2025.11.16「忍耐によって、いのちを得なさい」YouTube
ルカによる福音書21章5~19節(新P.151)
5 ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。
6 「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」
7 そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」
8 イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。
9 戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」
10 そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。
11 そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。
12 しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。
13 それはあなたがたにとって証しをする機会となる。
14 だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。
15 どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。
16 あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。
17 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。
18 しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。
19 忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」
1.終わりを考えることの意味
教会のカレンダーではクリスマスに備える待降節(アドベント)が今月30日の日曜日から始まります。教会のカレンダーの周期はこのアドベントから新しい年が始まるように配置されていますので、次週23日の日曜日が2025年度の最後の礼拝となっています。そのためでしょうか。教会のカレンダーが取り上げている今日の聖書の朗読箇所は「世の終わり」、つまり「終末」に関するイエスの教えが語られる聖句になっています。
聖書はこの世界がいつまでもそのまま続くとは教えていません。必ずこの世界には終わりがやって来ると語っています。そしてこれと同じよう私たちの命にも終わりの時がやって来ると言うことも教えています。ただ、聖書が語る「終わり」とは「その後は何もなくなってしまう」と言った終わりではありません。むしろ世界も私たちの命も新しく変えられると言うことを教えているのです。ですから、聖書が教える「終わり日」とは私たちを恐怖や不安に陥れるものではなく、むしろ喜びと希望を与えるものだと言うことができます。しかし、だからと言って聖書はこの終わりのときを私たちに軽視してはいけないことも教えているのです。
昔から「メメントモリ」と言う言葉がよく使われて来ました。「死を忘れるな」とか「死を覚えよ」と言った日本語で訳される古代ローマ時代から伝わる教訓であると言われています。中世のキリスト教会もこの教訓を大切に受け継ぎました。それは戦争や疫病によってたくさんの命が奪われることの多かった時代がその背景にあったからだと言えます。
過酷な第二次世界大戦時の強制収容所生活を生き抜いた心理学者のビクトル・フランクルは人の命が限られていることについて、「人間が今と言うときの大切さを覚えるために重要となる」と教えています。なぜなら、もし人の命に終わりがないとしたら、人は今日やるべき仕事を明日に先伸ばすことで、結局永遠に何もできなくなってしまからだと言うのです。むしろ私たちに与えられている命の時間が限られているからこそ、私たちはその限られた時間で何をすべきかを真剣に考えるようにされます。そのような意味で私たちが「終わりのとき」を考えるのは、今と言うこのときを大切に生きるためにも必要だと言えるのです。
私たちの読んでいる福音書はキリストを信じて生きる信仰者が限られた地上での人生の中で、今と言う時をどのように生きるべきなのかを、主イエスの言葉とその生き方を通して教えようとしています。特にこの福音書を記したルカは、ローマ帝国の厳しい迫害の中で生きる信仰者たちを励ますためにこの書物を記したと考えられています。自分の身近な信仰の仲間たちが次々と捕らえられ、牢につながれ、また命を失っていく姿を見て、恐れや不安を覚える人も多くいたはずです。そのように自分の財産はもちろんのこと、命まで失いかねないような厳しい状況で、信仰を持って生きるとはいったいどういうことなのでしょうか。ルカはそのような人々の恐怖や不安をやわらげ、またその信仰を励ますために主イエスの言葉をここに記しているのです。
2.確かなものを見極める信仰
