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  4. 1月5日「神の栄光の輝きが現れる」

2025.1.5「神の栄光の輝きが現れる」 YouTube

聖書箇所:マタイによる福音書2章1~12節(新P.2)

1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、

2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」

3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。

4 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。

5 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。

6 『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」

7 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。

8 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。

9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。

10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。

11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。

12 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。


1. 公現日の意味

 今日はクリスマスの季節を締めくくる公現日の礼拝をささげます。「公現日」と言う言葉はあまり聞きなれない言葉かも知れません。実はこの公現日の根拠となるのが今日の聖書箇所に記されているクリスマスの物語となります。ここに登場するのは東の方の国からやって来た占星術の学者たちです。彼らは星の研究を生業にしている人々で、ユダヤ人の王の誕生を自分たちが研究していた星によって知らされます。そしてその王を拝みに遥かユダヤの地にまでやって来て幼子イエスと対面したと言うのです。

 旧約聖書のイザヤ書60章には次のような預言の言葉が記されています。

「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り/主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い/暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で/主の栄光があなたの上に現れる。国々はあなたを照らす光に向かい/王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。」(1~4節)。

 ここには主の栄光が輝きだし、その光に向かって地上の王たちがやって来ると言う預言が語られています。さらにイザヤは次のように続けて語ります。

「海からの宝があなたに送られ/国々の富はあなたのもとに集まる。らくだの大群/ミディアンとエファの若いらくだが/あなたのもとに押し寄せる。シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る。こうして、主の栄誉が宣べ伝えられる。」(5~6節)

 このときやって来た王たちよって様々な宝が集められ、主にささげられるとイザヤは語ります。特に後半で「黄金と乳香を携えて来る」と語られています。今日の物語に登場する東の方の国からやって来た占星術の学者たちもイエスに「黄金、乳香、没薬」をささげました。このことからキリスト教会はイザヤの預言の言葉がこの時に実現し、救い主イエスの栄光が全世界の人々の上に照らされたと考えるようになりました。これが公現日の根拠であり意味であると言えます。つまり、この公現日の目的は神の救いの御業が聖書では「異邦人」と呼ばれて、本来は神の救いにあずかることができない人々の上に実現したということを記念する日だと言えるのです。

 クリスマスの日に最初にやって来た羊飼いたちはユダヤ人でありながら、やはり神の救いの対象から外されていると多くの人に信じられていた人々でした。ですからクリスマスの出来事の中で羊飼いや今日の占星術の学者たちの存在がクローズアップされるのは、神の救いの御業に関係しない人はこの世界に一人もいないことを表しているとも言えるのです。


2.星に導かれた

①占星術の学者たち

 私たちが住んでいる川口市では夜でも煌々と輝く町の明かりのせいか、夜空を眺めても簡単には星を見つけることができません。私が子どものころは今よりも大気汚染がひどい時代でしたが、町の明かりが少なかったせいでしょうか、たくさんの星を見ることができました。私はそのたくさんの星を眺めながら、自分が地球という一つの星に住んでいること、そしてその地球に住む無数の人間たちの中の一人にすぎないことを子ども心に痛感させられたことがあります。無限の大宇宙に対して、自分の存在があまりにも小さいことに驚かされ、また恐れのようなものを感じたのです。

 占星術の学者たちの仕事はこの無限の大宇宙の星を研究し、その動きと地上の出来事との関係性を探るものでした。昨年のNHKの大河ドラマ「光る君へ」でも当時の朝廷の中で大きな影響力を持っていた陰陽師の安倍晴明が登場していました。聖書に登場する占星術の学者たちもこの安倍晴明に近い存在と言ってよく、政府の高官として働いた人たちであったと考えることができます。その点では彼らは現代の「星占い師」とは全く違った存在であっと言えるのです。

 彼らは政府の高官でありながらも、無限の大宇宙を研究することによって、その宇宙の神秘を知ることができた人たちでした。おそらく、彼らはこの宇宙の背後に、それをつかさどる神の存在があることを信じていたのかも知れません。だからこそ、彼らはこの宇宙の変化にいち早く気づき、その変化が宇宙をつかさどる神からのメッセージであると考えたのです。


