2024.9.22「子どものようになる」 YouTube
聖書箇所:マルコによる福音書9章30~37節(新P.79)
30 一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。
31 それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。
32 弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。
33 一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。
34 彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。
35 イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」
36 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。
37 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」
1.失敗ばかりの弟子たち
旧千円札の肖像にも使われた野口英世に関して、こんな話を聞いたことがあります。彼がまだ存命中のこと、すでに黄熱病の研究などの成果が多くの人に知れ渡り、すっかり有名人になっていた野口の生涯を伝える伝記が書かれることになりました。ところが野口は自分のことを記したその伝記を読んで、「嘘ばかり書かれている」と語ったと言うのです。私も子どもの頃に様々な偉人の生涯を記した伝記を読んだことがあります。すべてがそうではないと思うのですが、このような伝記はそこに書かれている人物をほめたたえるために、特にその人物の良い面だけを取り上げ、さらにそれを劇的に脚色して書かれるという傾向が見られるようです。野口もおそらく、そのように書かれている自分の伝記を読んで、「本当の自分の生涯はこんないいことばかりではなかった…」と思ったのかも知れません。
福音書はイエス・キリストの生涯とその言動を伝える書物と言うことができます。しかし福音書にはこのイエス・キリスト以外にも様々な人々が登場しています。その中でもよく記されているのがイエスの弟子たちです。ご存知のようにキリスト教会はイエスの復活の後にこの弟子たちの伝道によって作られ、世界に広がって行きました。そのような意味ではキリスト教会にとってイエスの弟子たちは、優れた偉業を成し遂げた偉人たちと褒め称えられても良い存在なのかも知れません。しかし、聖書は彼らの生涯を決して美化して伝えようとしていません。むしろ、彼らはイエスの教えを聞きながらも、様々な失敗を犯していることが分かるのです。そしてその失敗はイエスの十字架を前にして、イエスを置いて逃げ出してしまうという出来事で頂点に達しています。
どうして福音書は何度も繰り返して弟子たちの失敗を記すのでしょうか。それはその弟子たちを救ってくださったイエス・キリストのすばらしさを表すためだと言うことができるかも知れません。誰も治すことができない難病患者を治すことができる医者こそ、この世の人々は「名医」と言って褒めたたえます。ですからイエス・キリストはどのような罪や失敗に苦しむ人をも救う力を持つ、素晴らしい救い主であることを福音書は失敗ばかり犯す弟子たちを登場させながら私たちに教えようとしていると考えることができるのです。
2.イエスの受難予告
今日の部分でもあいかわらず失敗する弟子たちの姿が記録されています。聖書を読んでみるとこの出来事はイエスが十字架にかけられることを伝える「受難予告」に関連して起こったことが分かります。このお話の少し前にも、弟子のペトロがイエスに対して「あなたは、メシアです」と信仰告白をする場面があります。そしてイエスはそのような告白をしたペトロに対して、自分が十字架にかけられて殺されることを伝えるのです。ところがペトロはその言葉を聞いてイエスを「そんなことはあってはなりません」といさめようとします。イエスはこのペトロに「サタン、引き下がれ」と言う激しい言葉を使って叱ると言う場面が記録されています(マルコ8章27~37節)。
今日の部分でもこれと同じような出来事が繰り返し起こっていたことが分かります。ここでイエスはわざわざ他の人々を遠ざけて、自分の弟子たちだけに「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」(31節)と教えられています。ここではイエスがやがてエルサレムの町で敵対者たちによって逮捕され、十字架に掛けられて殺されること、またその後、三日目に復活されると言うことが預言されています。
