2025.1.12「善い行いは無意味?」 YouTube
聖書箇所:フィリピの信徒への手紙3章7~9節(新P.364)
7 しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。
8 そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、
9 キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。
ハイデルベルク信仰問答書
問62 しかしなぜ、わたしたちの善い行いは、神の御前で、義またはその一部にすらなることができないのですか。
答 なぜなら、神の裁きに耐えうる義とは、あらゆる点で完全であり、神の律法に全く一致するものでなければなりませんが、この世におけるわたしたちの最善の行いですら、ことごとく不完全であり、罪に汚されているからです。
1.善い行いは無意味か
①善い行いをする目的
ある人が小学生時代の思い出を記した文章の一部を思い出しました。あるとき彼は、教室の中に置かれている壊れた机をなおそうと考えました。そうすれば教室のみんなも助かります。彼はある日、人がいない教室に入ってこっそり壊れた机をなおし始めました。ところが最初は誰も知らないうちに机をなおしてみんなを驚かせようと思っていたのですが、作業をしている間にその気持ちが変わって来たと言うのです。「自分がこんなよいことをしているだから、先生が気づいてくれたらよいのに、そうすればクラスの中での自分の評価は上がるに違いない」。何かそう思い始めると、今まで静かにやっていた修理作業の音が自然と大きくなって行ったと言うのです。そのとき彼は子ども心にこのようなことに気づいたとも言います。「自分が悪いことをしていると思っているときは、こっそりと誰にも分からないようにしようとするのに。なぜ、善いことをしようとするときには、それを誰かに分かってほしい思うのだろうか…」。私もとても興味深い話だなと思えてこの話を読んだことがあります。私たちは自分が善いことをしようとするときは、そのことをできるだけたくさんの人々に知ってほしいと考えます。これはおそらく善いことをする目的がいつの間にか変わってしまうことが理由であると思います。最初は机をなおせばみんなが助かると言う目的をもって作業をし始めたのに、作業の途中で自分が評価されるためのものに変わってしまったからです。
私たちがする「善き行い」についてはそれぞれ目的があります。私たちが人を愛することは、相手のためでもあり、また自分のためにも有益です。ところがいつしか、私たちはそのわざを通して自分の評価を高めようとする誘惑に陥ります。人間関係の中で起こるトラブルの多くの原因は、自分が行う行いの目的を自分に対する他人から評価を得ようとするところが生まれていると言ってもよいかも知れません。
今日のお話の題名は「善い行いは無意味?」としました。この題名を読んで「そうかすべての善い行いが無意味なら、何もしないほうがよい。その方がむしろ楽だ…」。そう考えてしまう人もいるかも知れません。しかし誤解していただきたくないのは、ここでは「神の御前で、義とされるため」と言う理由で善い行いをすること、つまり自分に対する神の評価を変えるためには善い行いは役に立たない、無意味だと言っているのです。
いままで学び続けた通り、私たちすべての人間は罪人としてその犯した罪の責任を神の御前で負っている者たちです。私たちにはその罪の責任を果たすために償いが求められているのです。その償いが果たされない限り、壊れてしまった私たち人間と神との関係は修復することができません。ここではその償いのために、また私たちと神との関係を修復させるために善い行いは有効なのかどうかが問題となっているのです。そしてハイデルベルク信仰問答はそういう意味では「善い行いは無意味」だと教えているのです。
②罪を償う「贖宥符」?
