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2025.1.26「御言葉に育まれる教会」 YouTube

聖書箇所:詩編1編2~3節(旧P.835)

2 主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。

3 その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。


1.神を賛美する詩編

 毎年、定期会員総会の開催される日の礼拝ではその年の教会の年間聖句と年間テーマに関するお話をすることになっています。今年の年間聖句は先ほど読んでいただいた詩編1編の「主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす」と言う言葉になります。また年間テーマはこの年間聖句の内容から「御言葉に育まれる教会」としました。実はこの年間聖句と共に教会では毎月、表の道路に面した掲示板に月間聖句を貼り出しています。昨年の月間聖句はすべて旧約聖書の箴言の言葉を選びましたが、今年はこの年間聖句と同じように詩編の言葉を毎月に渡って貼り出していく予定になっています。

 この詩編は文字通り信仰者の歌を集めた歌集です。有名なところでは「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」と言う言葉で始まる詩編23編があります。この詩編の最初には「ダビデの歌」と言う文字が記されています。かつてイスラエルの王とされたダビデは幼い頃、羊の世話して暮らすような生活を送っていました。その経験からダビデは羊飼いと羊の関係に例えて神に対する自分の信仰を歌ったのです。

 詩編にはダビデ以外の信仰者が記した詩もたくさん含まれています。もともと、この詩編は何のために作られたかと言えば、イスラエルの民が神殿で礼拝をささげるときの賛歌、神を賛美する歌として作られ、編集されたと考えられています。詩編と言う題名はヘブライ語聖書では「テヒリーム」と言う言葉で記されていますが、この言葉は「賛美」と言う意味を持っています。このことからも詩編は私たちが今、礼拝で用いている讃美歌と同じ性格を持ったものだと考えてよいのです。改革派教会では「ジュネーブ詩編歌」と言う詩編に簡単なメロディーをつけたものが作られ現在でも礼拝で用いられています。

 先日、この教会を会場にして歌の教室を開かれている鈴木先生と話したときに「普通の会話ではよく聞こえる声を出せる人が、歌を歌い出すと急に小さな声になってしまう…」と言うことを話しておられました。教会の礼拝でも讃美歌には「声のかぎり讃えて」と言う歌詞があるのに、あまり賛美の声が聞こえてこないということがあります。そのことを鈴木先生と話したら「皆さん、緊張しているのでしょうね…」と言う答えが返ってきました。もちろん、讃美歌が「声のかぎり讃えて」と歌うのは、大声を出して歌えと言っているのではないと思います。むしろこの言葉は私たちの神に対する感謝の思いを、自分にでき得る限りに表そうと言っているのです。だから私たちはたとえ歌う声は小さくなっても、私たちの神への感謝の思いを心から歌えればよいと思います。そして詩編はそのような意味で、私たちが神を心から賛美する理由を私たちに教えていると言うこともできます。


2.幸いな人とは誰か

 詩編1編は「いかに幸いなことか」と言う言葉から始まっています。神を信じて生きるということがどんなに幸いであるかと言うことをこの言葉は私たちに語っているのです。私はクリスチャンの家庭で育ったのではありませんから、子どもの頃によく「ご利益」と言う言葉を聞くことがありました。「どこそこの神様を拝めばこんなご利益がある」と言って、父や母は様々な神社やお寺に行って、お参りしていました。私は高校受験のために湯島天神まで両親に連れて行かれ、神官からお祓いを受けたことを今でも思い出します。これを「信仰」と言ってよいかどうか分からないのですが。普通、私たちは何かの利益を実現するための手段として神を信じるということを考えてしまいます。しかし、聖書の語る信仰とはそのようなものではないと言えます。なぜなら信仰は私たちが何かを得るために行なう手段ではないからです。むしろ、神を信じて生きることは私たちの人生の目的であると言ってよいのです。ですからここで詩編が「いかに幸いなることか」と言っているのは、「神を信じたらこうなるから幸いだ」と言っているのではなくて、むしろ神を信じることができたこと自体が幸いだと教えていると考えてよいのです。

 もちろん詩編もここで「その人のすることはすべて、繁栄をもたらす」とも教えています。これは「信じれはその人の人生はすべて善いことに恵まれ、人生の成功者になる」と言うことを言っているのではありません。むしろ、私たちの人生に起こるすべてのことが、私の祝福のために神から与えられたものであることを信仰者は知っていることを語るのです。

