信仰生活を送るべきか、どうか」という問題が生じたときに、エルサレムで使徒たちの会議が開かれ、「神に立ち返った異邦人たちを悩ませてはなりません」(使徒15章19節)と言う決定を彼は下して、異邦人たちはモーセの律法に従う必要はないと教えたのです。
かつては「昔の人の言い伝え」を熱心に守ることを教えられていた彼らは、どうしてこのように考え、大胆に決断し、また異邦人のところに積極的に出て行って福音を伝えることができたのでしょうか。それは彼らがイエスの言葉に従おうとしたからです。
「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」(15節)。
彼らは異邦人を恐れる必要は何もありませんでした。それはどうしてでしょうか。イエス・キリストがすでに自分たちの中から出て来る、人の汚れを解決してくださったからです。イエスは十字架にかけられて命をささげてくださることで、私たちの罪を解決し、私たちを清めてくださったのからです。このイエスの御業は完璧であり、誰も私たちからその救いを奪うことはできません。だから、私たちは恐れることなく、信仰生活を送ることができるのです。神を知らない人、神に背を向けて生きている人たちとも積極的に交わり、彼らに福音を伝えていくことができるのです。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.ファリサイ派の人々や数人の律法学者はイエスの弟子たちの何について問題にし、イエスに尋ねましたか(1~5節)。
2.イエスはこのようなファリサイ派の人々の生き方についてどのような言葉で彼らを非難しましたか(6~8節)。
3.どうして「昔の人の言い伝え」を固く守ろうとするファリサイ派の人々をイエスは「あなたたちは神の掟を捨てている」と言ったのでしょうか。
4.イエスは人間を汚すものについてどのような見解をここで明らかにしていますか(14~22節)。
5.イエスがここで語る通り、人を汚すものが「中から、つまり人間の心から…」出てくるとしたら、私たちはこの汚れを解決することができますか。もしそれが自分ではできないとしたら、私たちは誰の助けを必要としていると思いますか。