2025.11.23「今日、わたしと共に」YouTube
ルカによる福音書23章35~43節(新P.158)
35 民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」
36 兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、
37 言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」
38 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
39 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」
40 すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。
41 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
42 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。
43 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
1.天国泥棒
今日の聖書のお話ではイエスと同じように十字架につけられた犯罪人の一人が自分の信仰を言い表して、イエスと共に楽園にいると言う約束を受けています。昔からこの「犯罪人」を教会では「強盗」とか、「泥棒」と呼ぶことがありました。当時の十字架刑は最も重大な罪を犯した人に課せられる処刑方法で、ローマに対する反逆罪のような罪を犯した者がその対象だったと言われています。ですから、この犯罪人はおそらく現在でいれば武力を使って政府を転覆させようとする「テロリスト」と呼ばれるような人物であったのかも知れません。彼らは自分たちの主張を実現させるために、時には無実の人をも巻き添えにするような犯罪行為を繰り返すような人であったと考えられるのです。
ただ、先ほども言いましたようにこの人物を「泥棒」と呼ぶ教会の習慣からか、「この男は最後に大変なものを盗んで行った」と言う人の話を聞いたことがあります。なぜなら、彼は十字架で死ぬ直前に、イエスによってその罪が赦され、神の御国に入ると言う特権を受けたからです。そこで彼は、「まんまと天国を盗んで行った」と言うのです。「天国に入るためにはそれにふさわしい善行を積む必要がある」と考える人たちには、この犯罪人は何もしないでその特権を奪って行った「泥棒」のように思えるのでしょう。しかし、私たちが神によって救われるのは善行を積むと言うような自分の努力によるものではなく、神を信じる信仰によるものと言う聖書の真理をこの犯罪人はよく示してくれていると言うこともできます。
聖書によればイエスが十字架につけられたときに、その場にいたのはこの犯罪人だけではありませんでした。それでは他の人は、十字架につかられたイエスに対してとどのような反応を示したのでしょうか。私たちはそのことを考えながら、イエスをメシアとして信じることの意味を再び考えて見たいと思います。
2.自分を救えないメシアはいない
①議員たちの叫び
このとき十字架につけられたイエスのそばにいたのは第一に「民衆」と呼ばれる人々です。彼らは十字架のイエスを「立って見つめていた」(35節)と記されています。おそらく彼ら「これから何が起こるのか」と言う好奇心から、野次馬のように十字架につけられたイエスの周りを取り囲んでいたのかも知れません。
さらにそこには「議員」と呼ばれる人々がいました。彼らは当時のユダヤの最高機関である宗教議会に属する議員たちです。彼らはイエスに敵対心を抱き、そのイエスを陥れてローマの法廷に訴えてローマ総督のピラトによってイエスを十字架刑につけさせた人たちでした。
この議員たちはイエスを「あざわらった」(35節)と記されています。この言葉は「鼻にかける」とか「嘲笑する」と言う意味の言葉です。彼らは「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」と語っています。ただこの言葉はイエスに対して直接に語られていると言うよりも、そこに集まって来ている群衆たちに語っているようにも聞こえます。おそらく、この十字架の出来事を通して、彼らは自分たちの正しさを民衆に証明することができたと考えていたのかも知れません。
「一時は多くの人々の関心を集め、人々から「メシアだ」と期待されていたイエスが、本当は無力な人間に過ぎないことがこのことで明らかになった」と彼らは考えたのです。なぜなら、議員たちにとっては「自分を救くえないメシアなどありえない」と言えたからです。
