2025.11.2「決して追い出さない主」YouTube
ヨハネによる福音書6章37~40節(新P.175)
37 父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。
38 わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。
39 わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。
40 わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」
1.キリストのものとされた「聖徒」
日本キリスト教団が発行している『主日聖書日課』と言う本には今日11月2日は「聖徒の日(永眠者記念日」と言う名前が付けられています。また、カトリック教会の教会暦ではこの日を「死者の日」と呼んでいます。いずれにしてもこの日は、信仰を持ってすでに天に召された信仰者たちを思い起こすための記念日となっていると言うことがこの名称から分かります。「死者を思い起こす」と言ってもキリスト教会、特に私たちプロテスタントの教会では死者の魂が救われるために供養したり、あるいは礼拝するようなことはしません。ですから「聖徒の日」を記念とする目的は既に世を去った聖徒たちを確かな救いの御手によって導いてくださった主イエス・キリストとその父なる神を賛美し、感謝をささげて、礼拝をすることにあると言えます。
イエス・キリストを信じて私たちと同じように教会生活を送って来た兄弟姉妹たち、私たち東川口教会でもすでに何人もの兄弟姉妹たちを天に送ってきました。そして私たちもいずれは彼らの後に続いて、天に召される日が必ずやって来ます。今日の聖書箇所はそのような私たちに確かな救いの根拠を示し、安心して地上での残された信仰生活を送りながら、やがて天に召される日を待つことができるような主イエスの言葉が語られています。
しかし、その本文を読む前に、一言誤解のないように「聖徒の日」の「聖徒」と言う言葉の定義をまず、皆さんと確認したいと思います。以前、私はある方から「教会の誰を見ても聖徒らしき人は見つけられない。聖徒はどこにいるのですか…?」。そういう質問を受けたことがあります。おそらくその方は「聖」と言う言葉から「聖徒」とは普通の人間とは違う特別な存在感を持つ人と想像されていたのだと思います。しかし私たちの集う地上の教会に弱さや欠点を持っている普通の人間が集められていますから、どうしても「聖徒はどこにいるのか」と言う疑問が生じてしまうのだと思います。
実は「聖徒」とはその人が何か優れた人格を持っている、特別な信仰を持っている存在と言う意味を表す言葉ではありません。この言葉を簡単に言えば「神様のものとされた人々」、「イエス・キリストのものとされた人々」と言うことができると思います。神が私たちを招いてくださり、救いに入れてくださった、このことによって私たちはみな「聖徒」と呼ばれる存在にされているのです。そして今日の聖書箇所ではまさにこの聖徒とされた私たちが、どのような祝福を受けることになるかがイエス・キリストの言葉によって語られているのです。
2.イエス・キリストを通して父を知る
「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」(37節)。
ここでまず私たちの救いの出来事において、その主導権を握っているのが神、つまりイエス・キリストの父なる神であることが明らかにされています。私たちはここでも信仰についての一つの誤解を取り上げながら、この言葉の正しい意味を学んでみたいと思います。
ご存知のように10月31日は宗教改革記念日と言って宗教改革者マルチン・ルターが当時のカトリック教会の教えの誤りを指摘した質問状を提示したことを記念する日でした。ルターはかつてカトリック教会の営む修道院で厳しい修行に明け暮れた一人の修道士であったとされています。この時代のルターは自分が神に救われていると言う確信を持つことができずに苦しんでいたと言うのです。
ルターがなぜそのように苦しんだのかと言えば、聖書が神を「父」と呼ぶところに原因があったと言われています。なぜなら、ルターを育てた実際の父親は癇癪持ちで、気分屋で、その子どもであったルターは自分の父親の機嫌を損ねないように苦労しながら生きて来たからです。ですからルターは「父なる神」と言う言葉からそこで自分の父親の存在を連想し、そのイメージを神にあてはめてしまうことになったのです。ですから、今は神に愛されていても、機嫌を損ねるような失敗を起こせば、すぐにその顔色を変え、自分は神から厳しい裁きを受けることになるかも知れない。そのような恐怖がルターを支配していました。だから彼は神の機嫌を損ねたら大変だと、修道士として厳しい修行を続けざるを得なかったのです。
そのルターが救いの確信を持つことができるようになったのは、聖書を通して神をイエス・キリストの父なる神、つまりイエス・キリストを通して父なる神の本当の姿を知らせれてからだと言われています。それではイエス・キリストが教える真の父なる神はどのような方であり、私たちに何をしてくださる方なのでしょうか。
3.救いの主導権は父なる神にある
「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」(37節)。
私たちは自分の意志で聖書を読み、そこで教会に行き、また神を信じたと思っているかも知れません。もちろん、そこには自分以外にも様々な人が関わって来たのかも知れません。しかしいずれにしても最終的には自分の信仰は自分の決断の結果だと考える傾向があります。しかし、イエスは、それは私たちの目で見えている一部分を捉えて考えているに過ぎないと教えます。そして、はそれがすべてではないと教えて下さっているのです。私たちの目には見えませんが、私たちは聖書が教えているように神に導かれて、イエス・キリストを信じる者とされたのです。私たちがイエス・キリストを信じて、神のものとされたのは100%この神の意志によるものだと言うことがこのイエスの言葉からも分かるのです。それが「父がわたしにお与えになる人」と言う言葉の意味です。
もし、信仰が私たちの側の決断や意志によるものだとすればどうなるでしょうか。私たちの決断は不変、つまり絶対に変わることがないものであると言えるでしょうか。そうではないはずです。私たちはこれまでの人生の中で、自分の決断を曲げることなく生き続けてきたでしょうか。事実はそうではないはずです。私たちの決断や意志はいくらでも変わり得るからです。
