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  4. 1月19日「ぶどう酒がありません」

2025.1.19「ぶどう酒がありません」 YouTube

聖書箇所:ヨハネによる福音書2章1~11節(新P.165)

1 三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。

2 イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。

3 ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。

4 イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」

5 しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。

6 そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。

7 イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。

8 イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。

9 世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、

10 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」

11 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。


1.しるしの意味

 私がまだ五歳の頃のお話だと思います。当時、三輪車に乗っていろいろなところに出かけることを覚えた私でした。それがうれしくて母に黙って、外に出かけることがよくあったようです。しかし、母はその頃のことを思い出してこう言うのです。「でも、お前がどこに行ったかはすぐにわかったよ…」と。当時、駄菓子屋で「ろう石」と言うのが売っていて、私は外出時にその「ろう石」を使って道路に「りょういち→」というしるしをあちこちに書いていたのです。だから母は私の姿が突然にいなくなっても道に書かれたしるしをたどれば私を見つけることができたそうです。

 私たちが今日、読んでいるヨハネによる福音書の一つの特徴はイエスが行われた驚くべき奇跡の御業を「しるし」と言う言葉で紹介しているところです。イエスの奇跡は単に人々を驚かせるために行なわれるような一種のパフォーマンスではありません。その奇跡にはちゃんとした目的があることをこの言葉を使ってヨハネは教えようとしているのです。それではイエスのなされた奇跡の目的とは何なのでしょうか。それはこの奇跡を行われた方こそが私たちを救い出すために神の元から遣わされた救い主であることを知らせるためです。ですから、私たちが普段、自分の持っている偏見を捨てて、素直にこのイエスの「しるし」を受け入れていくなら、その「しるし」が私たちをイエス・キリストの元に導き、その方とのすばらしい出会へと招いてくれるのです。

 今日の聖書箇所でもヨハネは「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた」(11節)と記しています。この「しるし」を通して弟子たちは救い主としてのイエスの姿に出会い、彼を信じることができるようにされたと言うのです。

 聖書の読み方には様々なものがありますが、ここに書かれた出来事が現代の科学に反しているとか、あるいは常識に合わないと考えて、合理的な解釈を試みるようなことばかり心を向けていると、私たちは肝心のイエスが示された「しるし」の意味を見失ってしまう可能性があります。だからこそ、私たちはここで素直に聖書の記述に耳を傾け、そこで示された「しるし」を通して私たちの救い主がどのような方で、何をするために私たちのところに来てくださったのかを知ることが大切なのです。


2.創造者であるイエス

 この福音書の冒頭の部分を読んでいると一つ不思議な表現が記されていることを私たちは発見します。ヨハネによる福音書の1章の29節で「その翌日」、35節で「その翌日」、43節でも「その翌日」そして今日の2章1節では「三日目に」と言う日にちの数え方がわざわざ記されているのです。よく調べてみるとこの日にちの計算の起点となるのは1章19~28節に記されている洗礼者ヨハネが来るべき救い主の到来を預言する出来事から始まっていることが分かります。そしてこの日にちの数え方は今日の物語の「三日目に」で終わり、この後は続いていません。ですから今日、私たちが読んでいる「カナの婚礼」の出来事は、福音書の表記の最初から数え始めて「六日目」に行なわれていることが分かります。

 聖書の解釈者たちはこの「六日間」は旧約聖書の創世記が記している神の創造の「六日間」になぞられていると解説しています。創世記は神の御業によって天地万物が最初の「六日間」で創造されたと言うことを教えています。ですからヨハネによる福音書はこれと同じように、イエス・キリストによってこの世界を新たに造り変える神の「再創造」の御業が始まったと説明していると言うのです。確かにこのヨハネによる福音書は冒頭で「初めに言葉があった」(1章1節)と言う言葉を書き記しています。これは創世記の1章1節の「初めに、神は天地を創造された」という言葉を明らかに意識して記されていることが分かるのです。

 ですから、このような言葉からヨハネはイエス・キリストが天地万物を創造された神であり、その神が人となられてこの地上に来られ、世界を救いに導く御業、つまり神が始められた創造の御業を完成させるために来られた方であることを教えようとしていると考えることができるのです。


