2025.11.9「聖餐式の意味」YouTube
コリントの信徒への手紙一11章23~26節(新P.175)
23 わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、
24 感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。
25 また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。
26 だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。
ハイデルベルク信仰問答書
問75 あなたは聖晩餐において、十字架上でのキリストの唯一の犠牲とそのすべての益にあずかっていることを、どのように思い起こしまた確信させられるのですか。
答 次のようにです。キリストは御自身を記念するため、この裂かれたパンから食べこの杯から飲むようにと、わたしとすべての信徒にお命じになりましたが、その時こう約束なさいました。
第一に、この方の体が確かにわたしのために十字架上でささげられ、また引き裂かれ、その血がわたしのために流された、ということ。それは、主のパンがわたしのために裂かれ、杯がわたしのために分け与えられるのを、わたしが目の当たりにしているのと同様に確実である、ということ。
第二に、この方御自身が、その十字架につけられた体と流された血とをもって、確かに永遠の命へとわたしの魂を養いまた潤してくださる、ということ。それは、キリストの体と血との確かなしるしとしてわたしに与えられた、主のパンと杯とをわたしが奉仕者の手から受けまた実際に食べるのと同様に確実である、ということです。
1.毎月教会の礼拝で行われる聖餐式
今日は毎月のように教会の礼拝で行われている聖餐式の意味についてハイデルベルク信仰問答から学んでみたいと思います。教会が行うキリストの恵みを伝えるための儀式、聖礼典の二つの内の洗礼式は希望者が現れない限りは行われることはありません。しかしこの聖餐式は違います。改革派教会の多くの教会では私たちの教会と同じように、毎月の最初の日曜日にこの聖餐式を行っています。また、宗教改革者のカルヴァンは可能であれば聖餐式は毎週の礼拝で行った方がいいとも教えたと伝えられています。聖餐式はそれだけ大切なものであることを教えたのです。
改革派教会ではこの聖餐式にあずかることができる人は洗礼を受け、信仰告白をした信者だけに限られています。なぜ、そうなのかという理由については別の機会にお話ししたいと思います。教会はそのような人を排除しているのではなく、イエスを信じて洗礼を受け、私たちの信仰の仲間となってくれることを何時も祈りながら、この聖餐式を行っています。
私もまだ、洗礼を受けていなかったときにこの聖餐式を礼拝の中で見て、「教会はもっと融通を聞かせてくれればよいのに…」と思ったことがありました。その上で聖餐式を観察しながら「あのパンの味は特別なのだろうか。ぶどう酒もどんな味がするのだろうか…」と想像を膨らませた思い出があります。ここではっきりと皆さん申し上げれば、残念ながらと言うか…教会の聖餐式で使われるパンやぶどうジュースは近くのスーパーで購入した極ありふれた品物であって、何か特別においしいと言うものではありません。
食事を誰かとするとき私たちが願うことは、できればおいしい食事を楽しくいただきたいと言うことかもしれません。しかし、教会が行う聖餐式はおいしいパンやぶどうジュースを飲むという目的で行われるものではありません。この聖餐式の意味についてハイデルベルク信仰問答を日本語に訳した神戸改革派神学校の校長の吉田隆先生は、その解説の中で葬儀に集まった人が一緒に食事をするのに似ていると記しています。葬儀の席で集まった人たちが共に食事をするのは、食事を楽しみむと言うより、その場に集まった人がお互いに亡くなった故人の思い出を語り合うためであると言うのです。このように葬儀の列席者が故人についての様々な思い出を、食事をしながら語り合うのは、おそらく日本の葬儀ではそれが故人を弔う供養となると信じられているからなのでしょう。聖書も人間の死とその人に対する人々の記憶との関係を次のように語っています。
「人の生涯は草のよう。野の花のように咲く。風がその上に吹けば、消えうせ/生えていた所を知る者もなくなる」(詩編103編15~16節)。