「神様を信じたいが、自分は信仰を持ち続けることができるのだろうかと悩んでいる」。そのように考えて洗礼を受けることを躊躇される方もおられるかも知れません。しかし、信じる私たちにとって大切なのは自分の意志や決断ではありません。なぜなら私たちの救いの主導権は神の側にあるからです。つまり私たちの信仰とはこの主導権を持った神の招きに答えるものだと言うこともできるのです。そしてイエスは自分を信じ、従う者となった人々は、この神の主導権によって導かれ、その神が自分に与えて下さった人々なのだと語っているのです。
4.決して捨てない
「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」(37節)。
私たちは会社や学校、その他様々な人の集まりに新たに加わろうとするとき期待と同時に大きな不安を感じることがあります。「みんなは、この自分を本当に仲間として受け入れてくれるのだろうか…」。「最初はどうか分からないが、結局、いずれは自分を見限って、仲間外れにするのではないか…」。そのような不安を感じることがあります。
私たちは人から拒絶されないように、また自分が周りの人から見放されないようにと必死になって生きています。そのために人の顔色を窺って、少しでも相手が自分に好意を持ってくれるように願い、行動しているのです。 先程の例に上げたマルチン・ルターも自分が神に見捨てられることを恐れて、不安を感じながら、その神の顔色を窺って生きていました。しかし、そのような不安と恐れを抱く私たちにイエス・キリストはこう語ってくださるのです。「わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」。イエスは私たちを見限って、見捨てることは決してないとここで約束してくださるのです。しかも、これはイエスが勝手に考えた思い付きのような気休めの言葉ではありません。
「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである」(38節)。
私たちを「決して追い出さない」と言うイエスの言葉はイエスだけが考えた思い付きのようものではなく、イエスをこの地上に救い主として遣わしてくださった父なる神の御心なのだと語ってくださっているのです。だから、私たちは天の神の顔色を窺うような生き方をする必要はないのです。私たちの人生にこれからどのようなことが起こったとしても…、神の御心は変わることがないからです。そして私たちはこの神の御心によっていつも、イエス・キリストと共に生きることができるのです。
「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである」(39節)。
私たちの救いは最初から最後まで神の御心によるものであって、イエスは私たちと終わりの日に共に復活する日まで、私たちから離れず、私たちを導いてくださる方だと語ってくださっています。だから、私たちは「これから自分どうなってしまうのか…」と心配するのではなく、イエス・キリストに私たちの人生を委ねていけばよいのです。
5.永遠の命
「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである」。
イエス・キリストを信じる者はすべて、永遠の命を受け、終わりの日に復活させられることが神の御心であること、また実際にその御心を行うためにイエス・キリストが働いてくださっていることが語られています。ここには「私たちががんばらないと永遠の命は保証されない」とか、「終わりの日になるまで誰が復活できるのか分からない」と言うようなことは語られていません。むしろ私たちに対するイエス・キリストの御業が確かなのですから、私たちは安心して信仰生活を送ることができるのです。
ここで最後にもう一度、私たちが抱き易い問題について考えて見ましょう。それは聖書が語る永遠の命、そして終わりの日の復活の希望についてです。なぜなら、永遠の命とは私たちの命がそのまま永遠に続くということを言っているのではないからです。また、終わりの日の復活は、死んだ私たちが、そのまま生き返るということを教えているのではありません。
今日のイエスの言葉で大切なことは、神の御心によって、イエス・キリストを信じる者となった私たちがイエス・キリストといつも共にいるようになると言うことです。そしてその関係は何があっても決して変わらないと言われていることです。なぜならイエス・キリストは私たちを決して追い出さないと言われ、そして私たちを一人にはしないと約束してくださっているからです。
それでは今、私たちと共におらえれるイエスはどこにおられるのでしょうか。イエス・キリストは死より甦り、天に昇られ、今も生きておられると聖書は私たちに教えています。だから、このイエスといつまでも共にいると約束された私たちの命は聖霊によって今すでにイエスの命につながれているのです。そしてこのイエスとの命の関係は永遠に変わることがないのです。
また、聖書はやがてこのイエス・キリストが終わりに日にこの地上に再び来られること約束してくださっています。ですからもし、イエスがこの地上に来られるとしたら、そのイエスと共に生きる私たち聖徒たちも再び地上に来て、復活することができるのです。
このように私たちに神が約束してくださった命とは、イエス・キリストが私たちといつも共にいてくださると言う約束に基づいて与えられる命であると言えるのです。だから、イエス・キリストが永遠なる方であるならば、私たちの命も永遠であり、その命は決してなくなることはない、また終わりの日に復活することができると言えるのです。
私たちは今、神の主導権によってイエス・キリストのものとされ、「聖徒」とされています。そして、イエス・キリストと共にある命にあずかる者とされました。既に、世を去った兄弟姉妹たちは今、天でイエス・キリストと共におり、最後の日を待っています。また、そして私たちもやがて天上の聖徒の群れに入れられることをイエス・キリストの言葉は保証してくださっているのです。
あなたも聖書を読んで考えてみましょう
1.イエスが語られた「父がわたしにお与える」と言う言葉にどのような意味があると思いますか。この言葉から私たちの信仰はどこから始まることが分かりますか(37節)。
2.同じようにイエスが語られた「来る人を…決して追い出さない」という約束は、地上で信仰生活を送っている私たちにどんな安心を与えますか(37節)
3.イエスが語った「わたしをお遣わしになった方の御心を行う」と言う言葉は、神の御心を知ろうとする私たちに何を教えていますか(38節)。
4.「終わりの日に復活させる」と言う言葉から、あなたはどんな希望を関しますか(39節)。
5.あなたは永遠の命と終わりの日の復活についてどのような希望を持っていますか。