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2024.9.29「小さな者の価値」 YouTube ※準備中

聖書箇所:マルコによる福音書9章38~49節(新P.80)

38 ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」

39 イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。

40 わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。

41 はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」

42 「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。

43 もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。

44 (†底本に節が欠落 異本訳)地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。

45 もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。

46 (†底本に節が欠落)

47 もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。

48 地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。

49 人は皆、火で塩味を付けられる。


1.ヨハネの失敗

①ゼベダイの子ヤコブとヨハネ

 今日の聖書の物語にはイエスの弟子の一人であったヨハネと言う人物が登場します。ヨハネはその兄弟であるヤコブと共に「ゼベダイの子」と呼ばれています。福音書では彼らがイエスの弟子とされたときの説明の中で「この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った」(マルコ1章20節)と語られています。この説明からヤコブとヨハネの家が自分の舟を持ち、雇人がいるような比較的裕福な家庭であったことが分かります。興味深いのはこのヤコブとヨハネの兄弟にイエスが「ボアネルゲス」と言う名前を付けられたことです(マルコ3章17節)。この「ボアネルゲス」と言う名前には「雷の子」と言う意味があります。

 この「雷の子」と言う名前を表すような逸話がルカの福音書には残されています。このときエルサレムに向って旅をするイエスと弟子たちの一行をサマリアの村の人々は歓迎しませんでした。それを見たヤコブとヨハネの兄弟はイエスに、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と進言し、返ってイエスに戒められるという出来事が記されています(9章51~56節)。

 また以前にも少し触れましたがマルコの福音書の10章にはこのヤコブとヨハネの兄弟が他の弟子たちを出し抜いてイエスに「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」(37節)と願い出て、他の弟子たちの反感を買うという出来事が起こっています。

 これらの聖書の記事を読むとヤコブとヨハネの兄弟は気が短い上に野心家、そして比較的に裕福な家の出身だったせいか気位が高いという性格を持つ人だったことが分かります。皆さんはこんな人たちとうまく付き合う自信がおありでしょうか。


②イエスの名前を使って悪霊を追い出した人

 今日のお話もこのヨハネの性格をよく表す出来事となっています。ヨハネはあるとき、イエスの名前を使って悪霊を追い出す人に出会います。そこでヨハネはその人物に「イエスの名前を使うならば、私たちに従わなくてはならない」と説教をしたのです。しかし、その人はヨハネのこの言葉に従いませんでした。そこでヨハネは「それなら今後一切、イエスの名前を使って悪霊を追い出すことをしてはならない」とその人に語ったと言うのです。

 ヨハネはこの報告をイエスに伝えています。多分ヨハネは「自分はイエスの弟子として、当然のことをした」という自信があったのだと思います。だからヨハネは「自分のしたことでイエスに褒めていただけるものだ」と思ったのでしょう。しかし、イエスはこのヨハネに「やめさせてはならない」(39節)と言う意外な返事をされたのです。

 イエスは「わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」(39~40節)とその答えの理由をヨハネたちに告げています。

 ここで分かって来るのは、ヨハネは「イエスの名前を使う」と言う行為が自分たちだけに許されている特権のように考えていたと言う点です。しかし、そもそもなぜ弟子たちがイエスの名前を使うと病人が癒やされ、また悪霊たちが彼らに従うと言うことが起こったのでしょうか。それは弟子たちの目には見えませんでしたがイエス自身がそこで働いてくださったからです。つまり、「イエスの名前を使う」と言う出来事の本当の意味はイエスご自身が弟子たちを用いて働いてくださっていると言うことを表すのです。そのような意味から考えれば、その人がヨハネの知らない弟子であったとしても、彼が「イエスの名前を使って」悪霊を追い出していたとしたら、イエスがその弟子を通して働いてくださっていると言うことになるのです。そうなるとその人の行為を止めさせようとしたヨハネは、返ってイエスの御業を邪魔していると言うことになるのです。


2.ヨハネが聞いたイエスの言葉

①繰り返される失敗

 しかし、イエスはこのような重大な過ちを犯したヨハネに「お前は弟子として失格だぞ」というような厳しい言葉をここではかけていません。むしろイエスは次のようにヨハネに語っているのです。