このお話は当時、エルサレムの都に聳え立っていた神殿の崩壊を巡って語られたイエスのお話から始まっています。当時のエルサレムにはクリスマス物語にも登場するヘロデという王様が莫大な経費と時間を費やして再建した神殿が存在していました。ユダヤ人にとって「神殿」とは神が自分たちと共におられるということを表す象徴のようなものでした。だからこそ彼らは神がおられる限り、この神殿も決してなくなることはないと言うような信仰をいつしか持つようになっていたのです。しかし、イエスは「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る」(6節)と語って、そのユダヤ人たちを驚かせたています。「この神殿が跡形もなくなくなる…」。「そんなことが起こるとしたら、それはこの世の終わりのときに違いない」。そう早合点した彼らは「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか」(7節)とイエスに尋ねたのです。
しかし、このエルサレム神殿は彼らの予想に反して、紀元70年に当時起こったユダヤ人の反乱を鎮めるためにやって来たローマ軍によって徹底的に破壊されて、跡形もなくなってしまいます。それ以来、現在までエルサレム神殿は一度も再建さることがなく、わずかに残された神殿の一部が今もエルサレムの町に存在する「嘆きの壁」であると信じられています。
この福音書を読む読者たちはこのエルサレム神殿が崩壊した事実をすでに知っていたと考えられています。ですから彼らはイエスの言葉がその通りに実現していたことを理解していたのです。このように人々が「これこそ確かなものだ」と思っているものが、意外と簡単に無くなってしまうことを歴史は証明しているのです。その上で福音書記者が語りたかったことは、この聖書箇所の最後に語られているイエスが述べる言葉だと言えます。イエスはそこで次のように語っています。
「しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」(18~19節)。
やがては消えてなくなってしまうものを頼りにする人生は危ういものだと言えます。しかし、この世界を導き支配されている神を信頼して生きる人生には誰からも揺り動かされることのない確かさがあると言えるのです。
3.それは世の終わりではない
①偽キリストの出現
それではイエスが語られた「しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない」と言う言葉はどのような人について語られているのでしょうか。神を信じていれば一切の災いから逃れることができ、一生の間、苦労することなく、平和な生涯を送ることができると言うことをこの言葉は約束しているのでしょうか。しかし、そう考えるならば、私たちは次に語られているイエスの言葉によってすぐに裏切られた気持ちになってしまうかも知れません。
「イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない」(8節)。
この夏に日本中だけでなく世界で「日本で大地震が起こる」と言ううわさが広がりました。そのため一時は日本にやって来る外国からの観光客が大幅に減ったと言うニュースを聞いたことがあります。自然災害が頻繁に起こる日本では、人々は「必ず大地震が起こる」と言う不安感をいつも持って生きています。そしてこのような人々が抱く不安感を利用する偽キリストのような人物は何時の時代にも登場するとイエスは語っているのです。その上で私たちに「決してついて行ってはならない」と警告されているのです。なぜなら、このような偽キリストは人々の不安を煽って、私たちの正常な暮らしを破壊しようとするからです。しかし、この偽キリストの教えとは対照的に真のキリスト教信仰は人々から不安を取り去り、私たちが毎日の生活を神に感謝しながら、確かな人生を生きることができるように教えるものなのです。
②都合のよい奇跡が起こる訳ではない
引き続きイエスはこの世界に戦争と暴動(9節)、地震や飢饉や疫病の発生(10節)が起こることを語っています。しかし、間違ってはいけないことはイエスが「世の終わりはすぐには来ない」(9節)とここではっきりと語られていることです。これらの出来事はある意味では人間の歴史の中で頻繁に起こっているものにすぎないのです。つまり、昨今の世界の情勢を見て、ことさら私たちが「世の終わりだ」と騒ぎ立てることは、イエスの御心ではないと言うことができます。また、このような出来事がいつの時代にも起こり続けていると言うことは、逆の意味では「世の終わり」はいつ起こってもおかしくないと言うことにもなります。ですから聖書は「世の終わりが」が明日起こってもよいような生き方をすることを私たちに求めているのです。
ここで興味深いことはイエスが戦争や暴動、地震や飢饉や疫病などから信仰者だけが免れることができるとは決して教えていないと言うことです。イエスは「信じていれば、私たちの人生に都合のいい奇跡が起こる」と言うようなことは決して教えていないのです。それではイエスが語る「しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない」と言う言葉の意味は私たちに何を教えているのでしょうか。
4.準備しなくてもいいの?
