2025.10.12「幼児洗礼について」YouTube
マルコによる福音書10章13~16節(新P.81)
13 イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。14 しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。15 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」16 そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。
ハイデルベルク信仰問答書
問74 幼児にも洗礼を授けるべきですか。
答 そうです。
なぜなら、彼らも大人と同様に神の契約とその民に属しており、キリストの血による罪の贖いと信仰を生み出される聖霊とが、大人に劣らず彼らにも確約されているからです。それゆえ、彼らもまた、契約のしるしとしての洗礼を通してキリスト教会に接ぎ木され、未信者の子供たちとは区別されるべきです。そのことは、旧約においては割礼を通してなされましたが、新約では洗礼がそれに代わって制定されているのです。
1.幼児洗礼を巡る問題
キリスト教会の会員になるために最初に必ず受けなければならないものが洗礼です。ですから、教会によってはこの「洗礼式」を「洗礼入会式」と呼ぶところもあります。洗礼を受けることを希望される方はあらかじめその願いを教会に申し出ます。すると教会ではその人のために洗礼準備会と言って洗礼式で誓約する内容の勉強会を行うことになっています。その方がイエス・キリストへの信仰を持って、今後忠実に教会生活を送って行くという誓約を本人自身が十分に納得して行い、洗礼を受けることができるようになるためです。このような意味で洗礼を受ける人には自分が誓約する内容をよく理解し、また心からその誓約に同意することが求められているのです。
今日のハイデルベルク信仰問答の問74には「幼児にも洗礼を授けるべきですか」と言う質問が記されています。ヨーロッパのようなキリスト教国では伝統的に信者の家に子どもが誕生すると、その子が生まれてすぐに教会で洗礼を受けることになっています。これを通常、「幼児洗礼」と呼び、今でも世界のキリスト教の大半の教派がこの幼児洗礼を行う習慣を守っているのです。宗教改革の中で生まれた私たち改革派教会の中でもこの幼児洗礼が大切に守られて来ました。
私たちが学んでいるハイデルベルク信仰問答は宗教改革の時代、当時の変質してしまったカトリック教会の教えに対して、聖書に基づく正しい教理を説明し、自分たちの改革派教会の教えがいかに正しいかを説明するために書かれたものです。しかし、今日の問74に関してはカトリック教会を相手にするのではなく、むしろ宗教改革時代に生まれた急進派である「再洗礼派」と呼ばれるグループに対して自分たちがどうして「幼児洗礼」の習慣を大切に守るのかを教えていると言えます。
再洗礼派は宗教改革の中で生まれたグループで、幼児洗礼を否定し、洗礼は自分の意志で受けたもののみが有効だと主張しました。ですから、彼らは子供のときにカトリック教会で幼児洗礼を受けていても、改めて自分の信仰を告白して洗礼を受け直す必要があると教えたのです。だから彼らは「再洗礼派」と呼ばれているのです。これに対して、改革派やルター派のような宗教改革の主流派のグループは、幼児に洗礼を施すことは聖書の教えに反するものではないと言う立場を取りました。
この幼児洗礼が論争となってしまう原因は聖書の中に明確に「幼児にも洗礼を施しなさい」と言うような言葉が記されていないと言うところにあります。しかし、それとは反対に「幼児に洗礼を施してはならない」と言う言葉も聖書には記されてはいません。むしろ、聖書の中でもキリストを信じた人々が家族全員で洗礼を受けたと言う記述が残されています(使徒言行録16:15、32)。それではなぜ、改革派教会は幼児洗礼が聖書の教えに基づく大切な習慣だと考えたのでしょうか。そのことについてこの信仰問答を手掛かりにして皆さんと考えて見たいと思います。
2.幼児も神の救いの対象
信仰問答は幼児洗礼について次のような説明を行っています。
「なぜなら、彼らも大人と同様に神の契約とその民に属しており、キリストの血による罪の贖いと信仰を生み出される聖霊とが、大人に劣らず彼らにも確約されているからです。」