自分の存在は自分の命が地上から無くなれば、あっと言う間に人々から忘れられてしまいます。そして私たちにとって自分の存在が人々から忘れられてしまうと言うことほど寂しいことは無いかも知れません。だから、せめて葬儀の席ではお互いに食事をしながら、亡くなった故人の思い出を語ろうとするのです。
2.思い起こすこと
①困るのはキリストでえはなく、私たち
ハイデルベルク信仰問答は聖餐式の目的を問75で「思い起こす」と言う言葉を使って説明しています。この「思い起こす」は「思い出す」と言う言葉で置き換えてもよいかも知れません。しかし、この聖餐式が葬儀の食事と大きく違うのは、十字架で死んだイエス・キリストの存在が人々から忘れられてしまったら、「イエス・キリストがかわいそうだ」、「イエス・キリストに申し訳ない」と言うような目的で行われるものでは決してないと言うところです。なぜなら、十字架にかけられて死なれたイエス・キリストは復活された後、天に昇り、今も生きておられるお方だからです。そしてその存在はたとえ私たちが忘れてしまっていても、昨日も今日も、いつまでも変わることはありません。さらに、私たちがたとえイエス・キリストを忘れてしまったとしても、イエス・キリストが私たちの存在を忘れることは決してありません。つまり、私たちがイエス・キリストを心配して聖餐式のような食事を行う必要は全くないと言えるのです。
私たちが聖餐式にあずかるのは私たち自身のためであり、私たちの信仰のためであると言えるのです。聖餐式は「十字架上でのキリストの唯一の犠牲とそのすべての益」を表すものと信仰問答は解説しています。ですから、私たちがもし、イエス・キリストの十字架の死のことを忘れてしまったら、私たちの信仰生活は全くおかしな方向に進んで行き、結果的には自らを苦しめることになると言えるのです。つまり、イエスは私たちが困らないように、また私たちの信仰が確かで祝福に満ちたものとなるように、この聖餐式を制定し、それを私たちに守るように命じてくださったと言えるのです。
②私のために
今、「思い起こす」と言う言葉を「思い出す」とも訳せる言葉だと語りました。しかし、厳密にいえばこの「思い起こす」と言う言葉は、「過去の出来事を思い出す」と言うこととは違うとも言えます。なぜなら、信仰問答は私たちが聖餐式にあずかることについて次のように教えているからです。
「この方の体が確かにわたしのために十字架上でささげられ、また引き裂かれ、その血がわたしのために流された、ということ」。
この短い言葉の中に「わたしのため」と言う言葉が繰り返し使われています。聖餐式は今から二千年前にエルサレムと言う場所で、イエス・キリストが十字架にかけられて死んだと言う歴史的な事実を思い出すということだけのために守られるものではありません。大切なことは、このイエスの死が今を生きる「わたしのため」であることを思い起こすことにあるのです。これがなければどんなにイエスの十字架の死が歴史的に大切な出来事であったとしても、この私の人生には全く関係のない出来事になってしまいます。しかし、イエスはこの私の罪のために十字架にかかり、血を流し、命をささげられたのです。ですから私たちはこのイエスの贖いの死によって、自分の罪が赦され、神の子とされ、永遠の命を生きる者とされたのです。
このように、私たちはこのイエスの十字架の死によって、その人生を全く変えられた者たちです。そして聖餐式のパンとぶどうジュースを私たちは自分の目で見ながら、自分の口で味わって食します。これは確かにイエス・キリストの十字架の死が私のためであったことを「思い起こす」ためのものだと言えるのです。つまり私たちがそれを忘れることが無いようにすることが聖餐式の目的であると言えるのです。
3.確信させる
さてさらにハイデルベルク信仰問答は聖餐式の目的を「確信させる」と言う言葉で表現しています。確信のない信仰生活はどんなに苦しく悲惨なものとなるでしょうか。前回の説教でも修道士だったマルチン・ルターが救いの確信を得ることができずに苦しんだと言うお話をしました。ルターはその確信を得るために当時の修道士たちが行っていた様々な厳しい修行に堪えたのですが、それでも自分が神に受けいれられていると言うような確信を得ることができませんでした。
救いの確信のない信仰生活には喜びがありません。むしろ、「神に見捨てられてしまっては大変」と考えて、恐怖に支配されながら信仰生活を送ることになるかも知れません。ですからイエスは私たちが救われた者としての確信を持ちながら、喜びに満たされた信仰生活を送るために、この聖餐式を私たちのために定めてくださったのです。