②星にとらえられて

 東の方の国からやって来た占星術の学者たちがなぜ、遥か遠いユダヤの地まで旅を続けてやって来たのでしょうか。彼らはその理由について当時のユダヤの王であったヘロデの前に出て次のように説明しています。

「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」(2節)

 「わたしたちはその方の星を見たので、拝みに来たのです」と彼らは語っています。この言葉を読むと彼らが見つけた星は彼らにとって「ユダヤ人の王」自身のような存在であったことが分かります。つまり彼らは単なる星に導かれたのではなく、ユダヤ人の王としてお生まれになった方に導かれてここまでやって来たと言っているように聞こえます。まさに、彼らの無謀とも言える行動の背後にこのユダヤ人の王としてお生まれになった方、つまり救い主イエスからの働きかけがあったことがこの言葉から分かります。

 一国の政治を任されている政府の高官たちが、突然、行先もはっきりわからないまま旅に出るのは驚くべきことであると言えます。彼らには目的地に着く保証も、またそこから無事に帰ってくる保証もありませんでした。もしかしたら彼らの家族や友人たちは彼らが旅に出ることを反対したのかも知れません。しかし、彼らはそれでも星に導かれて、いえ、その星に捕らえられたかのように旅に出発したのです。

 これは私たちの信仰生活にある点で似ているようにも思えます。聖書や信仰について何も知らない友人たちは、私たちに「そんな得にもならないようなことに、何の意味があるのか…」と疑問を投げかけます。私たちは彼らの疑問に答えることのできるような十分な説明をすることができないかも知れません。それでも私たちがイエス・キリストを信じるのは、理屈ではなく、イエス・キリストご自身が私たちを捕らえてくださり、導いてくださっているからだと言えるのです。


3.幼子を拝む

①礼拝する

 東の方の国からやって来た占星術の学者たちは「ユダヤ人の王としてお生まれになった方を…拝みに来た」と語っています。そして、彼らがベツレヘムの町に到着し母マリアと共におられる幼子に出会ったとき、彼らは「ひれ伏して幼子を拝んだ」と記録されています。彼らはここで救い主イエスを礼拝したのです。それでは彼らがささげた礼拝の意味とは何なのでしょうか。

 このお正月も私たちの住む日本ではたくさんの人々が神社やお寺に「初詣」に出かけました。その多くの人は初詣に出かけて「家内安全」とか様々な願い事をかなえてもらおうとして、神仏を礼拝するのです。聖書の教える礼拝はある意味で私たちが知っている礼拝とは全く違った意味を持っています。なぜなら、聖書が教える礼拝とはまことの神を崇め、私たちの人生をその神に委ねて生きることを表すものだと言えるからです。私たちの願いを神に聞いてもらうのではなく、むしろ私たちがその神の御心に従って生きることを決心してささげるのが聖書の教える礼拝の意味なのです。

 東の方の国からやって来た占星術の学者たちは自分の人生だけではなく、一国の政治の行方を決めるような重要な役目を担ってきた人たちでした。大宇宙の神秘を知る彼らは、自分たちのような無力な存在がそのようなことを決めることに恐れと不安を感じていたのかも知れません。だからこそ彼らは、自分たちの人生を委ねることのできるような確かな方の存在を求めてこのベツレヘムまでやって来たのです。そして彼らは幼子イエスに出会い、その方を礼拝したのです。


②新しい人生の出発

 クリスマスの物語を示す絵本にはこの占星術の学者たちがそれぞれ王冠をかぶった王の姿で描かれる習慣があります。それは最初にも言いましたようにこの出来事がイザヤ書の預言の成就であり、異邦人の王たちが救い主を拝むためにやってきたと言うことを示すためであると言えます。まさに、このような描き方こそが公現日の意味を示すものとしてふさわしいと考えられて来たのです。