 ハイデルベルク信仰問答はこのことについて問1で「天にいますわたしたちの父のみ旨でなければ、髪の毛一本も落ちることができないほどに、わたしを守っていてくださいます。実に万事がわたしの救いのために働くのです」と語っています。この信仰問答の言葉も、詩編の言葉も私たちが神を信じることができたということがどんなに素晴らしいことなのかを教えていると言ってよいのです。


3.悪人とは誰か

①魅力ある悪人たち

 ところでこの詩編は最初に神を信じることができた者がどんなに幸いなのかを「神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず」(1節)と言う言葉で説明しています。私は聖書のお話をする際に、いくつかの日本語訳聖書を読み比べて参考にしています。実はこの新共同訳の前に日本で長く使われていた口語訳聖書は「悪しき者のはかりごとに歩まず…」とここを訳しています。またその後に出版された新改訳聖書でも「悪者のはかりごとに歩まず…」となっていて、最も新しく翻訳された聖書協会共同訳聖書でも「悪しき者の謀ごとに歩まず」となっています。聖書協会はこの部分の言葉をもとの口語訳聖書の翻訳に戻しているのです。つまり、このような聖書の翻訳から考えて見ても、本来ここは「悪者」と訳した方がよいような言葉が使われていることが分かるのです。

 ただ、ここを「悪者」と翻訳してしまうと今度は誤解が生じる可能性が生まれます。つまり、ここでは悪者の計画に加わり、それに従うことがないことが信仰者の特徴だと言っています。しかし、どう考えて見ても「悪者」と一緒に行動することを自分から好んでする人はいないと私たちは考えてしまうはずです。ブラックなバイトに引きずり込まれて犯罪者になってしまう人のほとんどは、最初はよくわからずに、言葉巧みにそそのかされてしまうから、そうなるのでです。しかし彼らと違い、多くの人はそんなうまい話にのってはいけないと考えるはずです。ところが、ここで聖書が言う「悪人」とはそのような犯罪者たちのことを言っているのではないのです。彼らはこの世から見れば常識人であり、また成功者であり、またこの世の富を欲しいままに手に入れることができる人たちであると言えます。この世の人々から見れば彼等は魅力に満ちていて、人気者であり、彼等と一緒に行きたいと誰もが思う人々なのです。ところが聖書は神を信じる者はこの人々共に歩まない、一緒に生きることはないと断言するのです。その理由は私たちが今、読んでいる新共同訳の言葉にあるように彼らが「神に逆らう者」だからです。


②水がなければ成長しない

 それではなぜ、神を信じる者は彼らと共に歩まないのでしょうか。その理由は3節で語られています。「神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻」と。私の母の実家は大きな農家で子ども頃に収穫された稲を脱穀する作業を見たことがあります。大きな機械につけられた煙突のようなところからもみ殻だけが風に飛ばされて出てきて小高い山となります。そして農家の人たちはそのもみ殻の山に火がつけて燃し、すべてを灰にしてしまうのです。神に逆らう者がどんなに繁栄しているように見えても、やがてはこのもみ殻のようになると詩編は語っているのです。それはどうしてでしょうか。彼らは流れのほとりに植えられた木ではないからです。

 私たちの住む日本の国土は水に恵まれていて、植物が豊かに育つ環境を持っています。しかし、乾燥地帯にあるイスラエルはそうではありません。せっかく芽を出した植物も、暑く乾いた風が吹くとすぐに枯れてしまうのです。そこで大切なのは植物の成長に必要な水の存在です。だからこの詩編は神を信じる者は流れのほとりに植えられた木、つまり、植物が成長するために必要な水をいつも受けることができる人たちが彼らだと語っているのです。


4.主の教え

 それでは神を信じる人々を生かし、また成長させるために与えれる水、あるいはその水を信仰者に供給する水路とは何なのでしょうか。詩編はそのことについて次のように語っています。

「主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。」

 世の多くの人は自分が不幸せである原因を家族や他人のせいにしたりします。また自分の生きている環境のせいにすることもあります。そして「だから、どうにもならない」と自分の人生を諦めてしまうのです。しかし、詩編記者はそのような考えに反対してここで語っています。大切なことは「主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ」ことだと教えるのです。かつてのイスラエルの民にとって「主の教え」とはモーセを通して彼らに与えられた「律法」を意味していました。だから彼らは律法を大切にして、自分が生きる指針を律法に求め続けたのです。

