2025.3.2「はっきり見えるようになるために」 YouTube
聖書箇所:ルカによる福音書6章39~45節(新P.114)
39 イエスはまた、たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。
40 弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。
41 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。
42 自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」
43 「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。
44 木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。
45 善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」
1.盲人が盲人の道案内をする
昔、一人の剣豪の侍が旅をしていました。彼はその旅の途中で険しい崖にかかったつり橋の前で立ち止まりした。つり橋の下を見ると奈落の底に落ちるような、それは怖ろしい光景が目に入ります。その上にその谷にかかっているつり橋はあまりにも粗末に見えました。「落ちたら一貫の終わりだ」と考える剣豪はどうしても足がすくんで前に進むことができません。するとそこに杖を頼りにしながら旅を続ける盲人が一人やって来て、剣豪の前を通り過ぎ、いとも簡単にその橋を渡って行ったのです。剣豪はその盲人の姿を見ながら「見えることも不便なものだな…」と語ったと言います。前だけを向いて歩いて行けばよいのに、私たちの目には様々な余計な情報が入って来ます。そしてその情報が私たちを恐怖や不安に陥れて、先に進めなくなってしまうことが私たちの人生にも起こることがあるはずです。
今日はイエスの語られたたとえ話から皆さんと一緒に学びたいと思います。このお話はイエスが語られた「平野の説教」の中に収録されているものです。イエスに出会い、イエスを信じる者となり、イエスと共に生きる弟子となることを決心した人々にこの言葉は語られているのです。
「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか」(39節)。
盲人が盲人の道案内をするとどうなるのでしょうか。二人とも目が見えませんから目の前に空いている穴に気づかずに二人とも落ちてしまうとイエスは警告しています。ただここで盲人と呼ばれるのは最初のお話で語ったような実際の肉体の目が見えない人を言っているのではありません。むしろこれは心の目と言ったらよいのでしょうか。私は元々お坊さんを育てるために創立された仏教大学に行っていたのですが、その大学の校歌のセリフの中に「無明(むみょう)」と言う私たちの普段の生活では聞きなれない言葉がありました。これもまた私たちの心の状況を表す言葉で、何も見えずに手探りで歩かなければならない私たちの人生の姿を語る言葉だと言えます。
「人間はどうして生きなければならないのでしょうか?」と深刻な問題を抱えてやって来る若者に対して「そんなことは誰にも分からない。だから人はそれを知るために一生懸命に生きているのではないか…」と答えたとしたら、それは正直な言葉なのかもしれません。しかしやはりこの答では盲人が盲人の道案内をするようなことになってしまうはずです。イエスは私たちにそのようになってはならないと言うことをここで教えているのです。しかし、それではどうしたら私たちの目が見えるようになるのでしょうか。どうしたら私たちは人を正しい道へと案内することができるのようになるのでしょうか。
2.弟子は師にまさらない
その答えは決して難しいものではありません。もし私たちの目が見えないなら、また人を正しい道に導くことができないならば、よく見える人に、また正しい道を知っている人に私たち自身を案内してもらえばよいのです。だからイエスのたとえ話は盲人が盲人の案内をすると言う言葉の後に次のような言葉を語っています。
「弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる」(40節)。
皆さんは何か自分では分からないことがあったらどうするのでしょうか。おそらく現代人の多くはスマフォやコンピュータで検索してそのことを調べるはずです。最近はAIと言って調べたことを教えてくれるだけでなく、考えることさえ私たちに代わってやってくれるという時代になっています。しかし、聖書の時代にはもちろんそのようなものは一つも存在しませんでした。当時は書物でさえ、一般の人は簡単には手に入れることできなかったのです。ですからこの時代には人が新しい知識を知ろうとするならば誰かに教えてもらう必要がありました。特に人が正しい知識を身に着けるためには、それを知っている先生、つまり善い「師」の元に弟子入りして、その師から学ぶ必要がありました。イエスは私たちにも正しい人生の「師」の元に弟子入りし、そこで訓練を受ける必要があるとここで教えているのです。そうすれば、確かに私たちはその先生以上にはなることができませんが、その先生に似る者とはなれると言うのです。それでは私たちの人生の正しい師とは誰でしょうか。目が見えない私たちの手を引いて、正しい道に導かれる方とは誰なのでしょうか。イエスは他の箇所で弟子たちにこう語っています。