「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」(41節)。

 先日、NHKで一人の風変わりな精神科の医師が主人公になっているドラマを見ました。そのお話の中でパーソナリティー障害という問題で苦しむ一人の女性が登場する回がありました。パーソナリティー障害は人との関係をうまく維持することができず、他人と頻繁にトラブルを起こしてしまうと言う特徴があります。この女性も上手に自分の気持ちを伝えることができずに、返って感情的になってしまってトラブルを起こし、苦しんでいます。そして彼女は物語の中で主人公の精神科医の勧めで同じような障害を持って苦しむ人が集まるデイケア―に通うことになります。

 そこでこの女性の問題を聞いたケアースタッフが「それなら、その状況をここで再現してみんなで考えて見ましょう」と提案します。彼女は提案を受け入れて、デイケア―の仲間たちと再現劇のようなことをするのですが、やはりそこでもいつもと同じように感情的になってトラブルを起こしてしまいます。そのため彼女は「また、同じ失敗をしてしまった」と落ち込むのです。しかし、そのやり取りを見ていたケアースタッフがそこで意外な言葉を語ります。「今のやり取りを見ていて、善かったと思えるところはどこでしょうか」とそこに集う人々に質問したのです。それに答えて「相手の目を見て話していた」とか、「大きな声はっきりと自分の言葉を語っていた…」と言った意見が彼女に向けられ、その登場人物は驚くのです。なぜなら、この女性はいつもと同じような失敗を犯した自分を見て、皆が失望していると思い込んでいたからです。


②キリストの弟子

 聖書の中に登場するヨハネもある意味これと同じような立場に立たされていたと言えるかもしれません。短気で野心家、おまけに気位の高い彼はそのことの故にいつも同じような失敗を繰り返します。しかし、イエスはそのヨハネに失望することはありません。むしろ次のように語るのです。

「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」(41節)。

 ここで「あなたがた」と呼ばれているのはヨハネを含めたイエスの弟子たちのことです。ヨハネはキリストの弟子として繰り返し失敗を犯しました。しかし、そのヨハネの価値はその失敗によって変わることも、失われることないとイエスは語ってくださっているのです。なぜなら、ヨハネはそれでもキリストの弟子だからです。この「キリストの弟子」とはイエスが十字架にかかってその罪を贖い、救いに入れてくださった私たち一人一人のことを表しています。このキリストの弟子の価値は私たちの人生にたとえどのようなことが起こったとしても決して変わることがないのです。なぜなら、私たちの命の価値は、イエス・キリストの命の価値と同じだからです。だからこそ、神は私たちを大切にしてくださるのです。だからイエスは私たちに対して親切に接してくれたものに神は報いを与えてくださると約束されているのです。


3.小さな者をつまずかせる者の罪

①厳しいイエスの言葉

 今日の聖書箇所はこの後の42節から大きく内容が変化しています。

「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」(42節)。

 ここからのイエスの言葉は大変に厳しい論調に変わっています。ですから聖書学者たちはこの42節からの部分は前のヨハネに関するお話とは別の機会に語られたイエスの言葉だと説明しています。その上で42節以下の言葉も論理の一貫性と言う点で問題があると彼らは考え、ここにも別々な場所で語られたイエスの言葉が集められて、それをマルコが編集したと説明しています。

 ここには「小さな者の一人をつまずかせる」ことの重大性が語られています。その罪を避けるために「片手を切り離せ」(43節)、「片方の足を切り捨てよ」(45節)、「片方の目をえぐり出せ」(47節)というような厳しいイエスの言葉が続けて語られているのです。しかし、このイエスの言葉は実際にそのようにしなさいと私たちに教えていると考えることには無理があります。なぜなら、「小さな者の一人をつまずかせる」と言う私たちの罪は片手や片足を切り離しても、片目をえぐり出しても解決がつくようなものではないからです。

 ですからこの箇所のイエスの言葉は小さな者を大切にしなければならないという弟子たちに対する勧めが語られていると言うことができるのです。そしてここで注意されている「つまずかせる」と言う意味は、その人との関係から引き離すような重大な人の罪について語っていると言うことができます。


②小さな者を大切にされる神の御心

 先ほどのヨハネの伝えた出来事で考えるなら、イエスの名前を使って悪霊を追い出していた人が、もしイエスを信じて、悪霊の問題で苦しんでいる人も助けようとしていたのならどうでしょうか。もし、その人を通して実際にイエスが働いてくださっていたとしたら、その人を非難し、またその人の行為を止めさせるということは何を意味するのでしょうか。それはまさにここでイエスが厳しく指摘した「小さな者の一人をつまずかせる」という過失をヨハネが犯したことになります。

