2024.9.8「身体のよみがえり」 YouTube
聖書箇所:コリントの信徒への手紙一15章20~28、35~44節(新P.321)
20 しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。
21 死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。
22 つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。
23 ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、
24 次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。
25 キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。
26 最後の敵として、死が滅ぼされます。
27 「神は、すべてをその足の下に服従させた」からです。すべてが服従させられたと言われるとき、すべてをキリストに服従させた方自身が、それに含まれていないことは、明らかです。
28 すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです。
35 しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。
36 愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。
37 あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。
38 神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。
39 どの肉も同じ肉だというわけではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉と、それぞれ違います。
40 また、天上の体と地上の体があります。しかし、天上の体の輝きと地上の体の輝きとは異なっています。
41 太陽の輝き、月の輝き、星の輝きがあって、それぞれ違いますし、星と星との間の輝きにも違いがあります。
42 死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、
43 蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。
44 つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。
ハイデルベルク信仰問答書
問57 「身体のよみがえり」は、あなたにどのような慰めを与えますか。
答 わたしの魂が、この生涯の後直ちに、頭なるキリストのもとへ迎え入れられる、というだけではなく、やがてわたしのこの体もまた、キリストの御力によって引き起こされ、再びわたしの魂と結び合わされて、キリストの栄光の御体と同じ形に変えられる、ということです。
1.死に対する者への慰め
①自分の地上の命の希望を置く者の人生は空しい
旧約聖書の中に「コヘレトの言葉」と言う大変ユニークな書物があります。この書の最後に次のような言葉が書かれているのを皆さんはご存知でしょうか。
「その日には/家を守る男も震え、力ある男も身を屈める。粉ひく女の数は減って行き、失われ/窓から眺める女の目はかすむ。通りでは門が閉ざされ、粉ひく音はやむ。鳥の声に起き上がっても、歌の節は低くなる。」(3~4節)
これだけ読むと何を言っているのか分からないかもしません。実はこの言葉は人間が老化してその身体の機能が衰えて行く姿を物語っていると言われています。「家を守る男も震え、力ある男も身を屈める」とは手足が震えておぼつか無い老人の姿、また背骨も曲がっていくことを語っています。さらに「粉ひく女の数は減って行き、失われ/窓から眺める女の目はかすむ。通りでは門が閉ざされ、粉ひく音はやむ。鳥の声に起き上がっても、歌の節は低くなる」。これは歯がだめになって食べ物さえ自由に食べられなくなること、そして目もよく見えなくなり、耳も遠くなって、声も出難くなって行くことを表しているようです。コヘレトの言葉はこのように人間が老いる姿を語った後に「塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る。なんと空しいことか、とコヘレトは言う。すべては空しい、と」(7~8節)と結んでいます。結局、この地上でのわずかな人生に自分の希望を置こうとするものは空しく自分の人生の最後を迎えなければならないとコヘレトは教えているのです。
②死を迎えるときに