この言葉を簡単に言えば、幼児も神の救いを必要としている対象だと言うことです。聖書が教える罪とは、その人自身が神に従わないために犯す罪だけではなく、人類の始祖とされるアダムの罪から引き継ぐ罪の責任をすべての人間が負っているのです。教理用語ではこれを「原罪」と呼んでいます。ですから、生まれたばかりの幼児であってもこの「原罪」を負っていることに例外はありません。そして救い主イエス・キリストは私たち自身が犯した罪と人類が共通して負っている「原罪」を解決するために、十字架にかかりその罪の責任を負ってくださったのです。神はこのイエス・キリストによってすべての罪人が救われることを望んでおられるのです。聖書は「子どもは救いの対象から除外される」と言う教えを語っていません。だからこそ、子どもであっても神の救いの対象であり、神の約束は子どもにも適応されると言うことができます。
今日の聖書の本文にはイエスの元に連れて来られた子どもたちのことが記されています。おそらくこの子どもたちをイエスのところに連れてきた人たちは、イエスに触っていただくことで、子どもたちが神からの祝福を受けて成長することができると考えたのでしょう。日本でも小さな子供つれて「お宮参り」をする家族の姿が今でも見られます。親は子どもたちが健康で幸福に成長することを願っているからです。子どもたちをイエスの元に連れて来た人々も同じような心境だったのかも知れません。
しかし、このときイエスの弟子たちは彼らを「叱った」と言うのです。これは忙しく働き続けるイエスに対する彼らなりの配慮であったのかも知れません。しかし、この出来事の背後には当時の人々が持っていた子どもについての考え方が現れているとも言えるのです。なぜなら、当時のユダヤ人は子どもを「一人の人間」とは扱うことがなかったからです。これは聖書の中に登場する群衆の人数の数えかたによく表されています。その数の中に子どもと女性は含まれていなかったからです。当時、子どもは人にも、そして神にも役に立たない存在だと考えられていたのです。
しかし、イエスはこのような子どもたちを排除することは決してありませんでした。むしろ「神の国はこのような者たちのものである」と語られて、子どもたちを喜んで受け入れたのです。これはまぎれもなく、彼らが神の救いの対象であることを表していると言えます。だからこそ、教会は彼らを排除してはならないし、むしろ神の救いが与えられる対象として大切にする必要があると信仰問答は教えているのです。
3.神の契約のしるしとしての洗礼
ここでもう一つ私たちが思い出す必要があるのは「洗礼はいったい何を表しているのか」と言うことです。もしかしたら、ある人々は洗礼を自分の決心を表明する表現と考えているかも知れません。だから信仰者として、その人が十分な決意を示すことが重要となると言えます。この場合、洗礼はあくまでも受ける者の状況に左右されることになります。もちろん、洗礼式ではそれを受ける者が誓約を守ることが求められるのですからそれも確かに大切です。しかし信仰問答はこの洗礼の意味について次のように表現しているのです。
「それゆえ、彼らもまた、契約のしるしとしての洗礼を通してキリスト教会に接ぎ木され、未信者の子供たちとは区別されるべきです」。
ここに「契約のしるしとしての洗礼」と語られています。それではここで言われる「契約」とは何を指しているのでしょうか。この契約は聖書が一貫して私たちに教えているイエス・キリストを通して私たち罪人を救おうとされる神の契約です。神は御自身が立てられた契約に基づいて、イエス・キリストを救い主と私たちに遣わしてくださり、その救いにあずからせてくださるのです。そして洗礼は「その契約のしるし」なのです。つまり、洗礼が表すものは私たち人間の側の決意のようなものではありません。神の御業、神の救いが今、洗礼を受ける者の上に確かに実現していることを目で見える形であらわすのが洗礼の意味なのです。そして信仰問答は信者の子どもたちもこの救いの恵みにあずかり、キリスト教会に接ぎ木される、つまり会員とされると教えているのです。
このように洗礼は目にえない神の救い御業を、目に見える形で表すことで、自分たちが今、この神の救いの恵みに確かにあずかっていることを表すものだと言えるのです。
4.神からの一方的な恵みとしての救い
①幼子の意味すること
ところで先ほどイエスの語られた「神の国はこのような者たちのものである」と言う言葉を取り上げました。実は私はこの言葉について印象深い思い出を持っています。私が洗礼を受けたのは家の近くにあった小さな日本家屋で礼拝をする改革派以外の教派に属する教会でした。当時、その教会には何人かの青年がいて、聖書研究と呼ぶ時間に、皆で聖書を読み、互いにその聖書についての考えを語り合う時間がありました。これは東川口教会で持たれているフレンドシップアワーに似た時間です。ただ、この聖書研究会がフレンドシップアワーと大きく違うのは、私たちの教会のフレンドシップアワーでは聖書の言葉について互いの考えを語り合うのですが、最後には聖書研究のテキストを使って結局その箇所が何を教えているかを確認して終わります。