ここで興味深いのはキリスト者に対する迫害についての預言の言葉です。
「しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く」(12節)。
信仰者だからと言ってこの世に起こる様々な災いから都合よく逃れることはできないことをイエスは私たちに教えて下さった後で、むしろ信仰者だからこそ経験する迫害の出来事について語り出しています。現在の日本では私たちは教会に行っているからと言って逮捕されて、牢屋に入れられることはありません。しかし、このルカによる福音書を最初に読んだ人々はそうではありませんでした。彼らはローマ帝国の厳しいキリスト教徒への迫害の中で生きていたからです。「イエスがここで言われたことは明日、自分の上にも起こるかもしれない」と言う現実が彼らの前に存在していたのです。そして実際に彼らはそのために恐怖や不安を感じて信仰生活を送っていたのかも知れません。そこで福音書を書いたルカはそのような人々にイエスの次のような言葉を伝えたのです。
「だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。」(14~15節)
私たちは子どものときから「何事においても事前に準備する」ことを教えられて来ました。そうしなければ自分の人生に大変なこと起こる可能性があるからです。しかし、ここでは迫りくる迫害のために私たちが「前もって準備する」ことは無用であるとイエスは言われているのです。なぜなら「どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである」とイエスが約束してくださるからです。
このイエスの言葉から分かるのは信仰者に対する迫害は神の計画によるものであり、むしろ、信仰者がその信仰を公に証する機会となると言うことです。また、この迫害のために準備するのは私たち自身の役目ではなく、イエス・キリストご自身の役目だと言うことです。迫害に出会うときにイエスが遣わされる聖霊が私たちに働いて、私たちに適切な言葉と知恵が与えてくださると語られているからです。世界史はこのイエスの約束の言葉が事実であったことを私たちに証明しています。なぜなら、キリスト教徒を激しく迫害し続けて来たローマ帝国は、やがてこのキリスト教徒の信仰を認めた上で、ついにはそのキリスト教をローマ帝国の宗教とすることまでに至ったからです。さらにそのローマ帝国は滅びましたが、キリスト教会は今も存在し続けているからです。
5.今を生きる私たちの人生を用いてくださる
このようにイエスは私たちに対して「世の終わり」の出来事を取り上げて人々の不安を煽りたてる偽キリストへの注意を語ります。そしてむしろ戦争や疫病や飢饉、災害などは何時の時代でも起こる可能性があることを教えているのです。また、キリスト者に対する迫害についてもそれも必ず起きるもので、神はその迫害を用いてキリスト者が信仰を証する機会となることを約束してくださっています。また、イエスはそのために私たちが特別に準備する必要はないとも教えてくださっているのです。
それではいつかは「世の終わり」がやって来ることを聖書によって知らされている私たちは「そのために何もしなくてよい」と言うのでしょうか。そうではありません。イエスがここで語る言葉はむしろ将来を不安に思い、恐怖に捕らわれている私たちをそこから自由にするためのものだと言えます。なぜなら、将来への不安や恐怖は私たちが今日という大切なときを過ごすことを疎かにさせてしまうからです。だからイエスは私たちが不安と恐怖に支配されて、今日と言う日を送るのではなく、神に感謝しながら喜びを持って今日と言う時を生きることを勧めているのです。
先日、子どものころから両親に連れられて教会に行っていた人の証しを聞く機会がありました。その方は子どもの頃は自分から望んで礼拝に出席して、聖書の話を聞いた訳ではなかったと言われました。しかしその方は、自分がやがて大人になって人生で様々な出来事を経験したとき、子どもの頃に覚えた聖書の言葉がよみがえって来て、その言葉によって教えられ、励まされたと話してくださいました。私たちも毎日曜日に教会で礼拝をささげています。またそこで聖書の御言葉に耳を傾けているのです。また個人でも毎朝、聖書を開いてその御言葉に耳を傾ける時間を持つ方も多いはずです。これらのことは私たちにとって決して特別なことでは決してありません。しかし、これらの信仰生活を通して私たちの心に蓄積された御言葉を聖霊は世の終わりに、また私たちの地上の人生が終ろうとするときに必ず用いてくださることを今日の聖書の言葉は私たちに教えているのです。
「しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」
この言葉は今日の言う日を大切にして生きる私たちの人生を神が豊かに用いてくださることを教えるものだと言えます。だから私たちはこの神を信頼して、今日という人生の大切な一日を送って行きたいと思うのです。
あなたも聖書を読んで考えてみましょう
1.弟子たちは神殿のどんなところに感心していましたか(5節)。イエスは、神殿についてどんな預言をされましたか(6節)
2.弟子たちは「いつ」「どんなしるしがあるのか」を尋ねました(7節)。イエスは、彼らにまず何を注意されましたか(8節)。
3.イエスが語られた「戦争・地震・飢饉・疫病・天のしるし」(10~11節)は、本当に「世の終わりのしるし」でしょうか。
4.イエスは、弟子たちが迫害されると語られました(12~17節)。それはなぜ「証しの機会」になると言われたのでしょうか(13節)。
5.「あなたがたは髪の毛一本も失われることはない」(18節)という言葉は、どのような意味で理解していますか。