この宗教議会の議員の中にもヨハネによる福音書に登場するニコデモのように真理を求める人もいたのですが(3章)、大半の議員たちはそうではありませんでした。彼らは聖書の専門家でありながらも、自分の都合のいいように聖書の言葉を読むだけで、神がメシアとして遣わしたイエスを通して何をされようとしているかに関心も持つことがありませんでした。その結果として、彼ら自らが神の救いにあずかる機会を逃してしまったと言うことができるのです。
②兵士たち
さらに十字架にかけられたイエスの真下には「兵士たち」がいました。彼らは当時のユダヤを植民地として支配していたローマ帝国に仕える兵士たちです。彼らは総督ピラトに命じられてこの処刑の執行人として働いていました。その彼らはイエスを「侮辱」したと記されています(36節)。この言葉の意味は「からかう」とか「もてあそぶ」と言うものです。彼らはローマ皇帝に仕える兵士としてそのローマ皇帝の権力がどんなに巨大なものであるかを一番よく知っていました。このときイエスの十字架の上につけられた罪状書きには「ユダヤ人の王」と記されていました。これは総督ピラトがわざわざイエスの十字架につけさせた罪状書きでした。ローマ兵たちの関心はこの「王」と言う言葉に向けられていました。なぜなら、目の前で十字架にかけられているイエスは巨大な権力を一人で握っているローマ皇帝とは全く対照的に何の力も持っていないように思われたからです。もし彼が本当に王であったとしたら、彼に従う兵士たちがイエスを救い出しにやって来るはずです。しかし、十字架につけられたイエスを救い出そうとする者は一人も現れません。
「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」この兵士たちの叫びは、十字架にかけられたイエスを誰も助けに来る人はいないことを通して、彼が「王」ではないことが証明されたと語っているのです。
彼らは兵士として持っていた自分たちの経験に基づく知識から目の前のイエスの姿を判断しています。そして結局、イエスが何のために十字架にかけられ死を迎えようとしているのかを彼らは理解することができなかったのです。
➂絶望する犯罪人
さて次に登場するのはイエスと共に十字架にかけられた犯罪人の一人です。先にもお話したように彼が十字架刑にかけられた理由は、おそらくローマ帝国に対する反逆の罪を負っていたからです。彼は武力によってローマの支配を覆し、ユダヤの国を再建しようとしたのでしょう。ところが、どんなミスを犯したのか分かりませんが彼は官憲の手によって逮捕され、今、反逆者として十字架につけられています。もはや、彼は自分の死を待つことしかできない、そのような立場に立たされていました。ところが彼は地上に残された自分の人生での大切な時間を使って何をしたかと言えば、自分と同じように十字架にかけられているイエスを「ののしる」ことをしたのです。
「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」(37節)。
彼もまた、自分の持っているメシアに対する考え方を基準にイエスを見ようとしました。暴力を含めたあらゆる手段を用いてユダヤをローマの支配から解放するのがメシアの務めだと考えるこの犯罪人はやはり、十字架にかけられたままで自分を救うこともできないイエスをメシアだとは信じることができません。そして彼はこの世にもイエスに対しても、そして自分にもすべて絶望して死を迎えようとしたのです。
3.もう一人の犯罪人
①神を恐れる
さて、このようにすべてに絶望して死んで行こうとする犯罪人に対して、もう一人の犯罪人は全く違った生き方をすることを選んでいます。それは十字架につけられたイエスを信じて、彼に自分のすべてを任せようとする生き方です。
彼ももう一人の犯罪人と同じように、暴力を使ってユダヤをローマの支配から解放しようと考えていたのかも知れません。しかし、彼は自分が今まで持っていたそのような価値観に固執するのではなく、目の前で十字架にかけられているイエスに心の目を向けています。
今までの議員たち、そしてローマの兵士、さらにイエスを罵った犯罪人は自分が持っていたメシアや王に対する考え方に固執していました。その考え方に基づいてイエスはメシアであるとは信じられないかったのです。しかし、このもう一人の犯罪人は彼らとは違った仕方で十字架にかけられたイエスを見つめようとします。
「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」(40~41節)。