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14章6節)
イエスこそ私たちに与えられた善い「師」です。だから私たちはこの方の元に行き、この方の訓練を受ける必要があると言えるのです。
3.自分の目にある丸太
①人を裁くことの愚かさ
ところでイエスは私たちが正しい人生の師であるご自分の弟子となり、その訓練を受けることが大切であることを教えた上で、次のようなたとえ話を続けて語っています。>
「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」(41~42節)。
この同じたとえ話がマタイによる福音書(マタイ7章1~5節)では「人を裁くな」と言うイエスの勧めの説明として使われています。つまり、「兄弟の目にあるおが屑は見える」や「さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください」と言う言葉は他人の罪を見つけ、それを裁く行為を表していると言うことができます。このルカによる福音書でも37節で「人を裁くな」と言うイエスの勧めが語られていますから、やはりこのたとえ話は自分の問題は棚に上げて、人を裁くことの愚かさを語っているのでしょう。
昔、修行のため厳しい戒律に従いながら旅を続ける二人の兄弟弟子がいました。あるとき、この二人が流れの早い川のほとりにやって来た時、そこに一人の若い女性が佇んでいるのを見つけました。兄弟子はすぐにその女性に近寄り話しかけました。「どうしました」。「用事があって、向こう岸に渡りたいのですが、この川の流れが急すぎて、渡ることができずに困っています」と女性は答えます。そこで兄弟子は「それなら私が背負って、向こう岸まで連れて行ってあげましょう」と言って、さっさとその女性を自分の背中に背負い、向こう岸に渡って行き、そこでその女性を降ろしました。兄弟子は礼を語る女性に対して「礼には及びません」と語って、すぐにすたすたと先に進んで行きました。ところがこの一部始終を見ていた弟弟子は「私たちの戒律では女性に話しかけることも、ましてや触れることさえ許されていないのに、なぜ兄弟子はあんなことをしたのか…」と兄弟子の行為を批判する思い抱きます。弟弟子はそんな思いを抱きながら、先に進む兄弟子の後をついて行きました。ちょうどあたりが夕暮れになったころのことです。ついに堪りかねた弟弟子は兄弟子に対して批判の言葉を口に出しました。「なぜ、あなたは戒律に反して女性に話かけ、またその女性を背負って川を渡ったのか…」。すると兄弟子は驚いた顔でこう答えました。「なんだ、お前はあの女性をここまで背負って来ていたのか。私はちゃんと川岸であの女性を降ろして来たのに」と。
「人を裁きていると気持ちがいい」と言う人も中にはいるかも知れません。しかし、人を裁くことによって一番害を受けるのは自分がその問題の重荷を背負い続けていると言うことです。確かに私たちは人間関係の中で不都合な現実を体験して腹を立てることが度々あります。しかし、その怒りを私たち持ち続けるならば、私たち自身が不自由となり、私たち自身が重い重荷を背負って人生を歩むことになってしまうのです。ですから「まず自分の目から丸太を取り除け」と言うイエスの言葉に従うことは、自分が裁いている相手のためではなく、私たち自身が自分の背負った重荷から自由になることを勧めているとも取れるのです。
②本当は見えていない私たち
そもそもこのイエスのお話は他人の目にあるおが屑には気が付けても、自分の目の中にある丸太に気づかないという笑い話のような内容になっています。だいたい、自分の目にもし丸太があったとしたらその人は他人の目にあるおが屑はもちろんのことおそらく何も見えないはずです。このお話の要点はここにあります。私たちは自分が見えていないことに気づいていないのです。むしろ、何でもよく見えていると考え、自分の生き方や考えに自信を持っているからこそ、他人の人生に勝手に介入して「あなたの目にあるおが屑を取らせてください」などと言うことができるのです。実はこれが私たち人間の本来の姿だと聖書は教えているのです。私たちは本当は見えてないのに、それに気づいていないのです。
