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  4. 3月23日「園丁の願い」

2025.3.23「園丁の願い」 YouTube

聖書箇所:ルカによる福音書13章1~9節(新P.134)

1 ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。

2 イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。

3 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。

4 また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。

5 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」

6 そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。

7 そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』

8 園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。

9 そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」


1.悲惨な事件や事故に巻き込まれた人たち

 今日の聖書箇所の最初には「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたこと」と言う出来事が記されています。この事件についての詳しい資料はどこにも残されていませんので、これ以上のことはよくわかりません。ここに登場するピラトはイエスに死刑判決を下した総督として有名な人物です。彼はローマ帝国の植民地となっていたユダヤを治めるために遣わされていたローマの役人でした。ユダヤではこの当時、頻繁にローマの支配に抵抗する独立運動が起こっていました。おそらく、ここに書かれているのはその独立運動を取り締まるためにピラトが派遣したローマ軍の兵士たちによって起こされた事件のことで、「ガリラヤ人の血」と言う言葉はその事件に巻き込まれて不幸にも命を失ってしまった人々を指していると言えます。

 そして、この事件の報告を聞いたイエスが語った言葉の中に「シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人」と言う話が現れます。このシロアムは郊外の水源からエルサレムに水を供給するため造られた水路の終点となる場所で、そこにはシロアムの池(ヨハネ9章6節)があったと聖書は記しています。ですからシロアムの塔はその水路と関係する建物であったのかも知れません。十八人はこの建物の建設工事に携わる人々であったのか、あるいはたまたまそこにいてこの塔の崩壊に巻き込まれたのか詳しくはわかりませんが、悲惨な事故の犠牲者たちであったと考えることができます。つまり、この部分で論じられていることは、悲惨な事故や事件によって被害を受けた人々はどうしてそうなってしまったのかと言う問題です。

 ご存知のように聖書では私たちの人生にそれぞれ計画を立て、導いてくださっている方こそ聖書が教える真の神だと言っています。当然にユダヤ人たちはこのことを信じていましたから、悲惨な事件や事故に巻き込まれたことも偶然ではなく、神の計画と考えたのです。すると「神はなぜ、その人たちをこのような目に合わせたのか」という話になる訳です。そこで彼らは考えます。「神は正しいお方であるから、間違ったことはなさらない。おそらく、彼らは自分が犯した罪に対する裁きを受けたのだ」…と。事故や事件に巻き込まれた人々は皆、自分が犯した罪の報いを受けてそうなったと考えたのです。だからイエスはこのような考えを否定するために次のように語ったのです。

「シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」(4~5節)

 イエスは悲惨な事件や事故の犠牲者たちが自分の犯した罪に対する神の厳しい裁きを受けてそうなったという考え方を「決してそうではない」と言う言葉で否定されています。そしてさらに踏み込んで「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」とも語っておられるのです。いったい、このイエスの言葉は何を意味しているのでしょうか。私たちも彼らと同じようにいずれは悲惨な事故や事件の犠牲になるように神は定めておられると言っているのでしょうか。


2.悔い改めと神の愛

 この言葉を理解しようとするとき大切なのは、「悲惨な事故や事件に巻き込まれた人々は、自分たちの犯した罪に対する裁きを受けた」と考える人たちがそこからどのような結論を導き出したかと言うことにあります。つまり、この人たちの結論から考えると、「自分がそのような事件や事故に巻きまれなかったと言うことは、自分には神に罰せられるべき罪が見いだされなかったからだ」と言うことになります。自分に神の裁きを受けなければならない何かの罪があるなら、悔い改めて、自分の罪に対するゆるしを神に求める必要があります。しかし彼らは「わたしにはその罪がないことが証明された。だから、大丈夫だ…」と考えているのです。

 そこで、イエスはそのような「自分は悔い改める必要がない」と考えている人たちに対して「あなたがたも悔い改めなさい」と語ったのです。ここで、私たちが考える必要があることは、それではイエスが求めておられる「悔い改め」とは何かということ、また、なぜ「悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と言われたのかと言うことです。

 聖書は私たちに神の大切な御心を次のように教えています。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3章16節)

 神は私たちを愛してくださっています。その証拠として私たちに与えられたのが神の独り子であるイエス・キリストです。そしてイエス・キリストはその生涯と十字架の死を通して、この神の愛を私たちに教えてくださったのです。ですから聖書が言う「悔い改め」とはこの神の愛を受け入れること、そしてイエス・キリストを信じてこの神の愛の中に生きることを意味していると言えます。