「それは、主のパンがわたしのために裂かれ、杯がわたしのために分け与えられるのを、わたしが目の当たりにしているのと同様に確実である」。
「主のパンと杯とをわたしが奉仕者の手から受けまた実際に食べるのと同様に確実である」。
信仰問答は「目で見て」また「食べる」ことによって確実であることが分かると言っています。私たちが神に救われたという事実は霊的な事柄であり、目に見えるものではありません。だから私たちは聖書が語る約束を信じることが大切になって来るのです。しかし、イエスは目で見なければ、また口で食べて見なかければそれを確信できない私たちをよく知っておられます。だからこの聖餐式を私たちに与え、それを通して私たちの信仰生活に自分が救われているという確信を与えてくださるのです。
私たちは自分が救われているという確信を得るために厳しい修行を積む必要はありません。また何か特別な神秘体験をする必要もないのです。なぜなら、イエスはこの聖餐式にあずかる私たちに天から聖霊を送ってくださり、私たちがイエスの十字架の死によって罪許され、神の子とされて、永遠の命の祝福の中に入れられていると言う信仰の確信を与えてくださるからです。
4.霊的な恵み
ハイデルベルク信仰問答はこのように私たちが聖餐式にあずかる目的はキリストの十字架の死を思い起こし、またそれによって自分がキリストによって救われているという確信を持つためだと教えています。そしてさらに、この答の中には次のような説明が記されています。
「この方御自身が、その十字架につけられた体と流された血とをもって、確かに永遠の命へとわたしの魂を養いまた潤してくださる、ということ」。
私たち人間はなぜ、毎日忘れることなく食事をするのでしょうか。その答えは簡単です。食べないと死んでしまうからです。私たちの身体は食物を摂取することで、生きて行くために必要な様々な栄養素を取り入れています。私たちは認知症になって「ご飯を食べたこと」を忘れることはあると思いますが。「ご飯を食べること」を忘れることは決してないと思います。食べることは人間に備わった本能でもあるとも言えるからです。
私たちが永遠の命の祝福の中に生きるためにも必要な栄養素があります。それはキリストの命です。聖餐式はこのキリストの命を私たちが日々受けて生きていることを表す聖礼典であると言うことができます。ご飯を食べるのを忘れないように、私たちは聖餐式を通して、このキリストの命に豊かにあずかりながら、今既に永遠の命の祝福の中に生かされていることを知ることができるのです。
繰り返し述べるように、私たちの教会の聖餐式で使われるパンとぶどうジュースはスーパーで買って来た、普通のパンであり、ぶどうジュースでしかありません。しかし、私たちが聖餐式を定めてくださったイエス・キリストの約束を信じて、この聖餐式にあずかるなら、イエスが送ってくださった聖霊が私たちも与えられるのです。そしてその聖霊が私たちの心に働きかけてくださり、イエスの十字架の死が私のためであったことを示し、またその死によって私たちが神に子として永遠の命の祝福の中に生きる者とされたことを確信させ、保証されるのです。さらには、キリストの恵みがなければひと時たりとも、信仰者として生きることができない私たちにその恵みを与えて、私たちを永遠の命の祝福の中に生きることができるように聖霊は働いてくださるのです。
ですから私たちはこの聖餐式の恵みにあずかりながら信仰生活を送ることができるようにしてくださったイエス・キリストに感謝し、これからも喜んでこの聖餐式にあずかって行きたいと願うのです。
あなたも聖書を読んで考えてみましょう
1.あなたもハイデルベルク信仰問答の問75を読んでみましょう。この文章によると、聖餐によって私たちは何を「思い起こし」、何を「確かめる」ことができますか。
2.聖餐の「パンと杯」という見えるしるしと、「キリストの体と血」という見えない恵みの関係を説明してみましょう。
3.あなたは聖餐にあずかるとき、どんな思いで受けていますか?
4.聖餐を通して「自分のためにイエス・キリストが死んでくださった」と信じることが、私たちの日々の信仰生活にどんな力を与えると思いますか。
5.教会の一致と赦しをあらわすために、あなたができることは何でしょうか。 (参考:聖餐式の式文の文章より)「主をかしらとする教会の枝であることを覚え、愛の一致を表さなければなりません。」