このイエスの言葉には「誰がイエスを引き渡したのか」という動作の主語が抜けています。しかし、聖書はイエスの十字架を偶然に起こった悲劇のようなものとは教えていません。むしろそれは父なる神の計画によって起こったことを私たちに教えているのです。つまり、ここでイエスを引き渡されたのはその父なる神の御業であると言うことが分かります。そしてここにこそイエスの行動の秘密が語られていると言ってよいでしょう。イエスはなぜ、自分にとってもっとも危険な場所であるエルサレムに向おうとしたのでしょうか。それはご自分を通して父なる神の御業、滅びるべき罪人でしかない私たちを救い出すために立てられた父なる神の計画を実現させるためなのです。そしてイエスはこの秘密を弟子たちにここで明らかにされているのです。
ところがこの話を聞いた弟子たちの反応はどうだったのでしょうか。「弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった」(32節)と書かれています。弟子たちはこのとき怖がってイエスに何も尋ねることができなかったと言うのです。それはイエスが語っている言葉の意味を彼らが十分に理解することができなかったからです。彼らは「イエスが殺されるなど決して起こってはならないことだ」と考えていのかも知れません。だから、イエスの話を理解できなかったのでしょう。しかし、今日の福音書の箇所の内容でさらに、分かってくることは、この時の弟子たちの関心は全くそれとは違う別のところにあったことです。だからこの関心のずれが、弟子たちがイエスの話を理解することができなかった理由であるとも言えるのです。
3.弟子たちの誤解
それでは弟子たちはこのとき、いったいどんなことに関心を持っていたのでしょうか。そのことがこの後、一行がカファルナウムの町に到着し、イエスが「途中で何を議論していたのか」と弟子たちに質問したことから明らかになります。ただ、ここで弟子たちはこのイエスの質問に直接には答えることはしていません。聖書はその事情について次のように説明しています。
「彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである」(34節)。
イエスがこれからご自分に起ころうとする重大な出来事についてお話しているのに、こともあろうに弟子たちは自分たちの中で「だれがいちばん偉いか」について議論し合っていたと言うのです。この福音書の少し後の10章でゼベダイの子のヤコブとヨハネの兄弟がイエスに「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」と願い出たことが記されています(37節)。そしてこのことで他の10人の弟子たちがヤコブとヨハネに対して腹を立て始めた(44節)と書かれているのです。どうやら弟子たちはこのときだけではなく、いつも「誰が偉いか」ということで争い合うことが多かったようです。
ただ、彼らがイエスに「何を議論していたのか」と問われたときに「黙っていて」誰も答えることができなかったと言う表現は、やはり彼らの心に何らかの後ろめたさがあったことを表していると言ってよいのだと思います。彼らもイエスの弟子である自分たちが「誰が偉いか」と言うことで言い争うなどふさわしくないと考えていたからでしょう。しかし、もう一方では彼らはどうしても「偉くなりたい」と言う自分たちの願望を捨てきることができません。昔の歌の文句に「わかっちゃいるけどやめられない…」というものがありますが、彼らはどうしても「偉くなりたい」という願望から自由になることできないでいたのです。
そこでイエスは「偉くなりたい」という願望に縛られている弟子たちに次のように語ります。
「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」(35節)。
この言葉はイエス自身の生き方を表していると言ってよいかも知れません。なぜならイエスは神の御子としての立場を自ら放棄して、この地上に来てくださり、私たちのような罪人を救うためにご自身の生涯をささげられたからです。弟子たちはイエスの身近で生活して、この言葉の通りに生きるイエスの姿をよく知っていました。だからこそ、弟子たちはイエスから「何を議論していたのか」と聞かれたときに、黙ってしまうのではなく、「私たちもあなたのように、生きるためにはどうしたらよいのですか…?」と尋ね返すべきだったのです。しかし、イエスの方はどうやら弟子たちの答えを聞かなくても、弟子たちが何を議論していたのかをご存知であったようです。そして弟子たちの問題がどこにあるかをも知っておられたのです。だからイエスは、そのときたまたま近くにいた一人の子どもの手を取って、弟子たち真ん中に立ち、その子どもをやさしく抱き上げて弟子たちに次のように語られたのです。
4.子どもを受け入れる
①子供は価値のない存在?