そう考えて見ると、私たちが「道であり、真理であり、命である」であるイエス・キリストに出会い、その方に案内されながら人生を歩むことができることはどんなに素晴らしいことなのかと言うことが分かります。だからイエスはご自分の前に集まってこのイエスの言葉に耳を傾けている人たちに対して「あなたたちは幸せです」と語り掛けてくださったのです。神が私たちを愛し、その愛の証しとしてイエス・キリストをこの世に遣わしてくださいました。そしてそのイエス・キリストを救い主として信じることができたことは私たちの人生において最も幸せなことだと言えるのです。
4.心からあふれ出る言葉
「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない」(43~44節)。
イエスの語るたとえはこのように続いています。マタイではこのたとえが偽預言者を警戒する言葉として、また当時ユダヤの宗教社会を支配していたファリサイ派の人々の偽りの姿を暴く証拠として語られています。つまり、彼らは口では人々が気にいるような心地よい言葉を語るが、行動は全く違いっている。だから彼らの語る言葉に惑わされるのではなく、彼らの行動を見て、その人たちが正しいのかそうでないのかを判断しなさいと教えているのです。つまりマタイでは実と木の関係は行いと言葉の関係を表していると言うことができます。しかし、ルカではこのたとえ話は別の意味で語られていると考えることができます。なぜなら、イエスはこのたとえ話を引き継いで次のよう言葉も語っているからです。
「善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」(45節)。
「人の口は、心からあふれ出ることを語るのである」と言われています。つまり善い人の心の中は善いもので満たされていて、反対に悪い人の心の中は悪いことで満たされていることを、その人が語る言葉で判断することができると言うのです。そしてこの言葉から考えると先の実と木のたとえ話は、その人の心と語る言葉の関係を語っており、その人が本当に善い人なのか悪い人なのかはその人の語る言葉でわかると教えていると言えるのです。だから人を裁く言葉ばかりを語る人の心には悪いもので満たされていると考えることができます。それでは私たちはどうすればよいものを入れた心の倉を持ち、人を裁く言葉ではなく、人を赦し、愛する言葉を語ることができるのでしょうか。
そのためにはまず私たちが私たちを赦し、私たちを愛して十字架にまでかかってくださったイエス・キリストの言葉を心に受け入れることが必要となると言えます。そのために私たちは日々、聖書の言葉に耳を傾ける必要があります。なぜなら、それは私たちの心の倉を善いもので満たすこととなるからです。そして聖霊は聖書の言葉を心の倉に取り入れようとする私たちに働きかけてくださり、私たちの心を変えてくださるのです。
昔は、車で旅行に出かけたり、目的地に向かうときは事前に道路地図を調べてからドライブに出発していた人が多かったはずです。しかし、最近ではそんな地図を見る習慣がなくなりつつあります。それはどの車にも正確なナビゲーションシステムが付けられていて、その案内に従えば無事に目的地に着くことができるようになったからです。だからもし何かの理由でこのナビゲーションシステムが使えなくなってしまったら私たちは大変なことになるはずです。
聖書は私たちの人生を正しく導くためのナビゲーションシステムであると言えるかも知れません。イエス・キリストが聖書の言葉を通して私たちの人生を導いてくださるからです。また、もし私たちが歩む道を間違ったとしても、聖霊が働いてくださり、私たちの行くべき道を正しく修正してくださるのです。また私たちは聖書の言葉を通して、私たちの師であるイエス・キリストの訓練を受けることができます。そしてその聖書の言葉を私たちの心に蓄えていくならば、今まで人を裁く言葉しか語ることができなかった私たちが、人を赦し、人を生かす言葉を語ることができるようになることを今日のイエスのたとえ話は私たちに教えてくださっているのです。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.イエスは「盲人が盲人の道案内をする」とどうなってしまうと警告していますか(39節)。
2.イエスは人生の道案内をする師とその師から訓練を受ける弟子との関係についてどのように教えていますか(40節)。
3.イエスは兄弟の目におが屑があるのを見て「さああなたの目にあるおが屑を取らせてください」という人に対して、その人自身は何に気づいていないと教えていますか(41~42節)。
4.このイエスの言葉から考えると他人を裁こうとする人(37節参照)はまず自分の何に気づき、何をすべきだと教えていると思いますか。
5.「木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる」とイエスは語りました。それではその人の心の倉に何が入っているかが分かるのは、その人の何によって判断すべきだとイエスは教えていますか(43~45節)。6.あなたは自分の心の倉をよいもので満たすために何をすることができると思いますか。