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2025.3.30「帰ってきた放蕩息子」

聖書箇所:ルカによる福音書15章1~3,11~32節(新P.138)

1 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。

2 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。

3 そこで、イエスは次のたとえを話された。

11 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。

12 弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。

13 何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。

14 何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。

15 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。

16 彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。

17 そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。

18 ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。

19 もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』

20 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。

21 息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』

22 しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。

23 それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。

24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。


1.父の思いがわからない兄弟

①たくさんの説教者が選ぶ聖書箇所

 アメリカの刑務所では度々牧師が訪問して、そこに収監されている人たちに聖書のお話をする機会がよくあると言います。ある牧師が「放蕩息子」と言う題名でよく知られているイエスのたとえ話をそこで語ろうと考えて、やって来ました。すると挨拶するために出迎えにやって来た刑務所の所長が牧師にこう語ったと言います。「牧師先生。先生が聖書からどのようなお話をされても私どもは構いません。ただあの「放蕩息子」と呼ばれている聖書のお話だけはよしてほしいのです…」。所長からそう言われた牧師はびっくりして「なぜそのお話だけはだめなのか…」と理由を尋ねてみました。すると刑務所の所長は「ここに来る牧師のほとんどが必ずと言ってよいほど「放蕩息子」の話をするのです。だから、私たちもさすがに別の聖書のお話を聞きたいと思っているのです」。

 このお話が多くの説教者たちを通して説教の箇所として選ばれているのは、私たちに対する神の愛をこのお話が明確に語ってくれているからだと思います。イエスはたとえ話を語る名人と呼ばれてもいます。イエスは何時でもその話を聞いている人々の身近な話題を用いて、神の国の真理を巧みに伝えることができたのです。ですからむしろイエスのたとえ話には人の解説などを加える必要はないのかも知れません。しかし、それでは私が説教者としての役目を果たすことができなくなってしまいます。ですから私は皆さんと共にこのお話に耳を傾けるつもりで今日のお話から学んでみたいと思うのです。


②ファリサイ派の人々のイエスに対する不満

 まず、最初にイエスがこのお話を語った状況とその理由について聖書は次のよう説明しています。

「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした」(1~3節)。

 ご存知のように聖書に登場する「罪人」は刑務所に入るような犯罪者とは違います。聖書が教える神の掟、つまり律法に従うことのできない人々を聖書は「罪人」と呼んでいるのです。そして「徴税人」はその罪人の代表格と言われるような存在と言ってよいと思います。さらにここに登場するファリサイ派の人々や律法学者たちは「自分たちほど神の掟にまじめに従っている者は他にはいない」と考えていた人たちのことです。ところがイエスは、このファリサイ派の人々が普段から蔑んで、近寄ろうともしなかった罪人たちと仲良く食事をしたのです。ですから彼らはそれを問題と考えました。さらに彼らは自分たちの不満が爆発させ、その攻撃はそのままイエスに向けて行ったのです。

 そこでイエスが彼らに語ったお話がこのルカによる福音書の15章に記される「見失った羊」のたとえ(4~7節)と「無くした銀貨」のたとえ(8~10節)、そして「放蕩息子」のたとえという三つのお話です。この三つのたとえ話に共通するテーマはいなくなったもの、なくしたものを再び見つけ出したことがその当事者たちにとってどんなに喜ばしいことになるかと言うところにあります。

 ここで「放蕩息子」のお話の最後に登場する兄のことを先に語っておくと、彼は弟息子が帰って来て喜ぶ父親に次のように語っています。「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません」(29節)。これはまさにイエスを攻撃するファリサイ派の人々や律法学者たちの心情を代弁していると言ってよい言葉です。彼らは自分たちが誰よりも神に近く、またその神の掟を厳格に守っていると信じていました。しかし、彼らはこのたとえ話に登場する兄息子と同じように、罪人たちが神の元に帰ってくることを喜ぶことができないでいたのです。


2.放蕩息子?、失われた息子?