「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」(37節)。
まずこのイエスの言葉を理解するためには、当時の人々が「子供」についてどのような考えを持っていたのかを知る必要があるかも知れません。なぜなら、当時のユダヤでは人は神の掟を学びそれを行うことが最も大切だと考えられていたからです。つまり、人の価値はその人物が神の掟にどれだけ従っているかによって決まると考えたのです。これは言葉を換えれば神に一番に役に立っているのは誰かということにもなります。そしてこの観点から考えると「子供」はまだ律法を十分に学ぶこともできませんし、ましてやそれを行うこともできません。つまり神に役に立つ存在ではないと言うことになります。これが良く表されているのが聖書の中に登場する人数の数え方です。なぜなら当時のユダヤ人はその人数に女性や子供の数を勘定に入れることをしなかったのです。それは女性や子供は一人前の人間でないと考えていたからです。おそらくイエスの弟子たちもこれと同じような価値観を持っていたのだと思います。ですからその弟子たちに対してイエスが「子供の一人を受け入れる者」と語られた意味は、「この子供の本当の命の価値を知り、受け入れる者」と言うことになるのかも知れません。
つまり、イエスはここで人は律法を守れるかどうか、あるいは神の役に立っているかどうかでその価値を判断されるものではないと言っていることが分かるのです。それではイエスはどのような見方で、子供の価値を考え、また私たち一人一人の価値を認めてくださるのでしょうか。
②そのままの私たちを受け入れ、愛してくださる神
日本でも突然に知的障がい者の保護施設に押し入って、そこに収容されている人たちを次々と殺害したという大変悲惨な事件が以前に起こったことがありました。そのとき、収容者を次々と襲って行った犯人は、まずその収容者に声をかけていったそうです。そして自分の語り掛けを聞いても何の反応も示さないと判断した相手を彼は手にかけて殺害したと言うのです。彼がそうした理由は、「自分の意志さえ自由に表すことができない者は人間ではない」と考えたからだと言うのです。私たちはこのような異常な犯罪者の気持ちを理解することは困難かも知れません。しかし、人間の価値を「役に立つか,立たないか」で判断する考え方は私たちの社会や私たちの心を縛って、不自由にしている原因でもあると言えるのです。
そしてイエスはこの人間社会を支配するこの考え方に「それは違う」と言ってくださっているのです。なぜなら、神は私たちの命の価値を「役に立つか立たないか」で判断されてはいないからです。そしてその神の考えをよく表すことが「人の子が、渡された」と言うイエスの十字架の出来事です。なぜなら、もし神が人の価値を自分に役に立つか、立たないかで判断されいたとしたら、神に背を向け、神に従うことができずにいる私たち「罪人」を真っ先に滅ぼしていたからです。そして神はご自分の御心通りに生きることができるような私たちと違った新たな存在をこの地上に創造することもできるお方です。しかし、神はそのようなことをされませんでした。むしろ、私たちのために御子イエスを遣わして、私たちを救い、御自分と共に生きることができるようにされたのです。
どうして弟子たちはイエスが十字架にかかり死なれるこという秘密を教えられても、そのことを理解することができなかったのでしょうか。それは彼らが一人の子供をそのままで愛してくださる神の御心を知らなかったからだと言えます。むしろ彼らは自分で必死になって、イエスに役に立つ弟子にならなければ、自分には価値がないと考えてしまったのです。だから、彼らは「誰が偉いか」と言う議論からどうしても自由になることができなかったのです。
イエスがこのような人の考え方に捕らわれずに、自由に生きることができたのはどうしてでしょうか。誰もが人に使えられることが大切だと考えているのに、イエスだけは進んで人に使える生き方をすることができたのはどうしてでしょうか。それは私たちの命の価値を役にたつか、立たなかで考えるのではなく、そのままの私たちを愛し、その私たちと一緒に生きようとされる神の御心を知っていたからです。
最初に申しましたように福音書は立派な弟子たちの姿を伝えようとはしていません。むしろ、欠点を持ち、失敗ばかりを繰り返す弟子たちの姿を忠実に私たちに伝えようとするのです。これは福音書が彼らの失敗から学ぶようにと教えている訳ではありません。イエスがこのような弟子たちを愛し抜かれ、その彼らを救ってくださったことを私たちに表すためです。そしてキリスト教会がこのイエスの愛によって救われた弟子たちによって始められたことを示すためです。この弟子たちを救ったイエスの御業は今もキリスト教会の活動を通して続けられています。そしてイエスはその教会の活動を通して私たち一人一人を今も愛し続けてくださっているのです。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.イエスが旅の途中で「人に気づかれるのを好まなかった」理由はどうしてですか(30~31節)。
2.イエスの言葉を聞いてもそれを理解できなかった弟子たちが、そのことを尋ねることができなかった理由はどうしてですか(32節)。
3.一行がカファルナウムの町に到着して家に入られたときイエスは弟子たちにどのような質問をしましたか。この質問に対して弟子たちはどのような態度を示しましたか(33~34節)。
4.このように「いちばん先になりたい」=「偉くなりたい」と考える弟子たちにイエスはどのような生き方を教えてくださいましたか(35節)。
5.イエスは一人の子供の手をとって弟子たちの真ん中に立たせ、抱き上げて弟子たちに何と語られましたか(36~37節)。
6.このときの弟子たちのように「偉くなりたい」と言う考えの中には、私たちのどのような不安が隠されているとあなたは思いますか。
7.一人の子供をそのままで受け入れて下さる神の御心を私たちに表してくださったイエスの愛は、私たちをどのような不安から解放することができますか。