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2025.10.19「失望せずに祈り続ける」

ルカによる福音書18章1~8節(新P.143)

1 イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。

2 「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。

3 ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。

4 裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。

5 しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」

6 それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。

7 まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。

8 言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」


1.神の国はいつやって来るのか

 キリスト教信仰とは神の約束を信じて生きる信仰だと言えます。ですから聖書にも「新約聖書」、「旧約聖書」と言うように約束の「約」と言う字が使われているのです。そしてその神の約束の中でも最も重要なものは「神の国」をやがて神が私たちのために実現してくださると言うものであると言えます。イエスが活躍された時代のユダヤ人たちはこの神の約束を実現するために自分たちの元に神から「救い主」が遣わされると信じていました。そこでイエスがやって来てその活動を始められたときユダヤ人たちは、「このイエスこそ、自分たちのために神の国を実現してくれる救い主かも知れない」と大きな期待を寄せたのです。

 ただ、ユダヤ人たちの期待には大きな誤解が含まれていたました。なぜなら、彼らは「神の国」をこの地上に実現されるものと考えていたからです。具体的には歴史上でイスラエルが最も力を持っていたダビデ王の時代のような国が再び実現すると考えたのです。ところが、イエスは彼らの期待とは全く違った行動を取りましたし、彼らのこのような考え方が誤りであることを指摘されたのです。そこで自分たちの期待が外れたことを知ったユダヤ人たちは、イエスと対立し、やがてはイエスを十字架にかけて殺すと言う方向に進んで行きました。

 確かにイエスは、私たちのために神の国を実現させるために来てくださった救い主であることを聖書は私たちに教えています。しかし、イエスの実現される神の国はこの世の権力者が統治する国とは違います。神の国とは「神の支配」と言う言葉で表すことができるように、神が治めてくださる場所を指します。イエスは救い主として私たちがこの神の国に生きることができるようにするために活動されました。なぜなら、イエスの救いによって私たち罪人が神を信じ、神との関係を回復することができたからです。このような意味で、私たちはイエスを信じる信仰によってすでにこの神の国の住人にされているのです。私たちは私たちの人生を支配してくださる神を信頼し、その神に人生を委ねて生きることで今既に神の支配を受けていると言えるからです。

 しかし、聖書はこれだけで神の国がすべて完成した訳ではないと教えます。やがて世界のすべてが神の支配に従う時がやって来ます。それが聖書の約束する「終末」のときです。イエスを信じる者はこの終末を期待して待ち望んでいます。なぜなら、その終末のときまで、私たちは神に支配に従おうとはしないこの世の力と戦い続ける必要があるからです。今日の聖書箇所もまた次週に取り上げる聖書箇所も「祈り」について私たちに教えています。なぜならイエスは既に神の国の住人とされている私たちが、その神の国の完全な実現のときである終末までどのような姿勢で待つことが大切であるかを教えているからです。祈りはそのために大切であると教えているのです。


2.やもめの願い

①やもめの訴え

 イエスは終末を待つ私たちに祈りの大切さを教えるためにここでは一人のやもめと不正な裁判官という登場人物を使い、たとえ話を語っています。それは私たちが終末のときまで「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるため」と説明されています(1節)。

 やもめは夫を失った未亡人を指す言葉です。男性が中心として構成されていた古代社会においては、夫を失った女性は毎日を生きることさえ困難な立場に立たされていました。旧約聖書には「ルツ記」と言う書物があります。このルツ記では夫を失ったナオミと息子の嫁でありながら、やはりその夫を失ってしまったルツと言う二人のやもめが登場しています。そして彼女たちがどんなに困難な立場にたたされたかがこの書物には記されているのです。幸い彼女たちには遠縁であるボアズの言う男性が現れて、彼女たちを窮地から救い出すという結末がルツ記には記されています。神への信仰心の熱いボアズは「やもめ」を助けるようにと命じる神の命令に従い、彼女たちを助けたのです。