信仰問答が、私たちが神の御前で義とされために必要なのは信仰だけであり、それはすべて私たち人間の側の努力と言ったような功績によるものではなく、すべて神から恵み、つまり私たちに神が与えられるプレゼントだと教えてきました。それなのになぜ、また信仰問答はここで「善い行い」について語ろうとするはどうしてでしょうか。それはこの信仰問答が書かれた時代、宗教改革の時代に起こった信仰理解についての問題が背景になっていると考えられます。
当時、宗教改革者として有名なマルチン・ルターが取り上げた問題は教会が売る「贖宥符」にあったと言われています。この贖宥符はその人の罪の償いを軽減させることができる教会からの証明書のようなものです。当時のヨーロッパの社会はキリスト教社会ですから、すべての人々は生まれた時に洗礼を受け、日曜日には教会の礼拝に出席する義務を果たす必要がありました。つまり、すべての人々はイエス・キリストによって救われていて、地獄に落とされる心配はないと考えられたのです。
それではすべての人が簡単に天国に入れるかと言えば、それはそうではないと当時の教会は教えたのです。天国に入るためにはそれぞれが善き行いに励み、自分の罪の償いをする必要があると教えたからです。しかし、その償いは簡単なものではありません。だからもしその人が償いを自分の生涯で十分に行うことができずに死んでしまったら、その人は「煉獄」と言う場所で炎に焼かれながら自分の罪の償いをしなければなりません。そうしなければ天国に入れないと教会は教えたのです。教会からの委託を受けて贖宥符を販売するために働いた説教者たちはこの煉獄の炎の恐ろしさを語って、「この贖宥符があればその罪の償いができ、煉獄の炎から守られて天国に行くことができる」と語ったのです。
ルターはこの教えが聖書的ではないと抗議の声を上げました。なぜなら、私たちの罪を償うことができるのは私たちの行う善い行いではなく、救い主イエス・キリストだけであることを聖書は教えているからです。
2.償いは完璧でなければならない
昔、ある人が頑張って正しい人間として生きたいと考えました。そこで彼は自分が今までの人生で犯してしまった過ちや悪い行いを思い出す限り数えて、家の大きな柱にその数と同じ数の釘を打ち込みました。その上で彼はこれから善い行いに励んで、それができたときに柱の釘を一つ一つ抜いていこうと決心しました。ところがいくら善い行いに励んでも、それに比例するように彼は過ちを犯すことがあって、一行に柱の釘の数が減りません。そこで彼はさらに努力して善い行いに励み、何とか柱の釘の数を減らすような生活が送れるようになりました。そしてある日彼はついに自分の努力によって、柱の釘を一本残らず抜くことができたのです。ところが彼は釘がすべて抜かれた柱を見ながら一言つぶやきます。「釘は一本も無くなったが。釘跡は残ったままだ」。
信仰問答は神が求めておられる償いは「あらゆる点で完全でなければならない」と教えます。どんなに善い行いをして自分の犯した罪を償ったとしても、私たちは自分の力ではそれを成し遂げることができません。私たちは自分の力では傷一つない神の子になることは不可能だからです。
3.求められているものは神の律法に完全に従うこと
私たちの持つ自分の評価の基準はあいまいなものです。その多くは他人と比べて自分がどうかというところで判断しようとするからです。「あんな奴に比べたら、自分はまだましな方だ…」。自分がそう考えることができるために、自分より劣っていると考える人を自分のそばに置いたり、また求めたりすることもあるかも知れません。しかし、神が求める基準はそのような曖昧なものではありません。神の求める基準は聖書が教える「神の律法」です。そして信仰問答は私たちが自分の罪を善い行いで償うとしたらそれは「神の律法に全く一致するものでなければなりません」と教えるのです。
若い頃、三浦綾子さんの書いた「塩狩峠」という小説を読みました。そこで小説の主人公は伝道者が語る聖書の言葉に感動して「自分も神様を信じたい」と決心します。すると伝道者は主人公に「あなたは神の御前で自分が罪人であることを認めますか」と問うのです。主人公はこの問いに簡単に答えることができません。なぜなら彼は人と比べて自分はむしろ善良で、よい人間の部類に入ると考えていたからです。すると伝道者は「それでは聖書の教えのどれか一つでもよいですから、あなたが完璧に守れるか試してください」と教えます。彼はそこで「隣人を愛しなさい」という聖書の教えを日常生活の中で実現しようとします。しかし、彼は自分が愛そうと心掛ける相手からむしろ誤解され、結局自分の力では聖書の教えを完璧に守ることができないということを知るのです。