私の通っていた教会ではそれがありませんでした。だから参加者は最後まで何が本当に聖書の正しい理解の仕方なのかがわからないままで聖書研究会が終わってしまいます。私が結局この教会から改革派教会に移ったのはこれが一つの原因でした。このときも青年会のリーダーは「子どもは罪に汚れていない天使のような存在だから、神の国に入れるのだ」と言う意見を主張しました。これは今、考えて見るとキリスト教の正統的な教理には見いだせないような斬新な意見であったと言えます。
先ほども、言いましたように、聖書の中に登場する子どもの意味は「自分では何もできない」と言うところにあります。特にイエスの時代のユダヤ人たちは「人は努力して神の律法を守ることによって、神に認められる」と言うような考え方を持っていました。ですから、その律法を何一つ自分では満足に守ることができない子どもは、人間としての価値を持っていないと考えられていたのです。
しかし、実は子どもには神に喜ばれることが何もできなという点こそが、私たちが神の救いの御業、神の契約を理解するときにとても重要になって来ると言えるのです。なぜなら、私たちは自分の力では誰も神に喜ばれることも、また神に認められることもできない罪人だからです。この点では神の前で私たちもまた無力な子どものような存在であると言えるのです。だから、神はその無力な私たちを救うためにイエス・キリストを遣わしてくださったのです。
「神の国はこのような者たちのものである」。この言葉は救いに対して全く無力な私たちがイエス・キリストによって神の国の祝福に入れられたことを私たちに教えています。そのような意味で、神の前では私たち大人もまた子どもと同じであり、イエス・キリストはその私たちを大人も子ども差別なく救ってくださる方だと言えるのです。
②割礼と洗礼
「そのことは、旧約においては割礼を通してなされましたが、新約では洗礼がそれに代わって制定されているのです」
この言葉は旧約聖書と新約聖書の一貫性を教える言葉であると言えます。旧約聖書も新約聖書も共に、救い主イエスを通して実現する神の恵みの契約を教えていると私たちは考えているからです。つまり、旧約時代の民はイエス・キリストの到来の後の新約時代の信徒と違い、イエス・キリストを直接知ることができませんでした。しかし彼らに与えられた神の約束を通して、間接的にイエス・キリストを信じ、その救いにあずかった人々だと信仰問答は教えているのです。
そしてこの旧約聖書の時代に神の救いにあずかることできた人々が受けた者が「割礼」と言う儀式です。信仰問答はこの割礼こそが新約時代に洗礼に置き換えられたものだと教えるのです。自分たちが神の救いにあずかっているしるしとしてユダヤ人は生まれて来た子どもに必ず割礼を施しました(レビ記12章1~2節)。そして信仰問答は新約時代には割礼が洗礼に替えられたが、幼児にそれを施す習慣は変わっていないと教えているのです。
大人であっても洗礼を受けると言うことは、これから信仰生活が始まることを表しています。これは幼児洗礼の場合も同じであると言えます。この幼児洗礼の場合にはその両親が本人に代わって神の前に誓約を行うようになっています。つまり、幼児洗礼を受けることで、子どもたちが信仰者となって行く歩みが始まります。そしてそのためにも養育者である両親の働きは重要であるからこそ、両親が幼児洗礼の際には誓約を行う必要があるのです。このように改革派教会が幼児洗礼を大切にするのは神の救いの対象から子どもたちも決して除外されてはいけないことを信じるからなのです。また、神の救いが人間の側の一切の条件を超えて、すべての人々に提供されていることも信じるからだと言えるのです。
あなたも聖書を読んで考えてみましょう
1.まずあなたもハイデルベルク信仰問答の問74の本文を読んでみましょう。あなたはこの文章を読んでどのような感想を持ちますか。
2.この問74には次のような参照聖句の箇所が示されています。創世記17章7節、マタイ19章4節、イザヤ44章1~3節、使徒2章38、39節、18章31節、使徒10章47節、コリント一7章14節、創世記17章9~14節、コロサイ2章11~13節。あなたもこれらの箇所を読んで信仰問答が何を教えているのかを考えて見ましょう。
3.信仰問答は洗礼を「契約のしるし」と言っています。このことから洗礼を受ける者に与えられる祝福が何であることが分かりますか。
4.あなたは神の救いにあずかる者として、子どもと大人との間に何らかの条件の違いがあると考えますか。