 それでは「皆、同じように滅びる」とはどのような意味なのでしょうか。この言葉は私たちがこの神の愛を拒否して、神の愛の中で生きようとしないならその人は滅びるしかないことを意味しています。花に水をあげなければ、たちまちその花は枯れてしまうように、私たち人間は神の愛の中に生き続けなければ、この花と同じように枯れて、滅びるしかない者たちなのです。

 アウグスチヌスと言う古代に生きた神学者は「あなたは私たちを、ご自身にむけてお造りになりました。ですから、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです」と言う言葉をその著作「告白」の中で残しています。このアウグスチヌスの言葉の通り、私たちが神に対して悔い改めるとは「滅びを免れる」と言う消極的な意味のためよりも、むしろ神の愛の中に生き続けること、またその神の愛の中で真の安らぎを受けて生きること意味しているのです。だからこそ、イエスはすべての人に対して「悔い改め」を勧めたのです。この世には神の愛を必要としない人は一人もいないのですから、すべての人々が悔い改める必要があるのです。


3.実のならないいちじくの木

 つぎにイエスが語られたのはぶどう園に植えられたいちじくの木のたとえです(6~9節)。ぶどう園ならぶどうの木だけが植えられているのではないかと思うのですが、意外にもイスラエルではぶどう園にいちじくの木を植えることがよくあったようです。解説によればいちじくの木は他の木よりも地面に広く根を張るので、その分だけ土地が必要となります。ですからそのいちじくの木が実を結ぶことがなければ、それだけ土地を無駄に使ってしまっていることになります。そこでこのぶどう園の持ち主は土地を有効活用するために、「このいちじくの木を切り倒して処分するように」とぶどう園の管理している園丁に命じます。そうすれば、その土地にもっと多く実を結び、主人に利益をもたらすような他の木を植えることができます。ところが園丁は「もう少し待ってほしい」とこの主人に願い出るのです。おそらく自分の土地の経済効率だけを考えて「いちじくの木を切り倒せ」と言ったぶどう園の主人とは違い、この園丁は今まで直接にこのいちじくの木に関りを持って来た人物です。当然にいちじくの木に対する思い入れが主人とは全く違うのです。「いままでは実を結ばなかったが、今年はもしかしたら実を結ぶかもしれない…」。園丁はそう考えていちじくの木を守ろうとしたのです。

 このお話は先のお話で語られた悔い改めの必要性について語るお話に引き続いて語られています。ですから、いちじくの木が実を結ぶとは、人が神の愛を受け入れて、悔い改めの実を豊かに結ぶことを表していると考えることができます。悔い改めれば私たちの命は神の愛の中で永遠に安らぎを受けて生きることができるからです。それではなぜ、人は悔い改めることをしないのでしょうか。神の愛の愛の中に安らぐことをしないのでしょうか。それは「今でなくても大丈夫だ」と思ってしまうからです。「いまはそれよりももっと大切なことがある」と考えて、悔い改めを後回しにしてしまうからです。

 ですからイエスはそのような人の心理を捕らえて、悔い改めの緊急性をここで教えているのです。ピラトが起こした事件によって死んだ人々も、またシロアムの塔の下敷きになって亡くなった人も、自分の命がそこでなくなるなどと言うことを考えていた人は一人もいなかったはずです。もちろん、イエスは私たちの身に「明日、何が起こるか分からない」と言って、私たちを不安にしようとしているのではありません。むしろ、私たちが生きている今と言うときがどんなに大切な時なのかをこのたとえ話を通して私たちに教えようとしているのです。

 カウンセリングを学ぶ実習の中で「あんなたの命があとわずかだとしたらあなたは今、残された時間を使って何がしたいですか?」と言う質問に参加者たちが答えるものがあります。皆さんはそんな質問を受けたら何とこたえるでしょうか。おそらく、今、真っ先にやっておかなければならない大切なことをしようと考えるはずです。この実習ではすべての参加者の答えを聞いた後、彼らに次のような言葉が語られると言います。「それではあなたはなぜ、そのことを今しようとしないのですか」と…。

 イエスはこのたとえ話をすることで私たちを脅迫しているのではありません。「あなたの人生にとって一番大切なことを、今すぐにしなさい。そうすれば、あなたのこれからの人生はすべて変わっていく」と語って、私たちが神の愛に答え、神の愛の中で安らかに生きる人生を選ぶことを勧めているのです。