3.マリアの願いとイエスの答え

①神の救いを表す婚礼

 さて、今日の聖書の物語はガリラヤのカナと言う場所で行われた婚礼が舞台となっています。現代の結婚式は披露宴も含めて半日くらいで終わるものかも知れませんが、当時の結婚式はそのようなものではなく、一種のお祭りのようなもので、たくさんの人が招待され、何日間も続けて行われることもあったと言われています。

 ここで一つ、覚える必要がるのは「婚礼」は旧約聖書の中で神の救いの出来事を表すものとして用いられていると言うことです。例えばイザヤ書62章5節では「若者がおとめをめとるように/あなたを再建される方があなたをめとり/花婿が花嫁を喜びとするように/あなたの神はあなたを喜びとされる」と語られています。この預言は神が花婿となり、私たちを花嫁としてめとることで、私たちの救いが実現すると言うことを表しているのです。

 今日の聖書はこのような重要な婚礼の席で「ぶどう酒がなくなる」、つまりある意味では神の救いの計画がとん挫しかねないような出来事が起こったことを表しています。聖書はでは「ぶどう酒」は神の救いにあずかる者たちに与えられる祝福を象徴するものとして用いられてもいます。ですから、この出来事は単なる不注意や失敗では片づけることのできない出来事であったとも語ることができます。


②どんなかかわりがあるのか

 ここで興味深いのこの物語でのイエスの母マリアの役割です。もしかしたら、マリアはこの婚礼を手伝うために裏方の奉仕をしていたのかも知れません。ですからここではまず「ぶどう酒が足りなくなった」と言う緊急事態がマリアに告げられています。そこでマリアは息子イエスに「ぶどう酒がなくなりました」と言う事実を伝えるのです。ところがイエスはこのマリアの言葉を聞いて次のように語ったと言うのです。

「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」(4節)。

 「婦人よ」と言う呼びかけの言葉はむしろ丁寧なものなのですが、決して自分の母親に向って語る言葉ではありません。さらに「わたしとどんなかかわりがあるのですか」と言う言葉はむしろその親子関係を否定するような表現にも聞こえます。この表現についての一つの説明はこれから起こる出来事がマリアという母親の指示によって行われたものではなく、あくまでもイエスを救い主としてこの地上に遣わされた父なる神の計画に基づくものであることを知らせるための表現だと考えることができます。つまり、イエスは父なる神のみ旨に従ってこの出来事を行われたのです。

 また、「わたしとどんなかかわりがあるのです」と言う言葉はマリアとの関係ではなく、今、目前で起こっている出来事、つまり「ぶどう酒がなくなりました」と言う出来事を指して言っていると考えることもできます。この場合、どう考えて見てもこのような出来事は人間の力では解決できないことを語り、むしろ解決することができるのは「神」しかおられないことをイエスは示して、私たちの目を神の御業に向けるために語ったとも考えることができます。

 そしてイエスが語る「わたしの時はまだ来ていません」の「わたしの時」とは救い主であるイエスが十字架にかけられるときを表すと考えることができます。ですからイエスはまさにこの出来事を通して神の計画に基づいてやがて実現する十字架の出来事を示し、また神が人間には不可能な救いの御業をそこで実現してくださることを教えて、このカナの婚礼の出来事はその十字架の出来事を予め示すものだと言うことを語っていると言えるのです。

 ヨハネによる福音書でイエスの母マリアが登場するのはこの箇所の後は、イエスの十字架の場面です(19章25~27節)。このようなことからもこのカナの婚礼の出来事がイエスの十字架の出来事と深く関係しており、その十字架の意味を伝えていることを私たちに教えようとしていることが分かるのです。