今日はハイデルベルク信仰問答の問57から「身体のよみがえり」についての聖書の教えを学びます。この信仰問答は最初の第一問で「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」と言う言葉を語っています。私たちの一見、空しく過ぎ去って行くような地上の人生にも、豊かな慰め、いえ、そこには確かな希望が隠されていることを聖書は私たちに教えようとしています。そこで私たちがその慰め、また確かな希望を自分のものにするために大切なのは私たちの心を「わたしたちの真実な救い主イエス・キリストに向けることだ」とこの信仰問答は教えているのです。そして今日の問57は私たちがこの地上の人生を終えて「死を迎えるとき」に私たちを慰め、また確かな希望を与えるものとして「身体のよみがえり」という信仰箇条を指し示そうとするのです。
先日、朝刊を読んでいたら「死後の命」について様々な人々の証言が収められている本の広告を見ました。この種の本はいつの時代にもよく出版されているのではないでしょうか。「自分は死後の世界を見た」と言う体験談や、様々な人の見解が興味深く紹介されているものです。しかし、いくら「自分は死を経験した」と言っても結局その人の証言は仮死状態からの復帰でしかありません。本当に死んだ人はその事実を証言することは決してできないからです。つまり、これらの証言はどこまで行っても人間の推測の域を脱することができない不確かなものに過ぎないのです。
実はキリスト教会の中でもこのような臨死体験を興味深く取り上げて、「天国は本当にある」などと語る人たちがいます。しかし、私たちが信仰問答から学ぼうとする「身体のよみがえり」と言う教えは、このような臨死体験をもとにして作られたものではありません。私たちがなぜこの「身体のよみがえり」を大切なものとして信じるのかと言えば、それはキリストを死者の中から甦らせてくださった神が私たちに確かに約束してくださっていることだからです。ですから私たちは「身体のよみがえり」と言う教えを神の確かな約束の言葉を通して理解し、また信じることが大切であると言えるのです。
2.キリストに迎えられる
今日の信仰問答はまず「わたしの魂が、この生涯の後直ちに、頭なるキリストのもとへ迎え入れられる」と教えています。実はこの教えの根拠は十字架にかけられたイエスご自身がそこで語ってくださった言葉にあります。聖書によれば、イエスが十字架にかけられたときに一緒に二人の強盗も十字架にかけられたと証言されています。そしてこの二人の強盗が取ったイエスへの対応は非常に対照的であったことが紹介されています。一人の強盗はイエスに対して「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」(ルカ23章39節)と語りました。彼は十字架で死んで行くようなイエスを決してメシアとしては認めようとしなかったのです。しかし、もう一方の強盗は彼とは違い次のような言葉を自分の死の間際に語ります。
「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(40~42節)と語ったのです。
この強盗は自分の死を直前にして自分の罪を認めています。その上でイエスに「わたしを思い出してください」、つまり助けてくださいと語ったのです。そしてこの強盗に対してイエスは次のような言葉をかけてくださったのです。
「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(43節)。
私たちはこのときにイエスの語ってくださった言葉を私たち自身に語られた言葉として今、信信じているのです。私たちもこの十字架にかけられた強盗のように罪を犯すこと以外に何もできない者たちです。私たちには自分で自分の命を救うことはできないのです。だから、私たちはイエスに助けを求める信仰者となったのです。そしてその私たちにもイエスは「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言う約束の言葉を語ってくださるのです。
使徒パウロはフィリピの信徒への手紙の中で次のような言葉で自分の気持ちを明らかにしています。
「この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です」。(1章23~24節)
パウロは地上で果たすべき使命が神から与えられていることを大切にしようとしていました。しかし、彼の本音は「キリストと共にいたい」と言うことだとここで語っているのです。聖書はイエスの語る「楽園」がどのようなところなのか、詳しくは私たちに教えていません。しかし、私たちにとって大切なのはそこがどこであれ、私たちを命がけで救い、私たちを決して忘れることなく愛し続けてくださる主イエスがおられるところだと言うことです。そしてそここそがまさに私たちにとって「楽園」と呼ぶことができる場所だと言えるのです。イエスはその「楽園」に私たちが地上の人生を終えるとすぐに迎えてくださると約束してくださっているのです。
3.私たちがわたしとしてよみがえる
さて信仰問答は引き続き次のような言葉を語り、私たちの「身体のよみがえり」について神からの豊かな慰めをいただいていることを教えます。
