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2025.11.30「目をさましていなさい」YouTube

マタイによる福音書24章37~44節(新P.48)

37 人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。

38 洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。

39 そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。

40 そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。

41 二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。

42 だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。

43 このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。

44 だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」


1.待降節をどのように迎えるのか

 今日より教会のカレンダーでは待降節、アドベントの期間が始まります。この待降節はイエス・キリストの誕生をお祝いするクリスマスまで日まで続き、そのクリスマスの準備をするための期間であると言えます。もちろん、クリスマスの準備と言ってもそれは部屋にクリスマスの飾りつけをしたり、クリスマスのパーティのためにご馳走を準備するというものではありません。この待降節の期間に私たちに求められているのは、救い主イエスを私たちの心にお迎えする準備、つまり信仰の準備をすることであると言えます。なぜなら、私たちにとって救い主イエスは遥か2000年前に生きていた過去の歴史上の人物としてではなく、むしろ今も私たちと共に生きておられ、私たちの人生とこの世界を導いてくださっている方だと言えるからです。

 それではこの待降節の期間に私たちに求められている信仰の準備とは具体的にどのようなことなのでしょうか。今日はそのことについてマタイによる福音書が記しているイエスの語られた言葉から皆さんと共に少し考えてみたいと思います。


2.完成に向かっている人生と世界

 今日の聖書箇所を読むと、次のようなイエスの言葉で始まっていることが分かります。

「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。」(36~37節)。

 ここで「その日、その時」と言われているのはそのすぐ後で「人の子が来る」と言われているように、救い主イエスが再びこの地上に来てくださるときのことを言っています。聖書は救い主イエスが再びこの地上に来られるとき、この世界は終わりを迎えること、つまり世界の終末が起こると教えています。私たちの人生に必ず終わりがあるように、この世界にも終わりが来ることを聖書は私たちに教えているのです。しかし、ここで注意しなければならないのは聖書が語る「終わり」と言う意味は、何もかもが無くなってしまうと言うことではありません。むしろこの「終わり」と言う言葉はすべてのものが「完成」することを表していると言えるのです。 私たちの目から見れば、世界はどんどん悪くなって行って、やがて人類はすべて滅んでしまうのではないかと思われるような現実があります。また、私たちの人生も同じように、年を取るにつれて体はどんどん衰えて行って、病気を患ってやがては死を迎えると思えます。しかし、聖書はそのような結末を語ってはいないのです。なぜなら私たちの人生も、またこの世界も神が創造された、神によって造られた作品だからです。神は御自身が創造されたものを無意味に終わらせることはありせん。ですから私たちは神がこの世界も、また私たちの人生も必ず最後の完成へと導いてくださると言うことを信じているのです。もちろん、この完成は私たち自身の力で実現できるものではありません。だからこそ、神はこの世界と私たちの人生を完成させるために、救い主イエスを私たちの元に遣わしてくださったのです。だから私たちはこの救い主イエスが今から二千年前にこの地上に来てくださったことをクリスマスと言う名前で呼び、それをお祝いするのです。そして、このクリスマスは過去に起こった救い主の誕生の出来事だけではなく、このイエスが再び私たちのところに来てくださり、この世界と私たちそれぞれの人生を神の計画通りに完成させてくださることを待ち望んでいるのです。待降節はそのための私たちの信仰の準備を確かめるときでもあると言えるのです。


3.ノアと洪水

 さて、ここでイエスは「人の子が来られるとき」つまり「その日、その時は、だれも知らない」と語ってくださっています。私が高校生ぐらいであったでしょうか、「ノストラダムスの大予言」という本が出版されてベストセラーになったことがあります。このノストラダムスだけではなく、人類の歴史上、世界の滅亡について実しやかな予言を語って人々は絶えず現れては消えて行きました。ここでイエスは私たちに、「終わりの日が何月何日にやって来る」と言うような偽預言者の言葉に耳を傾けてはならなにと戒めてくださっています。なぜならその日がいつであるかを知れる者はこの世には誰もいないからです。ですから私たちもこのような偽預言者たちの言葉に惑わされないように気をつけなければなりません。

 それでは私たちはどうしたらよいのでしょうか。ここでイエスは旧約聖書に登場するノアと言う人物にまつわる物語を取り上げて、そのことについて教えています(創世記6~8章)。実際に旧約聖書を読んでいなくても、もしかしたら「ノアの箱舟」と聞けば、「あっ、あの物語のことか…」と思い出す方も多いかも知れません。神に背く人々によって地上に悪に満ちてしまったとき、神は洪水を起こして、その地上の世界を滅ぼそうとされました。

 ただ、神はそのとき信仰の厚いノアと言う人物だけにはこのことを事前に伝えます。そしてノアにその洪水から逃れることができるようにと大きな箱舟を作るようにと命じたのです。ところがノア以外の人々はどうしたかと言えば、ここでイエスが語っているように「人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた」と言うのです。当時の人々はこの世界が滅びるなどと言うことを信じることもなく、あたかもそれが永遠に続くかのように信じこみ、日常の生活だけに心を向けるしかなかったのです。そして誰もが驚くような巨大な箱舟を作っているノアのことなど一切関心を持とうとはしなかったのです。ですから「そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった」(39節)とイエスが語っているように彼らはすべて洪水の中に消えて行くしかなかったのです。

