2025.3.16「イエスの姿、山上で変わる」 YouTube
聖書箇所:ルカによる福音書9章28~36節(新P.123)
28 この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。
29 祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。
30 見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。
31 二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。
32 ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。
33 その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。
34 ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。
35 すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。
36 その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。
1.イエスとモーセ、そしてエリア
受難節、別名では四旬節と呼ばれる季節を今、迎えています。この季節に教会では復活祭の前日までの約40日間に渡ってキリストの受難と十字架の死を思い起こすことで信仰生活を送る習慣を持っています。そこで受難節の第二週の主日である今日は聖書の中からイエスの姿が山上で栄光に輝いたというお話を学びます。
特にこの出来事ではペトロ、ヨハネ、ヤコブというイエスの弟子たちの他に、モーセとエリアという人物が登場してイエスと語り合う姿が描写されています。彼らは旧約聖書に登場する人物たちで、それぞれ別の時代に活動しています。モーセはイスラエルの民をエジプトから約束の地カナンへと導いたリーダー的な人物です。神の掟である律法はこのモーセを通して神からイスラエルの民に与えられたものでした。ですから、モーセはこの神の律法を象徴的に表す人物としてここに現れたと考えられています。
またもう一人のエリアはモーセの時代よりもずっと後になって活動し、イスラエルの民が偶像崇拝の罪を犯し、神に背き続けたときに、エリアはその罪を告発し、自らは神への信仰を守り続けた人物として有名です。特に彼の生涯にまつわる出来事には不思議な数々の奇跡が起こり、そのことが旧約聖書に記録されています。このエリアは神の言葉をイスラエルの民に告げ、人々を神に導く務めを果した「預言者」の代表的な人物と考えられています。つまり、モーセは律法を、そしてこのエリアは預言者を示す存在と言えるのです。
イスラエルの民は昔から旧約聖書のことを「律法と預言者」と言う名称で呼ぶ習慣を持っていましたから、まさにここに登場するモーセとエリアは旧約聖書全体のメッセージを象徴的に示す人物として現れたと考えることができるのです。彼らはイエスと「エルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」(31節)と福音書は記しています。つまり、この出来事はこれからイエスがエルサレムで十字架につけられて最期を遂げられることが、旧約聖書全体が告げて来た神からのメッセージであり、旧約聖書はこのイエス・キリストの死を通して神の救いの出来事が実現することを予め民に伝えた書物と言うことができるのです。
イエスはこの箇所の直前の部分で「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」(22節)と語り、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」(23~24節)と弟子たちに勧めています。このようにここではイエスの死が、むしろ命を得るためのものであることがイエスの口を通して語られています。今日の出来事はこのイエスの死の意味を目に見える形で表すものだと考えることができます。
私たちも人の前で講演やお話をするとき、そのお話をパワーポイントというソフトを使って人の視覚を通しても理解できるように準備することがあります。イエスの時代にはもちろんそのようなものはありませんでしたが、ここで神はペトロたちが目で見て、イエスの死の意味を理解することができるようにとわざわざこの出来事を示してくださったと考えることができるのです。
2.祈るイエスの姿が栄光に輝く
