2025.10.5「からし種一粒の信仰」YouTube
ルカによる福音書17章1~10節(新P.142)
1 イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。
2 そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。
3 あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。
4 一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」
5 使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、
6 主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。
7 あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。
8 むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。
9 命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。
10 あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」
1.信仰が足りない
①イエス語録と福音書記者
今日の礼拝ではイエスに「わたしどもの信仰を増してください」(5節)と願い出た弟子たち、つまり「使徒たち」に対してイエスが答えられたお話から私たちの信仰、また信仰生活の意味について考えてみたいと思います。実は、今日の聖書箇所に登場するイエスの言葉は他のマタイやマルコにも同じような言葉が記されているのですが、その前後関係はこのルカによる福音書とは違っています。このことについて現在の聖書学者たちの研究によれば福音書を書いた記者たちはイエスが様々なところで語られた言葉を集めた「イエス語録」のような資料を持っていて、それを自分の記した福音書に用いたと解説しています。
今日の聖書の部分ではまず兄弟に躓きを与える問題について(1~2節)、また兄弟の罪を赦す問題について(3~4節)、それに続いて先ほどの「信仰を増してください」と言う願いが語られたことに対して、からし種一粒の信仰の力(5~6節)について、そして最後には主人と僕との関係の中で求められる僕の謙遜な態度(7~10節)がイエスによって語られています。これらのお話は内容的には本来独立したものでしたが、この福音書を記したルカは何らかの意図を持ってこのようにイエスの言葉を並べて編集したと考えられているのです。
②深刻なつまずきの罪
それを考えると福音書の記者ルカはここでイエスの弟子たちが「自分の信仰が足りない」、だから「もっと増やしてほしい」と願った理由を、前の箇所に記されたイエスの言葉から考えるようにと教えていると言うことになります。そこには人間関係の間に起こる問題がイエスによって語られています。私たちは普段、様々な人間関係の中で生きています。そしてその人間関係では様々なトラブルが起こります。私たちは「一人だけで生きていけるなら、こんな苦労はしないのに…」と思うことも多いはずです。しかし、残念ながら私たち人間は一人で生きていくことができません。そのためイエスはこの問題について次のように語っています。
「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである」(1~2節)。
イエスもつまずきがない人間関係などありえないとここで認めておられます。しかし、だからと言ってもつまずきを起こした者の責任は消して曖昧にされることはないとさらにイエスはここで語っているのです。「首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである」。つまりそれ以上の厳しい罰を、人をつまずかせた者は覚悟しなければならないと言っているのです。だからこの話をイエスから聞いた弟子たちは大変に驚いたはずです。それでは自分たちは一体どうなってしまうのか…と不安を感じたのです。
➂信仰のレベルアップ
また次にイエスは兄弟の罪を赦すと言う問題について語っています。
「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」(4節)。
一回や二回ならともかく、それがさらに繰り替えされれば日本のことわざでも「仏の顔も三度まで」と言うのがあるように、私たちの我慢の限界を超えてしまいます。ですから弟子たちはやはりこのイエスの言葉を聞いて、「どうしたら七回も我慢できて、相手の罪を赦してやれるのだろうか」と考えたはずです。そしてその解決策として弟子たちが考え出したものが「わたしどもの信仰を増してください」と言う願いに表されていると考えてよいのです。
弟子たちは「もっと自分たちの信仰が増えたら、このような問題にも対処できるに違いない」と思ったのです。それはまるで、テレビゲームの主人公が自分のレベルが上がれば、今まで勝つことが難しかった強敵でも簡単に倒すことができるようなるように、弟子たちは「自分の信仰のレベルを上げる必要がある」と考えたことになります。
2.からし種一粒の信仰
しかし、イエスはこのような弟子たち願いに対して「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば…」と語り始めます。このからし種はイエスの住んでいた中東地方では最も小さなものの存在を表すために用いられるものです。私も神学生のときに同級生から「これが聖書に出て来るからし種だよ」と見せられたことがあります。日本ではとても小さな存在を「芥子粒(けしつぶ)」と言う言葉で表現することと同じことです。弟子たちはこのとき「自分の信仰が足りないからもっと増してほしい」と考えました。しかし、イエスはどんなに小さなものでも、からし種一粒ほどの信仰があれば「この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」と語るのです。桑の木が抜け出して海に根をおろしたところで何の意味があるのかわからないと言う人もいるかも知れません。この言葉は信仰の力の絶大さを表す表現であると言えます。つまり、イエスはこの言葉を通して信仰は量ではないと言うことを私たちに教えていることになります。なぜなら、桑の木が抜け出して海に根を下ろすとしたら、それを可能とするのは万能の神の力であると言えるからです。ですから私たちの信仰とはこの万能の神の力を信じ、信頼することだと言えるのです。