 ただ、彼らの正体についてはもっと違った考え方もあります。それは特に、彼らが幼子にささげた贈り物の目録から考えることができます。「黄金、乳香、没薬」を彼らはここでささげたと言います。この中で乳香は良い香りを漂わせる「お香」のようなものです。神聖な場所での儀式に用いられたと言われています。もう一つの没薬は古代においてミイラなどを作る場合に、死体を腐敗させることを防ぐために用いられるものでした。ですから、このようなものが幼子にささげられるのはちょっと珍しいかも知れません。このことから教会ではこの没薬をイエス・キリストの十字架の死を暗示するものと解釈する人もいます。

 しかしこの「黄金、乳香、没薬」については、占星術の学者が人を呪ったり、様々な儀式を行うために用いる大切な商売道具であったという説が存在するのです。つまり、彼らはベツレヘムまで幼子にささげる大切なプレゼントを持って来たと言う訳ではなく、彼らが商売道具として肌身離さず持って来たものを、ここで幼子イエスにささげたと言うのです。そう考えると彼らがこの時にささげた礼拝の意味がもっと具体的になるかも知れません。なぜなら、彼らはここで自分の人生を委ねるべき救い主に出会うことで、それらの商売道具がいらなくなったことを知ったからです。つまり、これらのささげものは占星術の学者たちの救い主イエスに対する信仰の表明であったと言えるのです。


4.いつまでも残り続けるものに心を向ける

 この物語には救い主イエスに出会い自分の人生を委ねることができた彼らとは全く対照的な人々の存在も紹介されています。それはヘロデ王とエルサレムの人々です。彼らは占星術の学者たちからの知らせを聞いてむしろ「不安になった」と言うのです(3節)。それは彼らがこの出来事によって自分たちが何かを失ってしまうかも知れないと心配になったからだと言えます。ヘロデにとっては王と言う地位がどうなるかが心配となりました。またエルサレムの人々にとっては毎日の平穏な生活が失われるのではないかと言う心配が生じたのです。

 元旦のリジョイス誌の日課でヘブライ人への手紙からのメッセージを引退牧師の岩崎謙先生が書いていました。このお話の結論の部分で先生は次のような言葉を記しています。

「年が明けても、往々にして、私たちの心は昨年失ったものに結ばれたままです。信仰によって、失われたものを慕い続ける心を新たにし、いつまでも残り続けるものに心を向けましょう。失ったものは、いつかは失うはずのものだったのですから。私たちは、何が起こっても信仰をもって受け止め、信仰の喜びを改めて握りしめ、この一年を歩みます」。

 この岩崎先生の言葉から考えると今日の物語に登場する東の方の国からやって来た占星術の学者たちは「いつまでも残り続けるものに心を向けた」人々であったと考えることができるかも知れません。彼らは「失ったものは、いつかは失うはずのものだった」と言う信仰を持って、返ってどんな犠牲も惜しむことなく、星に導かれて旅をし、救い主に出会うことができのです。

 私たちの新しい年の歩みも、この占星術の学者たちのように「いつまでも残り続けるものに心を向ける」歩みでありたいと願います。そのために共に私たちの人生を導く星の光のような救い主イエスを信じて歩んで行きたいのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.イエスがヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、エルサレムにどのような人々がやって来ましたか(1節)。

2.彼らはヘロデ王のもとに赴き、どのようなことを尋ねましたか(2節)。

3.この知らせを聞いてヘロデ王はどのようになりましたか。またエルサレムの人々はどうなりましたか。彼らがそうなった理由も考えてみましょう(3節)。

4.ヘロデ王は祭司や律法学者たちからどのような情報を得ましたか。そして彼は占星術の学者たちに何と言いましたか(8節)。

5.ベツレヘムに向かう占星術の学者たちを幼子の元に導いたものは何でしたか(10節)。

6.彼らは母親マリアと共にいた幼子に出会い、どのようなことをしましたか(11節)。

7.幼子に出会うことができた彼らがヘロデの命令通りに彼の元に帰らなかったのはなぜですか(12節)

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