 キリスト教会はこの「主の教え」を律法だけではなく、聖書全体と考え、その聖書全体が指し示す救い主イエス・キリストこそが私たちが生きるために必要な水を供給してくださる方、またその水の源だと信じています。新約聖書の中でイエスは次のように語っているからです。

「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハネ4章14節)。

 ですから、私たちはこの主イエスが与えてくださった聖書の言葉、またその主イエスをいつも指し示す聖書の言葉を大切にして生きる必要があります。なぜなら、この詩編記者も語るように主イエスの言葉である聖書の言葉を愛する者は「流れのほとりに受けられた木」のように、主イエスによって生かされ、育まれ、たとえその人生に試練のような嵐が吹き荒れても、決して枯れることがないものとされるからです。


5.教会の命であるみ言葉

①教会の礼拝で主の教えを聞く

 私たちの教会の使命はこの主の教えを愛し、その教えを人々に伝えることにあると言えます。そしてこの主の教えである聖書の言葉が語られる場所こそ教会の礼拝であると言うことができます。この詩編の中でも「罪ある者は神に従う人の集いに堪えない」(5節)と言う言葉が記されています。この言葉からも分かるように神に従う者は神の言葉が語られる集い、つまり礼拝を大切にして、そこで主の教えを聞こうとするのです。そしてそこで聞く、主の教えによって成長を遂げて行くのです。

 また、教会の礼拝は神の教えを聞くことができる場所として、まだその言葉を聞いたことがない人たち、その教えに耳を傾けたことのない人をたち導くための場所となります。つまり教会の礼拝こそが伝道の場所であると言えます。ですから私たちはこの礼拝が、すでに信者となっている者たちだけではなく、誰もが参加できる場所となることができるように心がけ、またそのために神に祈っていきたいのです。


②主の教えは自分の罪を教え、私たちを変える

 とかく私たちは自分の考えや経験に固執してしまう傾向があります。詩編記者が冒頭で警告する悪人の生き方はそのような人の生き方を語っていると言えます。もちろん、私たちの考えや経験の背後にはこの世の常識と呼ばれるものや、この世が重んじる経験と言うものがあるかも知れません。そしてこの世はむしろそのような常識や経験が私たちを成功へと導くと教えるのです。だからこそ私たちにとってはそれが大きな誘惑となる訳です。しかし、詩編記者がここで語るように私たちを生かすのはそのような世の常識や経験ではなく、主の教えなのです。

 この間の中会の教師会の最初に説教をしてくださった一人の牧師は、そのお話の冒頭で自分が牧師として犯した罪を素直に告白されていました。それは自分が教会を導く牧師でありながら自分の計画だけを重視して、主のみ旨を蔑ろにしてしまったことだと言うのです。またそのために教会員に重荷と感じるような期待をかけて、その教会員の信仰を躓かせてしまったとも言われていました。私はその牧師の話を聞いて、自分も同じような過ちを犯してきたかも知れないと反省させられました。もちろんこの牧師の話はそこから神のゆるしのすばらしさを語るものでした。

 私たちが神の教えに耳を傾けるときに、まず知ることができるのは私たちがどんなに主の教えを蔑ろにし、自分の思いや経験に固執して罪を犯してきたかと言うことです。しかし、主の教えはそれだけで終わるものではありません。主の教えはそのような私たちにイエス・キリストによって与えられた罪の赦しを語り、私たちに神の愛を伝え、私たちを変えてくださるからです。

「主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」

 私たちはこれから始まる新しい年度をこの聖書の言葉を覚えながら、主の教えである聖書の御言葉によって育まれる者として教会生活を送って行きたいと願うのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.この詩編は幸いな人について、まず彼らは何をしないと教えていますか(1節)。

2.この詩編は幸いな人について、彼らの特徴をどのように語っていますか(2節)。

3.この詩編は4節で神に逆らう者について「彼らは風に吹き飛ばされるもみ殻」と語っています。彼らに反して幸いな人について「その人のすることはすべて、繁栄をもたらす」と言っている理由は何だと教えていますか(3節)。

4.どうして「罪ある者は神に従う人々の集いに堪えない」(5節)と言えるのでしょうか。

5.この詩編の言葉から学ぶとき、私たちの命を育み、私たちに祝福をもたらす生き方とはどのようなものだと言えますか(2節)。

2025.1.26「御言葉に育まれる教会」