③マリアの願い

 ある有名な説教者はこのマリアとイエスとの関係を通して、私たちの祈りについてのアドバイスを語っています。その説教者は「私たちは祈りにおいて、自分の願いを遠慮なく語っていい」と言うのです。もちろん、この説教者はそうすれば、私たちの願い事はすべて実現するとは教えていません。なぜなら、私たちの祈りに答えを与えることも主導権はイエスの側にあるからです。そしてそのイエスは神の救いの計画を実現するという目的に沿って、私たちの祈りを判断し、その祈りにふさわしい答えを与えてくださる方なのです。その点において、私たちの側はいつも何が正しい祈りなのかが分かっていません。むしろそんなことを考えてしまったら、何も祈れなくなってしまうのです。だから、この説教者は私たちに「安心して何でも祈るように」と語ります。祈りの主導権はイエスの側にあるから大丈夫だと言うのです。もし、この祈りの主導権が私たち人間の側にあったとしたら大変なことになるかも知れません。世界も私たちの人生も混乱の中に導かれてしまうかも知れません。しかし、それは無用な心配なのです。

 マリアはここでイエスの言葉を聞いた後、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と召使たちに語っています(5節)。これはイエスが最もふさわしい答えを持っていると言うマリアのイエスに対する信頼の態度を表す言葉になっています。だから私たちもマリアと同じように「主イエス・キリストの御名によって祈ります」と祈って、イエスに対する私たちの信頼を表すことが大切なのです。


4.召使たちだけが知っていた

 イエスはここで召使たちに「水がめに水をいっぱい入れなさい」と命じています(7節)。ヨハネによればここにあった水がめはユダヤ人が清めに用いる水がめで数は六つ、体積容量は二ないし三メトレル、これは現在の単位に直せば100リットル近い巨大な水がめであることがわかります。ですからこの水がめを満たすという作業は簡単なものではありませんでした。しかし、召使たちはここでイエスから命じられたことを果たしています。その上で「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」(8節)と言うイエスが指示通りに従ったのです。

 世話役は召使たちが運んできたぶどう酒を味わって驚きます。彼はイエスによって水がぶどう酒に変えられたことを知りません。むしろ「なぜこんな上等なぶどう酒を今までどこかに隠していたのか」と驚いてそのわけを花婿に尋ねているのです(10節)。

 この出来事によって婚礼の席に集まった人々はイエスによって変えられたぶどう酒を味合うことができました。しかし、そのぶどう酒がイエスの御業によって変えられたものであることを知っていたのは水を汲んだ召使たちだけだったと言うのです(9節)。これは今もなお、神が休まずこの地上に働き続けられ、その御業を実現されていることについても同じだと言えるかも知れません。その神の御業の恩恵にはすべての人があずかることができます。しかし、それが神の御業によるものであることを知ることができるのは、神の御言葉を聞いて、それに従って生きる者だけに限られるのです。

 毎日曜日の朝、教会の礼拝に出かける皆さんの行動を近所の人たちは不思議に思うかもしれません。なぜ、休みの日まで使って教会の礼拝に通うのかと…。しかし、私たちは知っています。神が私たちの水のように味気ないものだった人生を、喜びに満たされた人生に変えてくださることを…。さらに、私たちの限りある地上の命も、イエス・キリストの御業によって永遠の命に変えられていることもです。

 神の言葉に聞き従う私たちの人生には、私たちにしか知りえない喜びが与えられることを今日の物語は教えています。そして神の言葉に従う私たちにイエス・キリストは「しるし」を示し、私たちをすばらしい救いに導いてくださることをこの礼拝でも覚え、神に感謝をささげたいと思います。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.ガリラヤのカナで婚礼があったときイエスは誰と一緒にいましたか(1~2節)

2.ぶどう酒が足りなくなったことを知ったマリアはそのことを聞いて何をしましたか(3節)。マリアはなぜそのようなことをしたのでしょうか。

3.イエスはこの時のマリアの言葉(3節)を聞いて何と答えられましたか(4節)。あなたはこのイエスの言葉を聞いて、どんな感想を持ちましたか。

4.マリアは召し使いたちに何と言いましたか(5節)。イエスはこの召し使いにどのようなことを命じましたか(7~8節)。

5.宴会の世話役は召し使いたちが運んできたぶどう酒を飲んでどのような反応を示しましたか(9~10節)。

6.イエスのなされた「しるし」を通して、そこでどのようなことが現れましたか?この出来事は弟子たちにどのような影響を与えましたか(11節)。

7.この物語の中で水がぶどう酒に変わったことを知ったのは誰でしたか。どうして彼らだけはその特権にあずかることができたのですか(9節)。

2025.1.19「ぶどう酒がありません」