①息子の要求に答える父親

 さてこの放蕩息子のたとえではまず二人の息子の弟の方が父親の存命中に「その財産を譲りうけたい」という願うところから始まっています。父親が生きているうちに、その財産を欲しがるというのは当時も常識では考えられないことでした。しかし、この父親は弟息子の言いう通りに自分の財産を彼に分け与えています。興味深いのはこのたとえ話に登場する父親は息子たちに対して何も要求しない人物として描かれている点です。「育ててやった恩があるのだから、老後は自分の面倒を見ろ…」とか、「息子なら、もっと父親を尊敬しろ」などと言うことは一切、息子たちに語っていません。この父親が唯一望んだことはいなくなった弟息子が帰って来たことを喜ぶ自分の思いを兄息子に分かってほしいと語ったところです。

 信仰とは私たち人間が神の語る様々な要求に答えて生きることだと私たちは考えがちです。しかしこのたとえ話を読むとむしろ私たちが神と喜びを共にすること、神と共に喜びながら人生を送ることを神は求めておられることが分かるのです。


②全財産を使い果たす弟息子

 さて弟息子は自分の願いの通り父親から財産を受け取ると、それをすぐ現金化して懐に入れ、はるか遠い国へと旅立ちます。そして彼はその町で父親から貰った財産で放蕩を尽くし、挙句の果てにはその全財産を使い果たしてしまうのです。今日の説教題でもこのお話を「帰って来た放蕩息子」としました。それは私たちが今読んでいる新共同訳がこのテキストの部分につけている題名をそのまま採用したからです。調べてみるとこの「放蕩の限りを尽くす」(13節)と言う言葉の元々の意味は「救いのない生き方をする」と言う意味になるそうです。この言葉の通りに弟息子は自分の持っているものを自分の救いのために用いることができませんでした。このような意味でこの弟息子の生き方は私たちに警告を与えているのかも知れません。自分の人生を私たちは何のために使っているのでしょうか。この世でどんなに豊かな生活を送ることができたとしても、その生き方自身には救いを見いだせないとしたら、私たちもやがて自分の人生を使い果たした放蕩息子と同じ運命をたどることになります。

 実はこのたとえ話は「放蕩息子」ではなく「失われた息子」とか「いなくなった息子」と言う題名で呼ぶ方が正しいとされています。なぜならこのお話を「放蕩息子」のたとえと呼んでしまうと、彼が父親から受け継いだ財産を無駄使いしてしまったのが最大の問題のように思われてしまうからです。そうなるともし、この息子が遠い町でその財産を有効に使って、商売をして大儲けをしたらよかったという結論になってしまうかもしれません。しかし、この同じ15章で語られている「いなくなった羊」と「無くした銀貨」のたとえでも分かるように、この息子の問題は本来彼がいるべき父親の元から離れてしまって、そこからいなくなってしまったと言うところに最大の問題があるのです。彼が自分の財産を放蕩で使い果たしてしまうのは、彼が本来、いるべき父親の元から離れてしまったことの当然の結果だと言うことができるのです


➂我に返った弟息子

 さてこの弟息子の人生の大転換は、父親からもらった財産をすべて放蕩で使い果たしてしまったとき、彼の人生に最大の危機がやって来たときから始まります。遠い町で財産を使い果たしてしまった彼には頼れる場所がどこにもありません。彼の元に集まっていた人々は、彼の財産に関心があっただけで、彼自身には関心がなかったのです。おまけにその地方にひどい飢饉が起こります。そうなると皆、自分が生きていくことだけで精一杯で、他人のことなど考える余裕はありません。結局、彼は自分が食べるものにまで不自由をすることになり、深刻な飢えを抱えて苦しむことになります。聖書は彼が豚の世話をすることになり、その豚の餌にまで手を出しかねないような状態になったと説明しています。聖書の世界では豚は汚れた動物と考えられています。ですからこの表現は彼が落ちるところまで落ちた惨めな人生を送っていたことを表しているのです。

 そこでこのたとえ話は彼が「我に返った」と言っています。つまり彼はここに至って初めて自分の人生の本当の姿を悟ることができたと言うのです。それでは彼が気づいたことは何だったのでしょうか。我に返った彼はこう語っています。

「父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ」(17節)。

 彼は「父のところ」をここで思い出しています。そして「そこにいれば誰もが食べることに困ることなく豊かにくらすことができた」と言うのです。だから、自分が今「ここで飢え死にしよう」としているのは、自分がこの父の家から離れてしまったことに原因があったことを彼はここで初めて気づいているのです。