 しかし、ここで重要となるのはなぜ小さな者の一人をつまずかせることがここで語られているように重大な過ちであるかということです。またなぜ、イエスの弟子はそのような細心の注意を払って小さな者たちを大切にしなければならないのかと言う問題です。

 この答えは明確です。神が「小さな者の一人」を大切にしてくださっているからです。だからイエスの弟子はその神の御心を知らせるために、進んで「小さな者の一人」を大切にしていく必要があるのです。ただここでさらに大切なことは「いったいこの「小さな者」とは誰か」と言うことです。「小さな者」と言うのですから反対に「大きな者」も存在するのでしょうか。そうではありません。私たちは神の御前でみな「小さな者」たちなのです。自分では神に喜ばれることを何一つできない私たちは皆、「小さな者」たちであると言えるからです。となるとこのイエスの勧めの言葉は、神が大切にしている「小さな者」すべてを大切にすること、そこには私たちが日々出会う様々な人々が含まれていると同時に、私自身も含まれていると言うことになるはずです。だからこそ、キリストの弟子は「小さな者」ものである隣人を愛するとともに、その「小さな者」の一人である自分自身を受け入れ、愛する必要があるのです。なぜなら「小さな者」の命の価値は、イエスの命の価値そのものでもあると聖書は教えてくださっているからです。


4.ゆるぐことのないイエスの愛

 ここでもう一度最初のヨハネの物語に戻って考えて見ましょう。ヨハネはなぜ「イエスの名前を使って悪霊を追い出す者」が気になり、その者に説教せずにはおれなかったのでしょうか。これを私たち自身の普段体験する出来事で考えてみましょう。私たちはなぜ人の行動や言葉が気になって、その人に注意したいと思うのでしょうか。それは「これではだめだ」と思うからです。このまま放置しておけば「この人は大変なことになる」と思うからです。だからその人の行動を黙って見過ごすことができないのです。つまり、ここで問題なのは問題行動を犯している相手ではなく、その人の行動を見て「このままではだめだ」と自分の心が揺らいでしまっている私たち自身であると言えるのです。

 イエスはそのことをよく知っていました。だからこそキリストの弟子であるヨハネの大切な価値を教えようとしたのです。またヨハネに「小さな者」を何よりも大切にしてくださる神の御心を教えようとされたのです。そして「あなたたちの価値はどんなことが起こっても決して変わることがない」とイエスは教えてくださったのです。

 相手や自分の過ちを指摘することはある意味で簡単であるかも知れません。しかし、問題なのは私たち自身には自分の力ではその過ちを正すことも、正しい道に戻れることもできないと言うことです。だからイエスはヨハネが立ち直るために彼の本当の価値がどこにあるかを教えたのです。たとえ私たちが失敗を繰り返しても、私たちの命の価値は変わることはありません。なぜなら私たちに対する神の愛は何があっても変わることがないからです。短気で野心家、気位の高いヨハネがやがて人々に「愛の使徒」と言う名前で呼ばれるようになった理由は、イエスを通して自分の命の本当の価値を知らされ、自分に対する神の愛は何が起こっても変わることがないことを確信することができたからなのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.ヨハネはイエスに自分が行ったどのようなことを報告していますか(38節)。この報告を聞いたイエスはヨハネに何と答えましたか(39節)。

2.小さなグループ意識にこだわるヨハネはイエスの働きについてどんな誤解を持っていたと考えることができますか(40節)。

3.どうしてキリストの弟子に「一杯の水を飲ませてくれた者」には必ずその報いが与えられるのでしょうか(41節)。

4.「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者」についてイエスはどのように厳しい言葉を語っていますか(42~49節)。

5.もし、イエスの勧めの通り私たちが「片方の手を切り捨て」、「片足を切り捨て」、「片方の目をえぐり出し」たとしても、私たちは「小さな者をつまずかせる」罪から解放されることができるでしょうか。

6.私たちが自分の罪から解放され、新しい人生を歩むことができるようになるためにイエスは何をしてくださいましたか。

2024.9.29「小さな者の価値」