それに対して、「信仰を増してください」と願い出た弟子たちの考える信仰は、あたかも自分が持つ力、能力であると考えていたことになります。だから弟子たちはそれが増せば何とかなると思っていたのです。しかし私たちに与えられる信仰は私たちの持つ力や能力の一種ではありません。むしろ無力な私たちが、すべてを可能としてくださる神に頼り、信頼することこそが私たちの「信仰」であると言えるのです。
3.僕に求められる態度
次にイエスは突然、古代社会における主人と奴隷との関係をたとえにして語り出しています。私たちの生きている現代社会では基本的人権が保障されていますから、人間を売買したり、人間が誰か他人の持ち物になることは許されていません。ですから会社に雇われている労働者はその労働の対価として正当な賃金を求める権利を持っています。しかし、イエスの時代の状況はこれとは全く違っていました。当時のローマの社会はたくさんの奴隷の労働によって支えられていたとも言われています。そしてこの奴隷は主人の持ち物であり、その主人に無償で仕えることが彼らの義務とされていたのです。
「あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか」(7~8節)。
このお話は現代の私たちには受け入れることができなくても、当時の社会ではこのイエスの語られたことが当然であると考えらえていたのです。奴隷は主人のために昼は畑を耕したり、羊を飼ったりして働きます。そして家に帰って来たら今度は、主人の世話や食事を作る仕事が待っています。奴隷はすべての働きが終わって初めて、自分の食事にあずかることができるのです。イエスはこの関係を通して次のように教えています。
「命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい」(10節)。
奴隷は主人に対して謙遜に仕えるべきだと言う教えがここでは語られています。しかしいったい、イエスはこのお話を通して私たちに何を教えようとされたのでしょうか。おそらくこのお話は主人と奴隷のたとえを通して神と私たちとの関係を語っていると言えるのです。私たちにとって神は私たちの主人であると言えます。そして私たちはその神の奴隷、つまり「僕」なのです。だから私たちが神に仕えることは当然であり、たとえ何かができたからと言って、それを自慢したり、自分を誇ることはできないと言うのです。
ここで興味深いのは「しなければならないこと」と言う僕の語った言葉です。この言葉には「わたしには行うべき借りがある」と言う意味があると聖書の解説者は教えています。主人は奴隷を金銭で買い取る訳ですから、その金銭に見合うだけの借りが奴隷には残されていると言うことになります。それでは私たちと神との関係はどのようなものでしょうか。聖書によれば私たちもかつては罪と死の奴隷の状態にありましたが、神によってそこから買い戻された者であると言われているのです。それではその際に神が私たちを買い戻す代金として支払ってくださった価はどのようなものでしょうか。それは御子イエス・キリストの命です。ですから私たちがどのような努力をしても、この借りを払いきることのできないと言えるのです。
このような意味で、私たちが神を礼拝し、神に仕える目的は、神から何か褒めてもらうとか、御褒美をもらうためではありません。私たちをイエスの命と言う高価な代償を持って買い取ってくださった神に感謝をささげるために神に仕え、神を礼拝するのです。
4.神に感謝をささげるために
先日の夕方の礼拝で、10月の教会の月間聖句になっている詩編103編8節の言葉を取り上げました。
「主は憐れみ深く、恵みに富み/忍耐強く、慈しみは大きい」。
この詩編を解説する宗教改革者カルヴァンは私たち人間がどんなに簡単に神の恵み深い御業を忘れてしまうかについて注意深く語っています。だから私たちは神の恵み深い御業について、またその神の御性質について絶えず思い起こす必要があると言うのです。なぜなら、それを思い出せないなら、私たちの心から神への感謝の思いが失われて行くからです。そうなると私たちの信仰生活は喜びの伴わない、不満と不平に満ちたものになってしまうのです。
このカルヴァンの勧めを思い出しながら今日のイエスのお話をもう一度読み返すなら、イエスがなぜ弟子たちに大変に厳しい言葉を語ったかが理解できるように思います。人のつまずきの罪が重要なことを教えるイエスの言葉は、私たちが神に対して行っているつまずきの罪を思い起こさせるものです。しかし、神はその深刻な罪の責任を私たちに負わせるのではなく、イエス・キリストを十字架にかけることによって彼の上に負わせ、私たちを赦してくださったのです。ですからこのつまずきの罪の深刻さを知らなければ、私たちはイエス・キリストを通して表された神の救いの御業のすばらしさを知ることができないのです。
次の人の罪を赦せと言う教えも同じ意味を持っていると言えます。なぜなら、もしこの教えの通りに私たちが人の罪を一日に七回赦せたらどうなるでしょうか。「自分はついに努力の賜物が実って、この言葉を守ることができた」。そう言って胸を張り、自分の信仰を誇るとしたら、それはイエスが私たちに求めていることだと言えるのでしょうか。決してそうではありません。私たちが人を赦すことの困難さを知ることで、私たちはむしろ、私たちを赦してくださった神の忍耐と寛容さを理解できるようになるのです。またもし、私たちがイエスの言葉通りに人の罪を赦せるとしたらならば、それは桑の木を抜き出して海に根を下ろすことができる神の御業が私たちの上に働いてくださったことだと言えるのです。
いずれにしても、私たちは信仰生活の中で神に対して自分の行った業を誇ることはできません。むしろ、それができてもそれは私たちの命を買い戻すために支払われたイエスの命の代価の借りを返すことにはならないのです。ですから私たちはこの神の御業に感謝して、神に仕えるためにここに集められていると言えるのです。そしてこの神に対する感謝の思いこそが、私たちの信仰生活に命を与え、生き生きとした喜びに満ちたものとすることを私たちは今日のお話からもう一度思い起こしたいと思うのです。
あなたも聖書を読んで考えてみましょう
1.イエスは「つまずきをもたらす者は不幸である」と語っています。それはどうしてですか(1~2節)。
2.イエスは罪を犯した者が「悔い改めます」と言ったなら、どれくらい赦してやるべきだとここで教えていますか(3~4節)。
3.使徒たちの「わたしどもの信仰を増してください」と言う願いに対して、イエスはどのような答えを語りましたか(5~6節)。この言葉からイエスの言う信仰と使徒たちが考えたいた信仰の間にはどのような違いがあることが分かりますか。
4.イエスは主人の元で働く僕には主人に対してどのような態度が求められていると教えましたか(7~10節)。
5.この主人と僕との関係を神と私たちとの関係に置き換えて考えた時、あなたは自分の信仰生活についてどのようなことが分かりますか。