信仰問答は「この世におけるわたしたちの最善の行いですら、ことごとく不完全であり、罪に汚されているからです」と言う言葉を語っています。つまり善い行いをして償いをしようとする者はすべて最後には自分の力に絶望するしかないと言うのです。しかし、聖書は私たちを絶望に導く書物ではありません。私たちを希望に導くのが聖書の書かれた目的だからです。だから聖書は自分自身を見つめて絶望する私たちに、本当の希望である救い主イエス・キリストを指し示そうとするのです。
4.パウロはなぜ自分の誇りを損失と考えたのか
今日の聖書の朗読箇所はパウロと言う人が書いたフィリピの信徒への手紙を選びました。パウロはキリスト教を当時のローマ社会に広めた伝道者として有名です。しかし、彼は元々、熱心なユダヤ教徒で、ユダヤ人が先祖代々から伝える教えに忠実に従い、自らもその教えを伝える教師として生きていました。そしてパウロは自分が大切にしている先祖代々の教えを否定するようなことを教えるキリスト教徒を許すことができませんでした。ですから彼は当時のキリスト教会を迫害するリーダーとしての役目を引き受けて、キリスト教徒たちを捕らえては牢獄に送ったのです。ところがそのパウロの人生に大きな変化が起こります。それは彼の前に救い主イエス・キリストが現れると言う出来事が起こったからです(使徒言行録9章参照)。彼は自らがイエス・キリストに出会うことでその人生を全く変えられてしまいます。そしてパウロはフィリピの信徒への手紙の中でこう語っています。
「とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです」(3章4~7節)。
彼は元々先祖伝来の教えに従って律法に従う生活を送って、自分が神の御前で義とされること、つまり、神の子としてふさわしいと評価されることを目指して生きて来ました。ところがそのパウロが救い主イエス・キリストを知ったときに、彼の考えは全く変わってしまいます。いままで自分にとって有利、あるいは自分の誇りとして考えていたものが「キリストのゆえに損失と見なすようになった」と言うのです。それは彼が自分のために十字架にかかって死んでくださったイエス・キリストを知ったからです。私たちの罪の償いは神の御子であるイエス・キリストが自分の命をささげなければ解決できないほど、深刻で救いようがないことをパウロは知ったのです。そしてその彼は自分たちを救うために、十字架にかかってくださったイエス・キリストの愛を知ったのです。だからパウロは続けてこう語っています。
「そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。」(3章8~9節)
自分の罪を償うために自分の善い行いに頼ろうとする者は必ず最後には絶望に導かれます。しかし、聖書はその私たちに救い主イエス・キリストを示すことでまことの希望を与えます。宗教改革者マルチン・ルターも自ら修道士として厳しい修行に励むことを通して絶望へと導かれました。そしてそのルターは聖書の示す福音によって救い主イエス・キリストを見出し、変わることのない喜びへと導かれたのです。だからルターは教会が贖宥符を売ることは間違いであり、教会の使命は救い主イエス・キリストを伝えることだと主張し、ここから宗教改革運動が始まったのです。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.まずあなたもハイデルベルク信仰問答の問62の本文を読んでみましょう。
2.あなたは今まで、自分の救いのために「善き行い」をすることが役に立つと考えて、それに励んだことがありますか。
3.それではどうして信仰問答は私たちの「善い行い」は自分が神の御前で「義とされる」ためには役に立たないと言っているのでしょうか。
4.このような教えによるなら、自分が救われているかどうかの判断を自分の「善き行い」によって判断しようとする人はどのような悲惨な結果を招くことになりますか。
5.私たちが神の御前で義とされるためには、自分の「善き行い」ではなく、何が必要だと思いますか。