この犯罪人は神を恐れています。この「神を恐れる」と言う言葉はただ、「神を怖がる」と言う意味ではありません。神を何よりも大切にすることが、神を恐れると言うことの正しい意味だからです。そして神を恐れる者は、何よりもその神の視点からすべてのことを見ようとするのです。そのとき彼が一番、理解できたことは、自分は神の裁から逃れることができない罪人でしかないということです。そしてその上で、自分ではその神の裁きから逃れる方法さえ持ちえない無力な罪人だと言うことを認めるのです。
「教会では「罪人」、「罪人」と言う言葉が頻繁に語られるので嫌だ…」。時々そんな言葉を聞くことがあります。「もっと自分のセルフイメージが高まるような言葉を語ってほしい」と言うのでしょうか。しかし、教会が「罪人」と言う言葉を頻繁に語るのは、自分のセルフイメージではなく、神の目から見るならば、いったい私たちは何者なのかと言うことなのです。残念ながら神の目から見るならば、私たちすべては「罪人」に過ぎないのです。そのような意味では私たちもまた十字架につけられた犯罪人の一人であると言うことができます。それならば私たちは何をすればよいのでしょうか。自分にも世界にも絶望して自分の死をただ待つべきなのでしょうか。
②イエスに目を向ける
このもう一人の犯罪人は違いました。自分を見つめるだけでは絶望するしかない境遇に立たされながらも、彼はその目を十字架にかけられたイエスに向けたのです。
「しかし、この方は何も悪いことをしていない」(41節)。
イエスは神の裁きを受けるべき罪を何一つ犯してはいないと言うことをこの犯罪人は認めています。それならなぜ、イエスはご自分が本来持っている力も使うことなく十字架で死のうとされるのでしょうか。他の人たちはイエスが無力だから、十字架から降りられないと考えました。しかし、このもう一人の犯罪人はそうは考えていません。イエスは十字架から降りられないのではありません。そうではなく自分から降りようとされないのです。そして彼はそのイエスに次のように語り掛けます。
「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(42節)。
「あなたの御国」と言う言葉はイエスが支配される国と言うことを意味します。つまり、この犯罪人はイエスが国を支配する王であることを認めているのです。
「わたしを思い出してください」。彼はイエスを罵った犯罪人のように「自分を救え」とは語っていません。「思い出すだけでよい」と言うのです。これはイエスに対する彼の信頼の強さを表す言葉になっています。自分には何もできません。しかし、彼にできることがあります。自分の人生をそのままイエスにお任せすることです。
この犯罪人はイエスに対する信仰とは何かを私たちによく示してくれています。なぜなら信仰とは今まで自分自身にだけに向けられている目の向きを変えてイエスを見つめることだからです。そしてそのイエスに自分の人生をそのままでお任せるすることが信仰なのです。なぜなら、私たちもこの十字架にかけられた犯罪人と同じように、自分では自分の救いのために何もすることができない無力な罪人に過ぎないからです。しかし、十字架にかけられたイエスは違います。彼は私たちのために十字架にかかり、私たちが負うべき死の刑罰を代わって受けてくださったのです。イエスは簡単に自分を十字架から救う力を持っておられたのに、それを使われませんでした。それはメシアとして私たちを救い出すための唯一の方法だったからです。そしてイエスはメシアである自分に人生のすべての任せようとする私たちにこう答えてくださるのです。
「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(43節)
「楽園」とはかつて神に創造されたアダムとエバが住んでいた場所を意味する言葉です。罪を犯す前の最初の人間はそこで神と共に生きることができていました。イエスは今日、私たちをこの楽園に招き入れてくださるのです。十字架にかけられ命をささげることで、私たちの罪を赦し、私たちを神と共に生きることができるようにしてくださるイエスの御業を今日も心から褒めたたえたいと思います。
あなたも聖書を読んで考えてみましょう
1.十字架につけられたイエスの周りにいた民衆、議員、兵士はそれぞれどのような態度をイエスに示しましたか。彼らの態度や考えには共通している部分がありましたか(35~38節)。
2.最初に登場する犯罪人の一人はイエスに対して、どんな態度をしましましたか。彼はなぜそのような態度を示したのでしょうか(39節)。
3.それでは二番目に登場する犯罪人はイエスに対して何をしましたか(40~42節)。
4.イエスがその犯罪人に語った「今日わたしと一緒に楽園にいる」と言う言葉は何を意味していましたか(43節)。
5.この物語は私たちの救いについてどんなことを教え、またどんな希望を私たちに与えていると思いますか。
6.あなたがもしイエスの十字架の前に集まった人の一人であるとしたら、今日の登場人物たちの誰に近い態度をとると思いますか。