 しかし、このような話はむしろ稀であったのかもしれません。イエスのたとえに登場するやもめは頼れるべき親類を持っていません。むしろこのお話を読むと、彼女は頼りとしていた夫の残した財産を誰かに騙し取られるというような窮地に陥っています。もしかしたら、その相手は彼女の夫の親類で、「財産を受け継ぐのは私たちだ」と彼女に言って来たのかもしれません。やもめは生きていくためにこの争いに勝たなければ、そうでなければ彼女は生きて行くすべを失ってしまいます。そこで、この件を正しく裁いてくれる裁判官の助けを彼女は必要としたのです。


②不正な裁判官を動かしたやもめ

 ところがイエスはここで彼女の訴えを聞くべき裁判官について次のような説明を付け加えています。「神を畏れず人を人とも思わない裁判官」(2節)。これは相当に厄介な相手です。私の子どもがまた幼かった頃に、どこの幼稚園に通わせるかを迷いました。その時もらったある幼稚園の案内書の表紙に「誰も見ていなくても、神様が見ています」と言うセリフが書かれていたことを思い出します。ところがこの裁判官は違うのです。彼にとっては神の裁きなどはおかまいましです。また彼は人に対する義理人情も持ち合わせてはいません。すべては自分の利益のために動く人物であったと言えるのです。だから当然に「やもめの願いなど聞いても何の得にもならない」と思うような人物であったとも言えるのです。

 案の定、不正な裁判官はやもめの訴えを聞いても「しばらくの間は取り合おうとしなかった」と語られています(4節)。もしかした、このやもめの訴えの相手がすでにこの裁判官に手を回して、わいろか何かを彼はもらっていたのかもしれません。しかし、状況はやがて大きく変わります。イエスはその理由についてこう語っているのです。

「自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない」(4~5節)。

 興味深いのはここで「さんざんな目に遭わす」と語られている言葉の元の意味です。これは「目の下にあざをつける」と言って、本来ボクシングに使われる用語で「目の下を狙い撃つ」と言う言葉から生まれたものだそうです。不正な裁判官は自分の身の安全を心配しなければならないほど、やもめの訴え方は執念深いものであったことが分かります。

 それではどうしてやもめはこれほどまでに執念深く不正な裁判官に訴え続けることができたのでしょうか。答えは単純であると言えます。やもめには他に自分を助ける方法が何も存在していなかったらです。「この裁判官に正しく裁いてもらう」。それだけがこのやもめに残された唯一の救いの道だったのです。

 私たちが洗礼を受けるとき、制約する文章の中にこのようなセリフがあることを皆さんは覚えているでしょうか。

「あなたは、主イエス・キリストを神のみ子、また罪人の救い主と信じ、救いのために、福音において提供されているキリストのみを受け入れ、彼にのみ依り頼みますか」(第三条)。

 私たちがイエス・キリストを信じるのは、私たちを救うことができる方はこの方しかおられないことを知っているからです。他には全く望みがないのです。イエスがこのたとえ話を教えた理由の一つは、終末のときに実現する神の正しい裁きこそが私たちに残されている唯一の希望であることを教えるためだと考えることができます。だから私たちは忍耐して、この終末のときが実現することを祈りながら待つ必要があるのです。


3.神は不正な裁判官ではない

 ただ、このたとえ話を読むと「そうかこのやもめのように自分も執念深く、神がいやがるほどに祈らないと、祈りの答えは得られないのか…」と考えてしまう人もいるかも知れません。しかしイエスはそのようなことを教えていないことを次の言葉で明らかにしています。