ところでイエスの姿が山上で栄光に輝いたという物語はこのルカによる福音書だけではなく、マタイ(17章1~8節)やマルコ(9章2~8節)による福音書にも同様に記されています。おそらくルカとマタイはマルコによる福音書の記述を参照して自分たちの福音書にこの物語を記したのではないかと考えられています。その上で同じような出来事を記しながらも、このルカの福音書だけが取り上げる独特な表現があります。それはマタイとマルコではイエスが山に登ったときにこの出来事が起こったとだけ記しているのに対して、ルカはイエスが「祈るために山に登られた」(28節)と記し、さらに「祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」(29節)と説明しているところです。つまり、この山上での出来事はイエスの祈りへの父なる神の答えとして起こっていると考えることもできるのです。
最近、男子会では「祈りへの道」という加藤常昭という牧師が書いた本の読書会を行っています。この本はラジオで加藤先生が話されたものが本になっているのですが、私が読んでいて感じるのはある意味、この本には私たちの期待を裏切るような内容が記されていると言う点です。なぜなら、この本には「こんな風に祈ればよい」、「こうすれば祈りは簡単になる」と言うような祈り方の秘訣のようなものが記されているものではないからです。少し前に読んだところで私の心に残ったのは「私たちは祈りにおいてこそしばしば罪を犯す」あるいは「祈りの中でこそ自分の罪の姿が明らかにされる」と言うような表現でした。
自分の祈りを反省してみると確かにそう言えるのかもしれません。「こうしてほしい」、「ああしてほしい」…。私たちはほとんど無批判のままに自分の願いを神に語り続けます。まさに自己中心的な祈りをささげてしまうのです。その上で、神は自分の祈りに少しも答えてくれないと考えては、祈りについての熱意を失っていくという経験を私たちはするのではないでしょうか。
聖書を読むとイエスの祈りはこのような私たちの祈りとは大きく違っていたこと分かります。第一にイエスの祈りは父なる神に対する信頼で貫かれていることがわかります。また第二にイエスは「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(42節)と十字架の出来事を前にして祈られたように、父なる神の御心を求める祈り、その御心が自分の人生を通して実現されることを願う祈りであったことです。もちろん、神の子であるイエスの祈りが、私たちの祈りと大きく違うのは当たり前かもしれません。しかし、だからこそイエスは私たちに神に祈り求め続けるようにと命じ、またそのためにご自分の祈りの模範を私たちに示してくださったとも言えるのです。
私たちはイエスのように神に完全に信頼することも、また自分の願望ではなく、神のみ旨が自分の人生に実現することを祈ることができない者たちです。しかし、神はそのような私たちの祈りにもならないような貧し祈りに答えて、私たちの祈りを変えてくださる方でもあるのです。そしてそれが可能となるように天に昇られたイエスが、私たちの祈りをとりなしてくださっているのです。
ですから祈るイエスが栄光の姿に変わったように、罪人でしかない私たちも祈りを通して聖霊の働きを受け、私たち自身が神の子として変えられる、そして神の栄光を豊かに現わすものとされることをこの物語は私たちに教えているのかも知れません。
3.これに聞け
①都合のようことだけを望む私たち
聖書によればこの山上の出来事を実際に目撃したペトロは「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」(33節)とイエスに語ったと言います。そしてその理由について聖書は「ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである」と説明しているのです。
ペトロはここで驚くべき光景を目撃してほとんどパニックに陥てしまったのかも知れません。テレビ漫画のサザエさんの中である時に大きな地震を職場で体験した波平がすぐ家に電話をするシーンがありました。その電話は一家の安否を確認するためではなく「床の間に飾ってあった大切な花瓶は大丈夫だったか」と問い合わせるものだったので、一家から顰蹙を買うと言うものでした。意外にこんなときにこそ人の本音が表わされるのかも知れません。
アメリカの漫画のピーナッツで主人公のような存在チャーリー・ブラウンは何時も自分をいじめて来るルーシーがあるとき落ち込んでいる姿を発見します。そして彼女を慰めようとするのです。「人生にはいいことも、時にはわるいこともおこるよ…」。するとルーシーはそのチャーリー・ブラウンの話を聞いて大声で「わたしはいいことだけが欲しいのよ」と叫ぶのです。まさにペトロの願いはこのような人間の心理を示しているのかも知れません。ペトロは目の前に起こった素晴らしい光景をいつまでもそのままに留めたいと思ったからです。しかし自分の人生によいことだけが起こることを願う人にとっては、イエスが苦しみを受け、十字架で死なれるという出来事の意味は全く理解できません。ペトロと同じように考える私たちにとっても人生で苦しむことは、また私たちが死を迎えることは自分の人生にとって不都合な出来事としか考えることできないのです。 だから自分の人生に起こる出来事の本当の意味を悟り得ず、そんなことが自分の人生にも起こるのではないかと恐怖や不安を感じ続けている私たちに雲の中から聞こえてきた声は「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」(35節)と語りました。聖書の中で雲は神の臨在、つまり神がそこにおられることを視覚的に示すものとして用いられています。つまり、ここで聞こえてきた声は、イエス・キリストをこの地上に救い主として遣わしてくださった父なる神の声でした。