「というだけではなく、やがてわたしのこの体もまた、キリストの御力によって引き起こされ、再びわたしの魂と結び合わされて、キリストの栄光の御体と同じ形に変えられる、ということです」。
以前にもお話しましたが、日本の宗教でも魂の不死、つまり人は死んでもその魂は永遠に生き続けるという考えが存在しています。不思議なことにこの教えはソクラテスやプラトンと言うギリシャ哲学者の思想ともよく似ています。日本では魂に対して、もう一方の体は不浄なものと考えられています。そしてギリシャ哲学者たちも人間の体は不死の霊魂を閉じ込める牢獄と考えているのです。いずれも体に対して積極的な意味があることを教えていません。しかし、聖書だけは私たちの体は再び私たちの霊魂と結びつけられると教えるのです。聖書が私たち人間の体をこのように大切に扱うのは、その体も神が造ってくださったものだと信じられているからです。ですから人間は体と魂が一体となることで、本当の人間と呼ぶことができると言えるのです。
この点である説教者は「ユダヤ人は古来より人間の体こそ、その人格が宿る場所だと考えて来た」と説明しています。つまり私が本当に私であると言えるのは、体を持っているからだと言うのです。ですから信仰箇条が「身体のよみがえり」と語っているのは、私が私としてよみがえることを教えていると言うのです。死んだら何か私の魂が大きな魂の一部分にされてしまって「私」と言う人格が無くなってしまうと言うようなことを聖書は決して教えていないのです。キリストは私たちを今の人格を持ったままで、甦らせていただくのです。
もちろん、甦った私たちの体は元のような弱い体ではありません。このことについてヨハネの手紙一は次のような約束の言葉を語っています。
「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです」(3章2節)。
信仰問答が「キリストの栄光の御体と同じ形に変えられる」と教えているのはこの聖書の約束の言葉が私たちに与えられているからです。甦られたイエス・キリストと同じように私たちの体も栄光あるものに変えられることがここに証言されているのです。
4.栄光の体によみがえる
さて最後に私たちは「身体のよみがえり」について語るパウロの言葉からこの甦りの希望と現在の私たちの地上の人生との関係を考えて見たいと思います。なぜなら、パウロはコリントの信徒への手紙一の中で次のように語っているからです。
「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。」(15章42~43節)。
今年の春、家内はチューリップの球根がたくさん入ったバラエティーパックという商品を購入して教会の花壇に埋めました。このパックには品種の違う様々なチューリップの球根が混ざって入れられているのです。私たちはこのバラエティパクのおかげで今年の春はとても楽しい体験をすることができました。なぜなら、開花の時期も、花の色や形も違ったチューリップが次々と教会の花壇に咲いて、私たちの目を楽しませてくれたからです。
パウロはここで私たちの地上の人生を植物の種に例えています。ご存知のように種はあまり見栄えのよいものではありません。バラエティーパックに入っていたチューリップの球根も、それだけではどこが違うのかよくわかりませんでした。しかし、その球根が芽を出し、やがて花を咲かせるとき、私たちはその球根に秘められていた本当のすばらしさを知ることができました。パウロは私たちの地上の人生も同じだと説明するのです。私たちは「どうして自分の人生はこうなのか」と悩み、また「どうして自分の人生にはこんなに苦しみが続くのか」と考えることがあります。しかし、パウロはその私たちの人生の本当の価値を知ることができるときが必ずやって来ると私たちに教えているのです。それが聖書の教える「身体のよみがえり」のときであると言うのです。ですから私たちはこの聖書の教える慰めを信じ、この地上で与えられた自分の人生を大切にして生きて行きたいと願うのです。なぜなら、私たちには今は知ることができませんが、私たちの命の本当の価値が明らかにされるときが必ず訪れることを聖書は私たちに約束してくださっているからです。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.まず、あなたもハイデルベルク信仰問答の問57を読んでみましょう。そしてあなたの率直な感想を述べてみましょう。
2.キリストを信じる者はその「生涯の後直ちに」どのようになると信仰問答は教えていますか。このことをイエス・キリストはどのような言葉で私たちに約束していますか(ルカ23章43節参照)。
3.キリストはやがて私たちの体と魂をどのようにしてくださると信仰問答は教えていますか。どうして聖書は私たちの体と魂が一体となる「身体のよみがえり」を強調するのでしょうか。
4.聖書が教える「身体のよみがえり」は、今を生きる私たちの人生にどのような力と希望を与えることができるのでしょうか(コリント一15章42~43節参照)。