「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」(6~8節)。

 まず、イエスはたとえ話の不正な裁判官と神は全く違うのだと言うことをここで述べています。不正な裁判官は自分の利益以外のことで動くことはありませんが、神はちがいます。ここには「選ばれた」と言う言葉が登場します。これは神の救いにあずかることのできる人を指す言葉ですが、この神の救いは人間の側が持つ優れた条件のようなことを根拠に選ぶのではありません。神の選びは無条件ですから、どのような人もその対象となることができます。これは言葉を替えればイエスによって救いを受けた者すべての祈りを神は決して無視されることはないと教えているのです。神は彼らの祈りをほうっておかれることは決してありません。そして「神は速やかに裁いてくださる」と語っているのです。もちろん、これは私たちの側の都合に合わせてと言うことではなく、あくまで神の計画に従って、ふさわしい時にふさわしい形で神は裁きを行ってくださると言っているのです。だからこそ、私たちの側にはそのときを待つために忍耐が必要となってくると言えるのです。祈りはこのような終わりの時を待つ私たちの忍耐を支えるものでもあると言えます。なぜなら、信仰による忍耐はやせ我慢ではないからです。やせ我慢であるなら、かならず限界がやってきてしまいます。しかし、終わりのときを待つと言う忍耐は、やせ我慢ではなく神が与えてくださる賜物なのです。ですから私たちはその忍耐を神からいただくためにも祈り続ける必要があると言えます。


4.イエスの祈りに支えられて

 このお話の最後にイエスは次のような言葉を語っています。

「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」(8節)。

 ここでイエスは私たちのことを心配してくださっています。このたとえ話に登場するやもめのようにあきらめないで、イエスがこの地上に再び来てくださる最後のときに信仰を持って迎えることができる人はいるのだろうかと語っているのです。

 はたして皆さんはこのイエスの言葉にどのように答えることができるでしょうか。たとえば「わたしは大丈夫です。私ではなく誰か他の人を心配してあげてください」と答えることができれば満点なのでしょうか。私がこのイエスの言葉への答えを考えるときに思い出しのは、かつてイエスが十字架にかけられる前に弟子のペトロと交わした会話です(ルカ22章31~34節)。

 このとき、イエスはペトロが信仰の危機に陥ることを予め預言し、「あなたのために信仰が亡くならないように祈った」(32節)と語られました。するとペトロはこのイエスの言葉を否定して「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよい覚悟しております」(33節)と答えたのです。この後、実際にペトロは信仰の危機に陥ります。なぜなら、ペトロは自分がそんなに弱い存在であるとは思っていなかったからです。ですからイエスの言葉に「だいじょうぶです」と答えることはこのペトロと同じように自分の弱さを知らないからであると言えるのです。イエスは私たちのことをよく知ってくださっています。私たちが自分の力では信仰を持ち続けることができないことをよくご存じなのです。だからこそ、このイエスの言葉の背後にも私たちの信仰がなくならいように祈るイエスの祈りの支えがあると言えるのです。

 私たちのとって大切なことはこのイエスだけに頼ること、自分の人生をこのイエスにお任せすることだと言えます。そしてイエスが来られるときまで信仰を持って待ち続けることができるように祈り続けることだと言えるのです。

 神が私たちのために約束してくださっている終末のときはすべてのことが明らかになるときでもあると言えます。今、私たちは私たちの祈りに答えてくださっている神の御業を正しく理解できていないかも知れません。むしろ「なぜ、自分の人生にこのようなことが起こったのか」と悩むことも度々かも知れません。しかし、この終末のときイエスは私たちの人生の秘密も明らかにしてくださるはずです。そのとき、私たちの人生に起こった出来事全てに大切な意味があることが明らかになるのです。私の人生に無意味なことは何一つなかったということが分かるときがやって来ます。ですから、私たちはその日を、希望を持って待ち望み、祈りを持って待ち続けて行きたいと願うのです。

あなたも聖書を読んで考えてみましょう

1.今まであなたは祈っても応えられないように感じた経験はありますか?そのとき、あなたの信仰はどう試されましたか(4節)。

2.このお話のやもめの行動から「祈り続けること」は、単なる根気ではなく、どんな信仰の表れであると言えますか(4~5節)。

3.正義が踏みにじられ不正や悪が行われるこの世の社会で、教会はどのように「祈り続ける共同体」であるべきでしょうか(7節)。

4.あなたにとって、「祈りがかなえられる」とはどういうことですか?

5.あなたはイエスが問うた「信仰を見出すだろうか」という言葉を、自分の生活にどう受け止めますか(8節)

2025.10.19「失望せずに祈り続ける」