4.神の御心を求め、神に応答していく人生

①神の御心をどこに求めるか

 少し前に今から14年前に発生した東日本大震災について取り上げる番組がテレビでいろいろと放映されていました。そのような番組を見ると、今でも身近な家族を地震や津波で亡くし人たちの心には決して消えることのない悲しみがあると言うことが分かりました。人はその悲しみと共に生きていかなければならないのです。

 どうしてあのような大災害が起こり、たくさんの人々が命を失わなければならなかったのか…。そのような疑問に答える明快な回答を持つ人は誰もいないと思います。「その答えは私たちにもわからない…」。そう答えることしかできないのが私たち人間の姿ではないでしょうか。それなのに自分はまるですべてを知っているようなつもりになって、何かを語ろうとすれば、それはイエスが「決してそうではない」と否定した人たちと同じ誤りを犯すことになってしまいます。

 関東大震災(1923年9月1日)が起こったときに、一人の有名な無教会派のクリスチャンが愛する妻をその地震で失うと言う経験をしました。彼もまた癒されることのない悲しみを背負いながら、それでも神を見つめ続けること止めることはありませんでした。そして彼は「それでも神は愛だ」と言う言葉を残したと言います。彼がそのような言葉を語ることができたのは、彼が神の御心を自分の経験や知識から判断するのではなく、救い主イエス・キリストを通してだけ知ろうとしたからです。私たちも自分の人生に対する神の御心を知ろうとするときに大切なのは、その御心を私たちのために十字架に付き、命をささげてくださったイエス・キリストの愛を通して知ることだと言えます。


②神の御心にどのように答えるか

 東日本大震災が起こった頃、他の教会の会員でありながら時々、私たちの礼拝に時々出席する一人の青年がいました。彼は将来、救命救急士を目指して学びをする学生でした。その彼は東北で地震が起こったことを知らされたときに「どうして神はこのようなことが起こることを許されたのか…」、そのような疑問を抱きました。そしてその答えを求めて彼は被災地に赴き、そこでボランティアとして復興作業に加わったと言うのです。やがてその被災地から帰って来た彼に私は「神様の答えは分かったの」と尋ねました。すると彼はすぐに首を横に振って「いえ、何もわかりませんでした」と素直に答えてくれました。しかし、私は今でも、彼は神からの答えをちゃんと聞いていたのだなと思えてなりません。なぜなら、彼はあの大震災の悲劇を聞いて、自分にできることしたいと願って、実際に被災地に行き、そこで苦しんでいる人たちと共に生きようとしたからです。

 「どうしてそのようなことが起こったのか」と問題の原因を探ることはある意味で大切です。それは同じような悲劇が二度と繰り返させれないために必要なことかも知れません。しかし、それ以上に大切なのはその出来事を通して、神は私たちに何をすることを望んでおられるのか…。その問いに私たち一人一人が答え、またそのために自分の人生の大切な時間を使うことだと言えます。

 「この木を切り倒せ」と語るぶどう園の主人に対して園丁は語りました。「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます」。私たちが今生かされているのは、この園丁であるイエス・キリストが私たちを守り、日々、豊かな恵みを与えてくださっているからです。だからこそ私たちには今神の愛を受け入れて、その神の愛にふさわしく自分に与えられた人生の時間を使っていくが求められているのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.このときイエスのところに来た何人かの人が告げた出来事はどのようなことでしたか(1節)。

2.この報告を聞いたイエスはどのような言葉を語りましたか(2~3節)。このイエスの言葉から突然の事件や事故に巻き込まれた人々の不幸の原因について当時の人がどのように考えていたことが分かりますか。

3.それではイエスの「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」(3節、5節)と言う言葉を私たちはどのように考えることができますか。

4.何人かの人からピラトが起こした事件(1節)を聞いたイエスはどうして、「シロアムの塔が倒れて死んだ十八人」の話をしたのでしょうか(4節)。

5.実のならないいちじくの木をぶどう園の主人はどうすることを望みましたか。また園丁はこの主人の言葉にどのように答えましたか(6~9節)。

6.このイエスのたとえ話が私たちのこの地上で残されている人生の時間だと考えるなら、私たちにはその時間を使って何をすることを望まれていると思いますか。

2025.3.23「園丁の願い」