 イエスは私たちが洪水の中に消えて行った人々のようにならないようにと警告しています。当時の人々にとってはノアが作った箱舟が神からの大切なメッセージを伝えるものであったと言えます。それなのに彼らはその神からのメッセージを無視してしまったのです。私たちにとっての「ノアの箱舟」は私たちに神の言葉を伝える聖書であると言えます。だから、私たちもこの神の言葉を伝える聖書のメッセージに耳を傾けながら生きる必要があります。そうすれば、この聖書の言葉が私たちを救い主イエスに導きて、安心して最後のとき、世界と私たちの人生の完成のときを迎えることができるようになるのです。


4.目に見えるところでは違わない

 続いてイエスは「人の子が来られるとき」を待つ私たちに対して次のようなことを語っています。

「そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される」(40~41節)。

 ここには畑で働く二人の男性、そして臼を引いている二人の女性が登場します。この人々はそれぞれ目に見えるところでは全く同じ行動を取っています。しかし、神は「一人は連れて行かれ、もう一人は残される」とイエスは教えているのです。ここから分かるのは神が人を救いに選ばれる判断基準は目に見えるところによるのではないと言うことです。たとえば、その人がどんなに善良な生き方を送っていたとしても、倫理的に正しい生活をしていても、さらには周りの人からもよい評価を受けていたとしても、それは神の評価とは無関係であると言えるのです。

 旧約聖書に登場する預言者サムエルは神に命じられてイスラエルのために新しい王を選ぶ使命を与えられたときに、「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」(サム上16章7節)と言う神の判断基準を告げられています。しかもこの心も単に良い心を持っていると言うのではなく、神を信じる心、神に従う心を持っていると言うことを意味しています。

 このイエスの言葉が語っているように神を信じて生きる人は何かこの世の人と別の生き方をしている訳ではありません。社会人として自分に与えられている仕事の責任を果たしていますし、家庭でも家族の一員として生きているのです。しかし、そのような生活の中でも神に対する信仰を持って生きることが大切であると言うのです。そしてイエスはこのように信仰を持って生きる生き方について「目を覚ましていなさい」と言う別の言葉で私たちに教えようとしています。


5.目覚めて生きる

①泥棒は予告なしにやって来る

 イエスは私たちに次のように教えてくださっています。

「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう」(42~43節)。

 小説に出て来るようなルパンや怪人二十面相なら事前に自分の「犯行」を関係者に予告するかも知れません。犯行を防ぎたいと考えて準備する人々を彼らは見事に欺て、予告通りに犯行を実現させることが小説を面白くさせているのです。しかし、普通の泥棒はそのような犯行声明を出すことは決してありません。むしろ、家の人間が何の疑いもなく、安心して暮らしていて何の備えもしていないのを知った上で彼らは犯行を実現するのです。つまり、このような泥棒に備えるためには常日頃から防犯体制を取っておく必要があるのです。イエスは「その日、その時は、だれも知らない」と語ってくださっています。その日はいつになるか誰にも分かりません。しかし、イエスは必ずその日がやって来ることをここで教えています。そしてそのために私たちが「目を覚ましていること」を勧めて下さっているのです。ですから、この「目を覚ましていること」とは先ほども触れましたように、私たちが信仰を持って生きると言うことを表していると言えるのです。


②自分の人生とこの世界に対する希望を持つ

 だから私たちが信仰を持って生きるということは、人と変わることのない日常の生活の中で生きていながらも、神と私たちとの関係を忘れることがないようにすること、むしろ神との関係を大切にして生きるだと言えるのです。なぜなら、私たちの人生もまたこの世界も神が造ってくださったものだからです。神が造ってくださったものに無意味なものは何一つありません。だから私たちは自分に与えられた人生を大切にし、またこの世界も大切にする必要があると言えるのです。「人の子が来られる時」を信仰を持って待つ者は、この世の生活から離れて世捨て人のような生き方をするのではありません。返ってこの世に積極的に関わり、その責任を果たすことが求められています。

 また、もう一つ大切なことはたとえ自分の人生が完成に向かって進んでいるとは思えないときでも、決して希望を捨てずに「神がこの自分の人生を必ず完成させてくださる」と言うこと信じ、その神の御業が実現する日を待ちながら生きる必要があることです。これはこの世界の完成についても同じであると言えます。私たちの目や耳に入る世界の情勢は日に日に悪くなるように思えるからです。この世界には人間の力ではどうすることもできないような問題が満ちています。しかし、私たちはそのような世界を知っていても、神が必ずその世界を完成に導いくださることを信じて生きるのです。

 聖書は今から二千年前に私たちの人生と私たちの世界を完成に導くために救い主イエスを神がこの地上に送ってくださったことを私たちに教えています。そしてこの救い主イエスは今も、私たちの目には見えませんが、私たちと共に生きてくださっているのです。だから私たちはこの救い主イエスを今日も信頼して、神の計画通りに私たちの人生とこの世界が完成されるときを待ち続けながら生きているのです。

あなたも聖書を読んで考えてみましょう

1.36節で、イエスは「その日、その時は、だれも知らない」と言われます。なぜ誰も知らないのでしょうか。

2.ノアの時代の人々はどのように生活していましたか(37–39節)。

3.畑にいる二人、臼をひく二人の間にはどんな違いがありますか(40–41節)。

4.ノアの時代の出来事は、イエスが再び来られるときを待つ私たちの備えにとってどのような教訓を教えていますか。

5.イエスが「目を覚ましていなさい」と言われた時、どんな意味が含まれていると思いますか。

6.終わりの時の「突然性」は、私たちの信仰生活にどんな影響や動機づけを与えるでしょうか。

7. 私たちの日常の生活の中で「目を覚ましている」ためには、どんな実践ができるでしょうか?

8.主イエスが再び来られる最後のときを恐れではなく“希望”として受け取るために、どんな視点を持つことが私たちには大切だと思いますか。

2025.11.30「目をさましていなさい」