②真理はあなたを自由にする
この言葉は私たちが真の神を知り、またその御心を知る道がこのイエス・キリスト以外にはないことを示しています。そして、私たちが真の神を知るということは、私たちの自身を知り、私たちの人生の本当の意味を知ることができるということをも示します。なぜなら、聖書は私たちを創造し、私たちの人生を導かれる方こそ、この神であると言うことを教えているからです。だから神を知るということは、自分自身を知ることでもあると言えるのです。
国会議事堂の近くにある国会図書館のホールには「真理がわれらを自由にする」と言う言葉が刻まれています。この言葉の元はおそらく聖書の中でイエスが語られた「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8章32節)と言う言葉です。この言葉が語っているようにイエスを信じ、イエスに聞き従うことは私たちの人生を自由にすることであると言えるのです。
なぜなら、私たちは自分たちの偏った経験や、この世の誤った価値観によって自分の人生を束縛され不自由な者として生きているからです。そして、私たちは自分がこの世の価値観に捕まえられ、不自由な者にされていることにも気づいていないのです。ある本で興味深いたとえ話を読みました。
あるとき指名手配の犯人を逮捕した刑事から警察の上司に電話連絡が入りました。上司は「よくやった。すぐにその犯人をここに連れて来い」とその刑事に命じます。ところがその刑事は「それはできません」と言うのです。そして「犯人は行きたくないと言っています」とも続けて語ります。上司は「そんなこと無視して、無理やりにでもここに犯人を連れて来い」と念を押して言うのですが刑事は「それができないんです」と答えるばかりです。そこではじめてこの出来事の事実を悟った上司は刑事にこう言い換えて語ります。「よし、分かったそれなら犯人に代われ、おれが犯人にお願いしてみよう」。すると刑事はようやく「それなら大丈夫かもしれません…」と答えます。このお話は実は犯人を捕まえたのは刑事ではなく、この刑事が犯人に捕まっていて、その刑事は自分が犯人を捕まえたと勘違いしていたのです。
この話を例話で語ったある説教者は「人生の成功者にならなければならない」と言うような考え方が私たちを捕らえて、それができない自分を苦しめ、劣等感を抱き続けさせて私たちを縛り続け、不自由にしていると語ります。このように私たちを縛り付け、不自由にさせている考え方は私たちの周りで無数に存在していると言えます。「失敗してはだめ」。「弱い人間ではだめだ」。「病気になってはいけない」。「年を取って老人になってはならない」。「人に面倒を見てもらうような人間ではだめだ」。「死はすべての敗北でしかない」…。もちろん、私たちがこのような言葉の通りに生きることができれば、それも幸いかも知れません。しかし、私たちは必ずしもこのような世が教える価値観の通りには生きることができません。だから、多くの人は自分を敗北者のように感じてしまい、自信を失い、自分の人生の意味を見失ってしまうことになるのです。
イエスはこのようなこの世の価値観から私たちを自由にしてくださる方だと言えます。なぜなら、私たちの人生に起こるこの世が不都合と呼ぶような現実さえも神は用いてくださり、私たちの人生を通して神の栄光を表すことができるようにしてくださるからです。また、神はその事実を私たちに日々イエス・キリストを通して教え、私たちに勇気と力を与えてくださるからです。
私たちの主イエス・キリストはご自分が苦しみ、十字架で死なれることを通して、私たちを救ってくださいました。そしてそのことを通して神の栄光を豊かに現わしてくださったのです。ですから今日のイエスの物語はこの栄光を私たち自身もイエス・キリストに聞き従うことにより、自分の人生で表すことができると言うことを教えているのです。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.このときイエスはペトロ、ヨハネ、ヤコブの三人を連れて何をするために山に登りましたか(28節)。
2.イエスが祈りをしているとそこでどのようなことが起こりましたか(29~30節)。
3.そこに現れたモーセとエリアはイエスと何について話し合っていましたか(31節)。
4.この光景を目撃したペトロはそこでどのような反応を示しましたか。彼はどうしてそのようなことをしたのでしょうか(32~34節)。
5.ペテロたちを雲が現れて覆ったとき、その雲の中からどんな声が聞こえましたか。この声は誰の声でしょうか(38節)。
6.この光景を目撃した弟子たちはその後どうなりましたか(36節)。