 イエスはこのような簡単なたとえ話を使って私たち人間が抱える最大の問題をここで指摘しています。そして私たちが「救いのない生き方」から解放されて、本当に祝福された生き方を送るためには、私たちが本来いるべきところに戻らなければならないと言うこと、私たちが私たちの父である神の元に帰ることが必要であることを教えているのです。


3.父親の態度

 さて自分の過ちに気づいた弟息子は「父のところに行こう」(17節)と決心します。もちろん彼は自分が父親に対して犯した深刻な罪の重さを痛感していますから、もはや息子と呼ばれる資格を持ちえないことを認めています。その上で彼は、父の家の使用人の一人として使ってほしいと考えて父の家へと帰って行くのです。そしてイエスは彼とその父親との再会の場面を次のように物語っています。

「ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(20節)。

 父親が弟息子の帰宅を事前に知らされていたという記述はどこにもありません。ですから、この帰宅は突然の出来事であったと言えます。それなのに父親は彼がまだ遠く離れているのにその姿を認め、憐れに思い、走り寄って行ったと言うのです。おそらくこの表現から父親が毎日、弟息子の帰りを待っていたことが分かります。

 そもそもこの弟息子は自分で勝手に家を出て行ったのです。遠い国に行ってそこで財産を使い果たしてしまったのもすべて彼の責任です。しかし、そのような弟息子の姿、おそらく痩せこけて疲れ果て、まったく変わってしまった姿を見てもはっきりと父親は「自分の息子だ」と気づいています。そして息子の元に慌てて駆け寄って行く父親の姿を通してイエスは私たちの父なる神の姿を私たちに教えてくださっているのです。

 私たちが今のような惨めな姿になってしまったのは、自分が犯した罪の結果です。自分で本来いるべき場所である父の元を離れて、救いのない人生を送ってしまっていたのです。しかし、父なる神はその私たちを決して見捨てることはされないのです。むしろ私たちの方に駆け寄って、私たちを抱きしめて自分の元に迎え入れてくださるのが神の姿だとイエスは教えてくださっているのです。

 ここには私たちを救うために救い主イエス・キリストを私たちのために遣わしてくださった神の姿勢がはっきりと示されています。神は決して私たちを忘れてはいません。私たちを一刻も早く自分の元に取り戻したいと言う思いを持って神の子イエスを私たちの元に与えてくださったのです。

 弟息子と再会することができた父親は大喜びして彼の帰還を祝う宴会を開催します。そしてその席で父親はこう語ります。

「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」(24節)。

 私たちもかつては罪によって神の前では死んだ者と同じ存在でした。しかし、今や私たちのためにイエス・キリストが遣わされ、十字架の死を通して私たちの罪を解決してくださり、私たちをその復活の命にあずかる者としてくださったのです。そして私たちは今、神によって見つけ出された者としてこの礼拝に集っています。徴税人や罪人と食事まで一緒にしたイエスの姿は、今もこの礼拝を通して毎週再現され続けているのです。ですから私たちもこの礼拝の中で私たちのような放蕩息子の帰還を何よりの喜びとしてくださる神の喜びを覚え、その神に感謝をささげたいと思うのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.ファリサイ派の人々や律法学者たちはここでイエスが何をしたことを問題にしていますか(1~2節)。

2.イエスのたとえ話に登場する弟息子は父親に何を願いましたか。また、実際にその願いが実現すると彼は何をしましたか(12~13節)。

3.さらにこの地方に飢饉が起こった結果、彼はどのようになりましたか(13~16節)。

4.人生の危機の中で「我に返った」彼は、何に気づきましたか。また何をしようと考えましたか(17~19節)。

5.父親は遠く離れていても息子の姿を発見すると何をしましたか。(20節)。その上で父親はこの息子のために何をしようとしましたか(22~24節)。

6.畑から帰って来た兄はこの出来事を知りどうなりましたか(26~28節)。そして彼は父親にどのような抗議をしましたか(29~30節)。

7.父親はこの兄の抗議にどのように答えましたか(31~32節)。

8.このたとえ話から私たちは私たちのために御子イエス・キリストを救い主として遣わしてくださった神の御心をどのように理解することできますか。

2025.3.30「帰ってきた放蕩息子」